私は、本書で、特定の史観やイデオロギーを主張、宣布しているのではない。結論を出したいのではなく、問いを出している。
ー あとがきより
書籍情報
書籍名:『永遠の0』と日本人
著者:小川榮太郎
出版社:幻冬舎
レーベル:幻冬舎新書
発売日:2013年12月12日
購入日:ー
読了日:2014年08月24日
レビュー日:2014年08月24日
目次
はじめに
第一章 戦争は単なる悪なのか ー 映画『永遠の0』が照らし出す亀裂
あの日、真珠湾は美しかった
最初に見終えての感想は「憤り」
甘ったれのヒューマンドラマ?
二度目にして辿り着いた感動
限りなく美しい空戦シーン
戦争は単なる悲惨な絶対悪なのか
零戦は日本人の美学の象徴だった
岡田准一の非の打ちどころのない名演
戦争経験者でもある老優たちのリアリティ
命を惜しんでいたはずの宮部がなぜ?
暗示される葛藤、狂気、そして出撃
物語の終わり
万言を費やしても説明できない真実
戦争の不条理を引き受けて生きるということ
我々の人生の空疎さが問われている
照らし出された亀裂
第二章「戦後日本」の美しき神話 -映画『風立ちぬ』のアンビバレント
宮崎映画は「戦後日本」の神話である
平和と流血の矛盾から目を背けてきた日本人
「戦後日本」に守られて見続けた夢
「風の谷のナウシカ」における文明への懐柔
『永遠の0』前史と悲恋の融合
戦闘機を描きながら戦闘シーンが全くない
画面から溢れ出す色彩のマジック
歴史から逃げてしまった宮崎
零戦開発はなぜ必要だったのか
歴史的実在たる堀越への冒瀆
「後進国による無謀な戦争」ではなかった
「この国のおかしさ」は描かれたのか
「日本の少年」と「国家忌避者」の相克
人間宮崎駿の葛藤を抱え込んだ映画
第三章 偽りと不振の日米関係 -縮図としての映画『終戦のエンペラー』
見れば見るほど奇妙な映画
俳優・スタッフたちの驚くべき無知
正義のアメリカが日本軍国主義を裁くという構図
日本に戦争を仕掛ける野望はなかった
アメリカの戦略と日本の政治不在
不可避だった開戦、そして敗戦
アメリカは本当に最後に笑ったのか
大東亜共栄圏構想の真の意義
百二十万の市民を殺戮したアメリカの狂気
東京裁判は「文明の裁き」などではない
映画で描かれる廃人東条は完全な嘘
捏造されるマッカーサー像
日本人は敗れても誇りを失っていなかった
日本人を精神的に屈服させようとしたGHQ
正義の名を借りた史上空前規模の言論弾圧
白人による独断と誤りに満ちた日本理解
昭和天皇の全責任発言はあったのか
マッカーサー回顧録が図らずも物語ること
全く史実に反する会見シーン
「偽善に満ちた戦後日米関係」の戯画
第四章 「戦後」からの決別 -小説『永遠の0』の奇跡
映画では隠された小説の科白
百田尚樹のダイナミックな歴史観
平成版、戦う男たちの物語
おめでたい思考停止への糾弾
「帝国海軍の恥さらし」という宮部の自己認識
映画で描かれなかった「敵を殺す宮部」
「生き延びる努力」の真意
宮部はなぜ特攻を志願したのか
初めて誕生した「大東亜戦争」が主人公の小説
第五章 特別攻撃対とは何だったのか
世界の戦史に例を見ない戦術
こんな二十歳の青年が存在した社会があったか
人類社会に潜む大量虐殺と残虐さへの衝動
人間的狂気の最も対極にあった作戦
日本の戦争のあまりに潔癖な美学
現場も求め、望んでいた作戦
どのように敗北するかという深い悩み
昭和十九年十月、ついに作成発動
大西中将はなぜ特攻に固執したのか
五百年後、千年後の民族再興の灯として
終戦工作の不在を若者の死で購った理不尽
実際には圧倒的な戦果を挙げていた
特攻がなければ本土は蹂躙されていた
隊員たちの真情を知る難しさ
「遺書は本音ではない」と言うことの心なさ
「空からお別れすることができることは、何よりの幸福」
「死に行く事すら忘れてしまひさうだ」
これ以上ないほど命を生き切っている
八月十六日未明、大西中将自決
あとがき
参考文献
感想・備忘
2014年当時に記載したレビューを転記します。
お盆に帰省したとき、買ってみました。
終戦のエンペラー、永遠の0は映画館で、お盆の前にちょうどDVD「風立ちぬ」を観たところだったので、いいタイミングだなーと。
「妻と娘のために必ず生きて帰る」と言い続けながら特攻を志願した、『永遠の0』の主人公・宮部久蔵。その強烈な生と死は、「特攻とは何だったのか」「日本人はなぜあの戦争を戦ったのか」という、我々が向き合うことから逃げてきた問いをつきつける。映画『永遠の0』から、『風立ちぬ』『終戦のエンペラー』、小説『永遠の0』、そして特攻隊員たちの遺書へ。丹念な読み解きを通して、「戦後」という外から与えられた平和の上に安穏と空疎な人生を重ねてきた日本人に覚醒を促す、スリリングな思索の書。
(カバー裏表紙より)
著者の小川榮太郎氏は「創誠天志塾」という団体の塾長だそうで。
「創誠天志塾」のHPはなんだかエラーやら2012年でブログがストップしてしまっていますが、Facebookは今現在も更新中で、トップに理念等も記載されているので詳細はそちらを。本職は文芸評論家だそうです。
本書は、各章ごとに、小説『永遠の0』や、映画化された『永遠の0』、宮崎駿監督の長編アニメ引退作品となった『風立ちぬ」などを取り上げているが、通常の意味での、いわゆる評論とはいささか違う
はじめに p12
見城社長は、おそらく、もう少し映画を見る人たちにとって有益で簡便なガイドブックをイメージしておられたかもしれないが、私の一存で、勝手極まる批評作品にしてしまった。
あとがき p255
と、述べられている通り、一読した感想は、映画評論とも歴史解説ともいいがたく、では感想本?といってもまた違うこの本…。2013年が伊勢、出雲、熱田の神道聖地で重大行事が重なったことや、出版業界不振のなか、小説「永遠の0」の空前の大ヒット、また上述の3作の映画が公開されたことをうけ、
本書は、そうした時代状況の中、上記の諸作品を読み解きつつ、その読み解きを通じて、大東亜戦争とは何だったのか、また、その敗戦から生まれた戦後日本、その延長にある私たちの現実とは何なのかを見つめ直す試みである。
p17
ということで、小説や映画、文芸作品と史実は切り離して考えるようにしている私としてはちょっと感想の落とし所が難しい本でした。あと安倍さんヨイショがこの本もちょこちょこ出て来て、「ここではいらないんじゃ…」と思うところもあったけどそれはご愛嬌。
○第二章「風立ちぬ」のまとめ
宮崎映画は美しい。でもその美しさはまさに「戦後日本」が生んだ矛盾のなかに生まれたものである。宮崎駿は、「大東亜戦争」の歴史から正面向き合って作品をつくること、歴史をみることから最後は逃げてしまった…という感じ。この作品を通して、「戦後日本」のおかしさに気づかされる。
<感想>
私は「風立ちぬ」観たときは、「ジブリの話じゃないみたい…」と思いました。
宮崎さんがなにかで話していたけれど、宮崎さんのアニメーションというのは、子どもの目線なんだと。子どもというのは作品全体、ストーリーというものにはあまり重きを置いていないし、忘れてしまう。でも一瞬一瞬の「シーン」は覚えている。小さい頃に観た映画での「あのシーン」が忘れられないものだから、自分の作品はそういった一瞬一瞬のシーンでできているんだと。
今は大人になったので、トトロや魔女の宅急便の「全体的な意味」みたいなものとか、色々作品が伝えてくるメッセージみたいなものに思いを巡らしますが、確かに私も小さい頃は漠然と、「サツキとメイがキャラメルを並べるシーン」とか、「キキがおねえさんから丸いガムを両手にこぼれそうになりながらもらうシーン」とか、なにか「!!」って気持ちがワクワクした好きなシーンで頭がいっぱいだったなぁ…と。前後は全然覚えていなくて。
もののけ姫は、静かで、でも激しい「怒」「悲」みたいな感情がドーンとぶつけられる、個人的にはナウシカと同じ気分になる作品だったのですが、風立ちぬも似たような。でももっと、切なく、声を出してどこかに感情をぶつけることができないような、内側で大きくなるお話だったなーと。特に「日本の少年」って何度も主人公が呼びかけられるのが、すごく違和感。「ロシアの少年」とかでもなんでもいいんですけど、ジブリの話って、もののけ姫でも、「もののけの姫」って呼ばれてたサンを、アシタカは「サン」って呼ぶ。それ以降ってもう、サンは「サン」という一人の少女で、作中でも「もののけの姫」っていう呼称がなかったような気がするんだけど、堀越は「堀越次郎」と「日本の少年」を行き来するのです。一人の「堀越次郎」と、不特定多数の「日本の少年」。解釈あってるかあってないかは関係なく、小川さんの「歴史から逃げてしまった」ではないけど、個人的にはすごく、このお話のなかで次郎という存在が、なにかから目を背けてるような気がして、寂しくなりました。同時に宮崎さんが「日本の~」を使うことにしたことにちょっと驚きだった。
○第三章「終戦のエンペラー」のまとめ
ハリウッド映画で日本の終戦の事実を描く…。と謳われた作品に対するスタッフたちの実際の歴史認識はどんなものか。なぜそうなったのか。大東亜戦争の真の意味と、「戦後日本」を貫くために守られてきたものを詳らかにする…という感じ。
<感想>
この章は、もう、ものすごく読んでスカっとしました(笑)
この映画ね!!ほんとにツッコミどころ満載過ぎてもう、当時観て悶々としていたのですよ!!
(当時人を誘うに中身的に躊躇したので、一人でレイトショーに行ったら、5人くらいしかいなかった…)
観る前は、関屋貞三郎の孫娘が関わってるくらいだし、監督とかのスタッフも何度も来日して、調査して、皇居での撮影も許可されちゃうくらいだからさぞ…!さぞ…!!と期待していたのですが…
フィクションならフィクションとして面白い話にして…!!
史実アピール中途半端にしないでさ…。あんな売り文句やられたら、そりゃフィクションなんだけど、え、売り文句は…??みたいな…なにあの消化不良。
良かった点は皇居内部が見れたことぐらいでしたよ全くもう…。
○第一章 映画「永遠の0」、第四章 小説「永遠の0」のまとめ
小説「永遠の0」は、初めての「大東亜戦争」の歴史小説。司馬遼太郎も描けなかった、「戦後日本」から脱した。そして映画「永遠の0」は、小説に100%忠実ではないにも関わらず、小説が伝えようとしたメッセージを、「映画」という形で最大限に描いている。
<感想>
4章、30Pと、本書のなかで一番ページ数が少ないです。
「永遠の0」は、私は小説を読んでいないので、そういった意味ではものすごく「へー!」となる部分がたくさんありました。(宮部が敵兵を殺すところとか、志願兵だったとか)
多分この本を読んで一番「読んで良かった!」と思ったのは、第一章 映画「永遠の0」の下記の解釈。
映画は、一機の特攻機がアメリカの軍艦に向かって突撃する衝撃的なシーンで始まる。画像も音声も戦時中の実写だ。
p30
ところで、肝心なことなのだが、中途で途切れた、冒頭特攻気の突撃場面には、実は続きがあるのである。映画の最後だ。映画は、そこまで戦争と現代の場面を往復しながら、おしまいに現代の場面で謎解きを終え、大団円を迎える。そして最後に再び、アメリカ艦に突入する特攻機を映し出す。だが、冒頭とは違い、今後は搭乗員が誰だか分かっている。宮部久蔵だ。冒頭の場面を引き継ぎ、宮部機はいよいよアメリカ艦に接近し、猛烈な鉄砲撃の嵐の中を突進するのである。
つまり、冒頭の特攻機突撃の場面はまさに宮部久蔵の死の数秒前のシーンなのであった。だから、画面が突如最愛の妻であった松乃の葬儀へと切り替わることは、二人が死によって一つになることを意味していたのであった。そしてまた葬儀で、夏八木演じる後の夫が慟哭するのは、彼もまた、二人の愛の深さを知り、彼らが死によって一つになったことへの無限の灌漑に打たれたからだったのである。
こうして冒頭の突撃は、死を媒介にして、彼がたった一人愛した女、松乃に繋がると友に、ラストシーンに繋がり、映画全体を宮部の特攻突撃による死で覆い、構造化する。p31
正直、松乃さんと一つに…とかの解釈はしっくりこなかったのですが、この、最初と最後の宮部が繋がってた、というのはものすごい面白いと。
ただ一つ「??」となったのは、宮部が特攻を志願した理由というか経緯。第5章を読むと、なぜ小川さんがこの解釈を書いているのかほんとに分からないのですが、もしかしたら意図的に書いているのかしら…。
「何人死んだと思ってる!直掩機は特攻機を守るのが役目だ。たとえ自分が墜とされてもだ。しかし俺は彼らを見殺しにした」(『永遠の0』)
だが、宮部が特攻機を守り抜けたとしたら、その先どうなるか。敵艦に激突して即死するのである。要するに、宮部が守り切れずに、敵に撃墜されるか、宮部が守り切り、敵艦に激突して死ぬか、どちらかだ。
だから、宮部のこの激しい絶望は、若者の死そのものへの痛みではもはやない。「命を大切にしろ」と言った宮部はここにはいない。「お前も人殺しになれ」と言う宮部がいる。英雄の死の代わりに、彼らを次々と、単なる自爆死させた悔いが宮部を異様に苦しめている。このとき、宮部の合理主義は、若者に軍人としての死を死なせ、自らもそうした死を選ぶという死の論理に、無意識裡に転換しているのである。
もはや、宮部に葛藤はない。特攻志願が決意される。若者の死の上にこれ以上生を貪ることはできないからだ。こうして、死は彼の生にとってどうしても必要な倫理的責務になる。p188-189
○第五章
第五章は、特攻隊とは何だったのか。歴史資料などを元に、筆者の見解が述べられる、今までの章とは異なるものです。
この章を筆者は特攻作戦の発案者、大西瀧治郎中将を軸として進めていますが、以下の文を引用しています。
大西があえて特攻に固執した真意は何だったのか。これについて、『修羅の翼』の著者、角田和男が大西直属の参謀長小田原俊彦中将から直接に聞いた話として以下を伝えている。(p215)
(※略)
長官は、特攻によるレイテ防衛について、
「これは、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。ではなぜ見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは、万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば必ず戦争を止めろ、と仰せられたるであろうこと。
二つは、その結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下自らの御仁愛によって戦さを止められたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。p218-219
特攻は作戦としては利にかなっていないと思うのです。
けれど、上記を目的にしたときは、あの局面でほんとうに、これしかない、という作戦でした。その詳細は本書の五章を直接読んでいただきたいですが、これをもってするなら、「永遠の0」の宮部の特攻決意も、もしかしたら、と思うのです。百田さんがこの話を知らないわけはない。
現に、(小説読んでいないのでこれも本書で知ったのですが)、四章の「映画で描かれなかった「敵を殺す宮部」」で、引用されている小説の宮部の言葉。
「米国の工業力はすごい。戦闘機なんかすぐ作る。我々が殺さないといけないのは搭乗員だ」
これを宮部が言っているということは、宮部が特攻を選んだ真意というのも、やっぱり四章のような、「生の上に死を貪る」という罪悪感ではないと思うのです。
○「永遠の0」の感想 まとめ
ちょうどこの本を読む前に帰省先で父と仕事の話をしていて、白熱してきた父が終戦の話にまで飛火したとき、「企業にとって一番大事なのは人材だ。人を育てる企業が減りすぎた。戦争も一緒だ。戦闘機作るのは3カ月もあればできる、でもパイロットは2年かかる。日本はパイロットを殺しすぎた。パイロット以外の優秀な人材も死に過ぎた」と。
話がよじれ過ぎてるけど、なるほどなー、と個人的にすごく腑に落ちた。
「永遠の0」の宮部というのは、或る意味ものすごく軍人として達観していた人なんじゃないかなーと思ったのです。彼はこの戦争に「勝つ」ことをきちんと最終的なゴールとして認識していた。
だから逃げて(生き延びて)いた。
でも多分、特攻の意味を彼は最初知らされていなかったのだと思うのです。(上述の角田和男の話でも、真意は上層部の一部しか知らなかったというし)
だから絶望した。なんの意味もない、勝つこととは真逆の、ただ命を捨てるだけの作戦に従事する。
けれど多分、かれは真意を知ったから、特攻に志願したんじゃないかと。
敵に一機でも多くの損害を与えて、可能な限り有利な講和条件にもっていきたい。陛下に終戦の聖断をいただきたい。欧米の奴隷とならず、家族を、国を生き残らせたい。
もうそれしかないのだとしたら、大河よろしく、宮部の「命の使いどころ」はここだろう、と。間違いなく、一番大きな獲物を仕留めることが自分にはできる。宮部はそう思っていたと思うのです。
映画の最後のあの笑みは、「特攻」という作戦の真意を彼が理解していた結果のものなんだろう、と。
特攻隊の死は日本人の再興の原点となる。「永遠の0」の「ゼロ」には、零戦の「零」と、原点の「0」が重なっているんじゃないかなぁ。
○本書の感想
さて、筆者は、「永遠の0」の最初と最後が繋がり、宮部の死によって構造化されている、という解釈を出していました。
本書の冒頭には、とある書の一文が引用されています。そして締めの第五章の最後、大西中将の自決とその遺書で幕を閉じています。
これを繋げると、「文芸評論家」の筆者が「『永遠の0』と日本人 」にこめた、強烈なメッセージが浮かび上がるので、最後と最初を引用させていただきます。
はたして宮部の、大西中将の、名もない多くの人々のつないだ今、「日本民族は再興」したのでしょうか。
大西の遺書は、全特攻隊員の遺文を受けて書かれた熟慮と断念と若者への激しい愛情の血で書かれた絶唱である。百遍の熟視、味読に値する。
論評せずに全文を引いておこうと思う。本書そのものが、読者がこの遺書を味読するための用意だった、そう言ってもかまわないとさえ思われるからである。特攻の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉弾として散華せり
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡どもならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ
諸子は国の宝なり
平時に処し猶ほ克く特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽くせよp250-251
…時は昭和三十三年
「なぜいにしえの日本に興味をお持ちですか?」
「武士道なるものを興した日本民族が、騎士道を興した我々フランス人にとって、どうして無意味なはずがございましょうか?」
しばし、間。昭和天皇は、またも絨毯に視線を落としておられるが、
「ああ、そう… あなたがこの国に来られてまだ間もないということもあるでしょうけれど。しかしあなたは、日本に来られてから、武士道のことを考えさせるようなものをひとつでも見たことがありますか?たったひとつでも?」― アンドレ・マルロー『反回想録』 竹本忠雄訳
ここから2024年の感想です。
本書は紙媒体で当時購入し読んでいたのですが、今本棚を探したところ同書が見当たらなかったので電子版で再購入しました。
2014年当時のレビューで、引用文内に誤字があったので当該箇所を修正しています。
こういうとき電子だと即日購入して読める&OCR対応していて検索が楽で助かるのですが、やっぱり紙媒体のほうが個人的には好きですね。
永遠の0については映画を見た際の感想を以下にまとめています。
印象に残ったところ
コメント