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【読書記録】活きる

ただで埋めてもらおうというわけではない。枕の下には十元札を忍ばせてある。この十元は、たとえ餓死しても使うわけにいかないのだ。村の人たちは、この十元がおれを埋葬する者に与えられることを知っている。おれを家珍たちと一緒に埋めることも知っていた。
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書籍情報

書籍名:活きる
著者:余 華 (著)/飯塚容 (翻訳)
出版社:KADOKAWA
レーベル:ー
発売日:2002年03月01日

購入日:ー
読了日:2016年07月14日
レビュー日:2016年07月14日

 

目次

「活きる」
「活きる」日本語版あとがき(余華)
解説(飯塚容)

 

感想・備忘

2016年当時に記載したレビューを転記します。


老人は語る。
朗々と歌い上げる民謡に想いを込めて、時には笑い、時には涙を流しながら、自らの過去を語る。
地主の放蕩息子はバクチに身を滅ぼし、親を亡くし、国民党軍に徴用される。
飢えと戦闘の中で命を取り留めながら、解放軍の捕虜となり、ようやく家に戻れば降りかかる数々の病苦と災難…。
その苦しみは想像をはるかに超えて苛酷だった。
しかし、その人生を語る老人の姿は魅了されるほどに潔い。
四十数年の時を経た今、老人が口ずさむ歌には、生き続けることの意味が重く響いている―。
(カバーより)

中国で二十万部を超えるベストセラーとなり、チャン・イーモウ監督により映画化された同名作品の原作小説。
私は映画を観ていないのですが、原作とだいぶ変わっている部分があるようなので、この作品は小説のままで留めておこうかなと思います。

今年に入って近代中国を少し学びなおしていたとき、知り合いからすすめられていた1冊です。
絶版になっているため、ちょっと値が張りましたがAmazonで購入。
そもそもすすめられた経緯が、文化大革命の悲しいあれこれの話をしていて、「そのあたりが描かれているよ。あまりに救われない話だけど…」というものだったので覚悟して読んだのですが、私としては思っていたよりショックは少なく(WW2あたりの記録書などで免疫ができていたようです)、むしろ想像以上に、文学作品として非常に良いものを読めたなぁ、という読後感でした。

民間歌謡の採集に農村を訪れた「ぼく」に、一人の老人がその人生を語る…といった視点をとるこの作品は、1992年に中国で出版されました。
作品の冒頭で「ぼく」は、いまから十数年前、と語っているので、おそらく1980年前後が聞き取りをおこなった時点、文化大革命が終結して数年がたった頃、と考えてよいでしょう。

内容を端折ってつらつら端的に列挙してしまうとこのような。

***

老人の名は「福貴」。
名前の通り、地主の子と生まれ、美人の嫁をもらって、若い頃は苦労をせずに過ごしていました。
ところが、放蕩に拍車がかかり、バクチで大負けしてしまったところから、彼の人生は変わっていきます。
家は没落し、父は死に、母が病気になったのでナケナシの金銭をもって町へ医者を呼びにいったら、そのまま国共内戦の軍隊に徴兵されて2年。家族に一言も残せないまま戦地ですごし、その間に目の前で死んでいく多くの兵隊。
なんとか帰路についてみれば、母は亡くなっていた。さらに「土地改革」によりかつて自分が借金のかたに土地を売って地主にとって代わった男が銃殺される。

「福貴、おれはおまえの身代わりで死ぬんだぞ」

この事件で、「福貴」は度胸が据わった、という。すべては運命だと。
その後、病気のため口がきけなくなってしまった娘を、その弟である息子を学校へ行かせる資金を捻出するため、里子に出す。(けれど、しばらく経ってこの娘は逃げ出して戻ってきてしまい、最終的に「福貴」はそのまま、妻と息子とこの娘と、4人で暮らしていくことを選択)

しかし、「大躍進政策」がすすんでいくなか、妻が病気にかかり、野良仕事ができなくなってしまう。
また、息子が県知事の妻の出産のために採血に行ったところ、過剰に血液を抜かれて命を落とす。
悲しみが続いたなか、娘が結婚し、子どもができるということもあったが、またこの娘が出産で、弟と同じ病院で命を落としてしまう。それに続けて、ついに妻も亡くなる。

「福貴」は、残された娘の夫である婿と、その子(孫)と3人で暮らすが、婿は仕事中に事故にあい、亡くなってしまう。幼い孫を引き取って苦しいながらも生活し、孫は7歳になった。しかし、この孫も亡くなってしまう。

それから数年経った「そのとき」、老人は「ぼく」に、その人生を語っている。

***

最初に読んだあとの正直な感想は、「想像していたよりも辛く悲しく、救いようのない話ではなかった」、というものでした。
上記で羅列したものをどう感じるかは人それぞれだと思いますが、私には少なくとも、「歴史の凄惨さ」やそれに翻弄される民衆の「悲しさ」よりも、もっと別の余韻がありました。
(個人的には、なにに近いかと言われてあえてあげるなら、藤沢周平の作品を読んだあとの読後感が最も近いのではないか、と。)

そして多分、著者が作品で表現したかったメッセージを、私にしてはかなり珍しく、きちんと受け取れたのではないか、と思います。
そう確信したのは、「あとがき」に寄せられた著者の下記の言葉。

『活きる』について言うなら、生き続けるというのは自分の人生を実感することであり、生き残るというのは傍観者が他人の人生を観察することなのです。『活きる』の福貴は苦難の体験者ですが、自分の物語の語り手でもあります。私は一人称を用いました。福貴の語りの中に他人の視点は必要ありません。必要なのは彼自身の実感であり、だからこそ彼は生き続けることを語るのです。もしも三人称を用いて、他人の視点を入れたとしたら、読者の目に映る福貴は苦難の中で生き残った人物となってしまうでしょう

p251

つまり、福貴は他人の目からすると苦難の人生を送っているが、福貴自身はむしろ幸福をより強く感じていると思うのだ。

p252

福貴を囲む人々の詳細はあえて書きませんでしたが、福貴はどうみても、周りの人に恵まれていると思ったのです。この手の話にありがちな、くそみそに意地悪で最後に裏切るような奴が一人もいません。正直すごい驚いた。
それはそうだったのかもしれませんし、あとがきを受けてさらに深読みをしてしまうと、「福貴」は、そう感じるものしか語っていないのかもしれません。

私は「長根」と「春生」の最後のエピソードがすごく好きです。この二人の「福貴」に対する態度(福貴が感じた彼らへの気持ち)で、じゅうぶんに「福貴」がどんな人であるのかが推し量れます。
だからおそらく、読後感は悲しさよりも、もっと別の感情が占めたのでしょう。

逆に最も「悲しい」と感じたのは、「苦根」が亡くなるときの話です。非常に短いのですが、ここが最も「福貴」が後悔しているシーンなのではないかと思いました。

この小説の原題「活着」は、「活きている」という意味だそうです。
「活きる」よりも、こちらのほうがやはり作品に合っている、と思えます。

 

印象に残ったところ

死ぬときは、安心して死ねばいい。あとの始末も心配なかった。村の人の誰か、埋めてくれるだろう。放っておけば、臭くてたまらないのだから。ただで埋めてもらおうというわけではない。枕の下には十元札を忍ばせてある。この十元は、たとえ餓死しても使うわけにいかないのだ。村の人たちは、この十元がおれを埋葬する者に与えられることを知っている。おれを家珍たちと一緒に埋めることも知っていた。
ー 244ページ

福貴の目に不思議な光が浮かんだ。それが悲しみなのか喜びなのか、ぼくには判断がつかなかった。福貴の視線はぼくの頭を越えて、はるか遠くに注がれた。
ー 226ページ

 

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