あの爆弾で私の家族も友人も死んでしまったのです。あなたや私のように罪のない人々だったのに。死ななければならない理由なんて何もなかったのに。私はアメリカを許しますが、忘れてくれと言われてもそれは無理です。
ー 44ページ
書籍情報
書籍名:トランクの中の日本:米従軍カメラマンの非公式記録
著者:J. オダネル (写真)/ J. オルドリッチ (著)/平岡 豊子 (翻訳)
出版社:小学館
レーベル:ー
発売日:1995年05月19日
購入日:ー
読了日:2017年08月26日
レビュー日:2017年08月26日
目次
戦争は終わった!そして日本へ。
「君の任務は上陸の模様をカメラにおさめることだ」
水平線に蟻のような黒い点々が現れ始めた。
あたりの空気はこげ臭く、空は淡い灰色にもやっていた。
その晩、招待を受けて市長宅を訪れた。
おもしろそうなものを見つけてはシャッターを切った。
「墜落した飛行士も気の毒な死者のひとりですよ」
福岡に海兵隊の新しい司令部ができることになった。
奇妙な老人の言葉を忘れずに。
なんとか現像してみよう。
雨の夜の惨事。
海岸線にはまだかなりの数の砲台が。
死の町広島を歩く。
ジープを捨てボーイにまたがる。
長崎の爆心地に立つ。
瓦礫の中に人骨が。
仮設病院の祈り。
彼らはリンゴの芯まで食べつくした。
子供たちの幸せな日。
少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。
廃墟と化したカテドラル。
帰国命令。
あとがき
感想・備忘
2017年に記載したレビューを転記します。
私はあの体験を語り伝えなければならない……。
1990年からアメリカで、ついで1992年から日本各地で彼の写真展は開催され、話題を集める。しかし、95年夏に予定されていたワシントンのスミソニアン博物館での原爆写真展は、アメリカ国内の在郷軍人の圧力でキャンセルされた。ここにおさめられた57点の写真は、スミソニアンではついに展示されなかった真実の記録である。
(本書帯より)
8月に入って流れてくる戦争記事をいくつか見ているときに目に入ったジョー・オダネル氏の「焼き場に立つ少年」。
この写真を知らなかったので興味を持ち、新刊と迷いましたが、古いほうの本書を購入してみました。
終戦直後、従軍カメラマンとして長崎、広島へ上陸したオダネル氏は、しかし1946年に帰国後、この写真のネガを自宅のトランクにおさめ、長い間開くことができませんでした。
二度と再び開くことはないだろうと思いながら蓋を閉じた。生きていくためにすべてを忘れてしまいたかったのだ。
(本書巻頭 読者の方々へ)
この想いを抱くに至った氏の心境は、本書の写真に添えられた、日記のような彼の回顧を見ていけば伝わってきます。
そこには、戦勝国の軍曹というより、痛みや貧困のなかにいる生身の人や死者、残された街を実際に歩いた「一人のアメリカ人」の、人間らしい葛藤が読み取れました。
広島や長崎の資料館のほうが写真の内容的にはショッキングで、あれをご覧になった方であれば特に気分を悪くしたりということは無いかと思います。
このお話しが残って良かった、と思ったのは、44-45ページに登場する、アメリカに住んでいたという老人の語った言葉です。
息子のような君に言っておきたいのだが、今の日本のありさまをしっかりと見ておくのです。国に戻ったら爆弾がどんな惨状を引き起こしたか、アメリカの人々に語りつがなくてはいけません。写真も見せなさい。あの爆弾で私の家族も友人も死んでしまったのです。あなたや私のように罪のない人々だったのに。死ななければならない理由なんて何もなかったのに。私はアメリカを許しますが、忘れてくれと言われてもそれは無理です。
p44
この老人が英語を話し、オダネル氏と直接会話ができたことも勿論あるでしょうが、「彼の言葉を聞いて私は動揺した。彼の言葉はその後何カ月もの間私の胸に残った。」(p44)と、重く響いたようです。
個人的にはこの老人の言葉は簡潔ながら非常に<この結果、どうしていけば良いのか>ということを言い表わしていて、名前も分からない一人の人の、この言葉が今に残って本当に奇跡じゃないかと。
<許す>と<忘れる>(なかったことにする)は別物で、これは近代史を見ていくととても大切な考え方なのではないかと思います。
世界情勢が緊張していますが、過去を振り返って、少しでも良いのでよりよい明日を築いていきたいものだと改めて思いました。
印象に残ったところ
あの爆弾で私の家族も友人も死んでしまったのです。あなたや私のように罪のない人々だったのに。死ななければならない理由なんて何もなかったのに。私はアメリカを許しますが、忘れてくれと言われてもそれは無理です。
ー 44ページ
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