【雑記】同じ本を何回も買ってしまう問題と舞台の話

タイトル通りなのですが、同じ本を何回も買ってしまうの、あるあるな方はだいたい仲間だと思ってしまいます。自分用のそんなつれづれとしたメモ。
書き終わって読み返したらものすごく長い話になっていました。

何回も買ってしまう本たち

  • 単純に持っているの忘れて買ってしまう
  • どこに行ったか分からなくて買ってしまう
  • 純粋にもう1冊欲しくて買ってしまう

同じ本が増えてしまう理由は人それぞれだろうとは思いますが、上にあげたのは全部あるなぁ…などと本棚を見ていて思いました。

好きでもう一冊買った本その1。高橋英夫さんの『西行』(岩波新書)。
都内にいた頃、引越をした先の部屋が狭すぎて本を置けずに倉庫サービスや実家に預かってもらっていたのですが、「やっぱり読みたい…」と本Amazonでもう一回ポチって手元に置いていました。
文学のほうの先生なので歴史学ではないという前提の内容なのですが、文章がとにかく美しいのです…。白洲正子さんの西行もいい感じだと思いますが、私は高橋先生の西行の描写がやっぱり好きだなぁ…と。
なんというか、対象の人物(西行)の内側(心情)を描くというよりも、その人の横顔や後ろ姿、庭の先に小さく見えるような、外側から見ている感じがすごくして、映画のようなのです。これ対象が西行じゃなかったらまた違うのでしょうけど、だからこそ好きだなぁ…。

 

好きでもう一冊買った本その2。銀色夏生さんの『夕方らせん』。
西行と同じ感じですが、本当は3冊買った。1冊は人に貸したら帰ってこなくなりました。よくあるので想定内です。これに収録されている「若草のつむじ」という話が好きで好きで、定期的に読み返してしまいます。
いまは銀色さんの公式HPにも掲載されるようになったので、いつでもどこでも読めるようになって嬉しい。

若草のつむじ(銀色夏生 ギャラリー)ー https://ginironatsuo.com/gallery/1.html

その3は福永武彦の『草の花』。
これも3冊買って同じ理由で1冊いなくなりました。私が押し付けて「読んでくれ」って言ったので想定内です。なんか数年に一回この本買い続けそうな気がするな…。

福永武彦との出会いと嗜好

これ高校の頃、現代文の自習プリントに毎回文学作品紹介みたいなやつが載っていたのですが、そこに第一の手帳の、火葬場のくだりがあって、なんだかどうしようもなくなってその後買って全文読んだのですが、全文読んだら第一の手帳あれがアレで「こんな話だったんか…」となった部分もありますが、やっぱり全編通して好きだわぁ…となります。
どこが抜粋されていたのかというと、ここ。

火葬場は木立に包まれ、炭焼き小屋に似ていた。僕は少し離れたところにいて、御坊が棺を運ぶのを見ていた。そして放心しているうちに時間が経ったらしい。低い煙突から煙が上がると、それは既に夕星の点々とする空に昇った。その煙は、人間のはかなさといったものなのだろう。が、僕の神経には、びりびりした生理的な不安しか与えなかった。
(略)
振り返れば、煙は次第に濃くなりつつある夜の空に紛れ、オリオンの星座が今にも風に吹き飛ばされそうに、中空に懸っていた。星影が既に薄氷の張った田圃の水に映り、ちらちらと明滅した。
その時だった、僕はふと思い出した。H村の岬の桟橋に妖しく燦いていた夜光虫の仄蒼い光を。それをじっと見詰めていた僕と、何にもならないのに、何にもならないのに、と繰返した藤木の言葉を。その記憶が、不意と落ちかかって僕の心を貫き、僕の足をよろめかせた。(略)
オリオンの星座が、その時、水に溶けたように、僕の目蓋から滴り落ちた。

二個目の略の部分がこのプリントから本編に行く際の伏線であったのでしょうが、これだけ読んでいた当時の私は、「何にもならないのに」的な部分は、火垂るの墓の「なんで蛍死んでしまうん?」的なニュアンスで受け取っていたので、もしこの記事から草の花を読んでみようと思った人に同じ衝撃を味わってほしいです。

昔、よしもとばななさんが、自分のみている景色と同じ世界が見えている人に出会うことをエッセイに書かれていたことがあったのですが、私は草の花というか、福永さんの作品を観た時にほんとうにそう思ったのでした。
同じ景色が見えている、というより、今思うと、自分が言葉にできないけれど感じていたことを、「見えるように」言語化してくれる人に出会った、ということなのかな、と。
福永さんの世界観はほぼ草の花に流れているものと変わらない気がするのですが、読む人によってはすごい嫌悪感というか、「なぜこんなにこいつ(主人公たち)は自分の世界に酔っているのだ?」ってなるんじゃないかと思うのです。が、私はその、そう思われている、多分どこか理解してもらえないかもしれないけど本人がそれを本当に美しいと思っていること、そしてやっぱり作品中でそれを分かちあえない(と本人たちは思っている)というところの行間から感じる、『孤独』の要素が本当にもう大大大好きなんです。

福永武彦の代名詞である「愛と孤独」の愛は、孤独であるからこそ成立するもので、ハリネズミのジレンマ的なものを感じてしまう。その滑稽さがまた愛おしい。
高校生の頃って狭い世界で思考する能力だけが伸びてくる、感性は豊かになってきたし刺激もそこそこ多いけれど、それをさばき切る能力がないゆえの『多感な時期』だと思うのですが、だからこそその時期に出会ったものの影響というのは大きいのだろうなぁ…と、小林英雄に影響を受けたとか太宰に影響を受けたという私より少し上の大人や、それこそ福永さんを見ていても「おそらくこういうことなのだろう」という追体験している感じがします。

 

その時だった、僕はふと思い出した。H村の岬の桟橋に妖しく燦いていた夜光虫の仄蒼い光を。

これ…。
歴史をやっていてもそうですけれど、私は何をやっていても最終的にはこの『追体験』が一番楽しい、おいしい、最高の娯楽と感じるタイプなので、点と点を繋いで線にするのはあくまでその手段でしかないのだな、と30越えてからようやく理解しました。何かを見て、何かと紐づけて、過去にもう一度立ち戻れる瞬間が好きすぎる。その瞬間に、そこからの今が修正されるの堪らないのです。時間とは存在せず、それは場所でしかないとは言い得て妙だな…などと思います。

 

読みやすいから文庫買っちゃったけど、装丁が違う版も揃えたくなってしまいます。
(上の本棚写真中の『風のかたみ』も出版社変わったからもう1冊買いました)

電子書籍と版違いのメモ

そういえば小学校の頃、学校にあった手塚治虫先生の『火の鳥』の大型本を見て、家にあった単行本、文庫本とセリフが違うということに衝撃を受けたのが「想定違う本」へのトキメキの始まりなのですが、あれめちゃくちゃウキウキしてしまいます。時代に言葉が殺されるパターンもあれば、作者の意図として改定される場合もあり。
版違いの考察たまに読むと面白過ぎて時間が足りなくなります。。。

最近だとゴールデンカムイが雑誌と単行本でそれが顕著ですけれども、あれを見ていると歴史史料に当初感じていた「なんでこんなことするのか」という純粋な疑問も、すごく身近になって理解できます。

Yahooのebook japan。
「赤髪の白雪姫」のあきづきさんの話は、この短編集がめちゃくちゃ好きです。タイトルのやつも好きだけど、龍と巫女のお話が短編の良さがギュっと詰まっていて好き。

電子書籍は主に漫画読むのに重宝していますが、個人的にはやはり、『蔵書』という概念で電子書籍を利用することは無理があるな、と思っています。私が電子書籍を始めて買ったのは「ヤフーブックストア」なのですが、ebook japanへサービス統合した際、データ消えたので。

一部では恒久的にローカル端末へデータを落とすことができた電子書籍黎明期もありましたが、途中から契約期間中のみ読める(アプリ上で読む、または、ローカルにDLしたデータも認証処理で期限が来ると読めなくなる)というものが主流の昨今。ヤフーブックストアで購入した電子書籍が、ebook japanに統合した結果、「リンクが存在しません」エラーになり、読めなくなったあの記憶。「でもやっぱりあの漫画が読みたいの!!」とebook japanに再課金するという謎の体験をしたユーザさんと握手がしたい。
サービスが終了するとデータが飛ぶというのは、技術的というよりサービスの契約内容に依存するという意味で、完全に回避はやっぱりできないのだろうなぁ…とあれから何年も経ちますが思います。

さて、電子書籍で版違い、というのは、明確なやつは私はまだ見たことないのですが、大きな意味では存在しており、この統合問題で消えてしまった電子書籍もebookで買いなおしたら表紙や構成が一部変わっていた、ということがありました。
通常版と特装版という概念は元々紙の本でもありましたが、ここにきて「単行本かつ電子書籍限定の書下ろし」みたいなものも増えてきたので、なるほどそういうこともできるんだなぁ…などと思いながら、やはり絶対残したいものは紙で買いなおしたりしています。

 

最近はKoboをメインで使っています。(Kindleは使ってはいるけれど、あんまりUIなどが好きではなく、稼働は低め)
ちょっと読みたい、とか、紙で買う前にためしに読みたい、すぐ読みたい!ができるのすごく良いですね。真綿の檻は広告でみて久々に読んでしまいました。
読書記録で大昔につけていたやつで書いていた暁のヨナ、あれ以降ずっと読んでる…。推しはジェハです。

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ところで、Yahooは私がインターネットを始めたころから母艦としてお世話になってきたサービスですが、もう4、5年くらい使うのは止めていて、登録データなどを徐々に別サービスへ移行していました。できれば今年中には、卒業したいなと思っています。
移行を数年しながら、「ここまでメールアドレスや何から何まで、インターネットありきで生活が組まれているのだな…」と今更ながら感じました。
自分にとっての適度なアナログと、適度なデジタルで生きていきたいものです。

 

何回も観に行ってしまう舞台たち

本も何回も同じもの買ってしまいますが、その感性で生きてきたがゆえに違和感なくハマれたのが舞台界隈でした。
このあたりの話。

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都内にいた最後4年くらいは仕事激務過ぎてストレスが限界突破していたこともあり、狂ったようにいっていましたが、劇場通いはやっぱり都心部が良いですね。フラッと仕事帰りに小劇場に寄れる有難さ。
大きな劇場(ホール)には地方でも公演がありますが、なかなか小劇場系は無いので(あるにはある)、そこがUターンしてちょっと寂しさを感じたりもします。

半券整理していていくつか振り返り。

舞台『大悲』(2019年7月19日~7月29日 紀伊国屋サザンシアター TAKASHIMAYA)
公式HP - https://www.innocentsphere.com/daihi/

池田小事件をモチーフとしたお話。
私の観に行った舞台の数というのはそんなに多くなく、なおかつ『重い』というような話は小劇場で見る比率が多かったのですが、この舞台はそんななかで数少ない、本当に終わった後に席から立ちあがれなくなるものでした。
号泣してしまうとかいうことではなく、悲しいとか怒りとか、そういう言葉でも単純には表せない、、、「言葉が出てこない」というのが一番しっくりくる、そんな作品でした。素晴らしかったが、もう一度見るというのはものすごく体力いるなぁ。

 

小劇場といえば下北沢ですが、私は池袋のシアターKASSAIが好きでした。
ここでよくやってくださるピウス企画さんの作品が好きで、行けそうなやつは行っていました。2019年5月のプレイルームを初見でみたら面白過ぎて、もう一回見たさに初めて当日券買いに行ったのも良い思い出です。(写真のは2020版)
本当にピウスさんの話はどれも伏線がきれいで、かつ役者さんがみんな素晴らしくて面白い…。

上のほうの記事先で紹介しているENGさんも池袋のシアターグリーンという劇場を主として上演されることが多いのですが、全体的に池袋の劇場が好きだったなー。
好みがかなり分かれるサンシャイン劇場も、私はイスのふかふか感と客席の隙間感が好みで、サンシャインで好きな作品がやるってなると「やったー!」と思っていました。基本的に池袋の劇場って、前の人の頭で舞台が見えない、ってことが無い感じがするのですよね。(KASSAIもシアターグリーンも)

 

舞台『治天ノ君』(2019年10月03日~10月14日  東京芸術劇場 シアターイースト)
劇団公式HP - http://www.geki-choco.com/past/pastpasthistory_31/
劇場公式HP - https://www.geigeki.jp/performance/theater215/

大正天皇を取り扱った、劇団チョコレートの公演。2013年、2016年と初演、再演を続けた、再再演となる代表作です。
2回観に行ったのですが、これ予約していた2回目が台風直撃で中止になりまして、13日に振り替えて貰った思い出。私の抱いている大正天皇像とは違うものですが、作品としては本当に面白く、役者さんや照明、舞台演出もいうまでもなく素晴らしくて、観に行けて良かったなぁとしみじみ思いました。赤い照明の使い方がおっかなくてすごく良い。劇場であの空間を味わってほしいです。

 

舞台『刀剣乱舞 維伝』
2.5次元舞台です。
東京公演のドームのやつと、凱旋公演を1回ずつ観に行きました。
刀剣の舞台は如伝から会場行くようになりましたが、倍率的にも他ステは厳しいなぁ…と思っていたけれど、維伝は鶴丸役のキャストさんが最初の1作品目の方が出るということで、頑張って2回取りました。
舞台行き始めの頃、染さまのぬるいヲタクと化していたので、職場の先輩を巻き込んで握手会に行ったり事務所映画を観に行ったり楽しい日々を送っていたので、動く染鶴が見れて「もう悔いはない…」と本気で思いました。アリーナありがとうありがとう。
赤坂ACTも前方席裏通路だったので、通路演出至福だった。ありがとうありがとう…。個ブロ買って飴の如くお知り合いに配り歩くおばさんになっていた。
(なお多分ここでチケ運使い果たして次の公演以降落ち続けたので、ライビュ組になりました)

2.5最初は苦手だったけれど、観に行くとやっぱり面白いものは面白くて楽しかったです。
忍たま乱太郎のミュージカルは行ったことないですが、子と楽しんでいる友人もいたし、観に行ったところでは働く細胞の舞台とかは小さい子かなりいて、会場で大玉転がし的な演出とか色々あって面白かったです。面白い話だと子どももちゃんと静かに観ているし、笑うところでリアクションをいっぱいしてくれるので、なかなか良い雰囲気でした。

 

イキモノとしての舞台

舞台『メサイアー黎明乃刻』
同名小説を原作にした、2.5といえば2.5だけど限りなくオリジナルに近い舞台。
2013年に新宿のシアターサンモールで上演した『銅ノ章』から始まり、登場人物の卒業などを繰り返しながら2019年に迎えた最後のシリーズ。
凱旋公演のチケットきた時泣きました。

さて舞台を観に行くからには一度はやってみたいこと。「全通」。
結果的に私はいまだにしたことがないのですが、東京・大阪公演全部で18公演以内なら、全通している人わらわらいた感じがします。
私が唯一、拠点全通ということでいうならば全通したのが、この黎明乃刻の大阪公演でした。土日に重なったので、死ぬ気でもぎ取った有休をくっつけて行ってきました。
このあと長々語りますが、メサイアというのは当時、「ほぼほぼ外れるということが無い、確実に当たりに近いものが見れる舞台」という絶対的安心感のある数少ない作品だったので、チケットの倍率も毎回えぐいことになっていました。でもだからこそ、そんな面白いと分かっている作品だからこそ、躊躇なく「全通しよう」となれたのですね。。。
本当に得難い経験をさせて貰いました。

なぜ人は全通するのか…。
舞台を知らない方は単純に理解できない、という顔をし、聞きかじったことのある方は「推しをみたいんでしょ」となりますが、正直に言って推しが出ていない時間帯が舞台では絶対にあります。どんなに好きな推しが出ている舞台でも、面白くない舞台に90~120分ジッと石に座らされるというのは正常な人間であれば苦痛なのです。

その時推している人が出ていて、なおかつ、毎日観ていても飽きないクオリティを保ち、初日から千秋楽に向かって進化し続ける舞台にあたる、ということがどれだけ奇跡のようなことなのか…。お金を払って観に行っても、様々な要因で正直に言って「ハズレ」になってしまうものというのもあるのです。あるのです。推しが出ていたとしても。
たとえシリーズものであったとしても、次の作品も必ず面白いという保証はない。初日の幕が開けるまで、それは本当に分からないので、全通したい、という舞台にそもそも巡り合えるのか、という問題があるのです。

劇場に何回も通うという醍醐味は実はここにあって、これは「本を何回も買う」というものとは全く別のベクトルだと知りました。
劇場とは、舞台とは、本当にイキモノで、役者さんの演技はもちろん、照明や音響、その日の箱(劇場)に入っているお客さんの熱量、いろんなものが絡み合って初めて1つの『空間』としての作品を作り上げています。
どんなに面白い話でも、お客さんの空気が悪いとそれを受けて演者さんの声の重さが変わりますし、逆に1日目はそうでもなかった、という舞台が、2日目、3日目とお客さんの反応を受けてめちゃくちゃに盛り上がったり、良くなる日があります。
多ステ(劇場に何回も通う)をして一度でもこれを感じると、そこからはそれまでと舞台に対する見方が全く変わるのです。
勿論、初日からMAXで高クオリティ、最高に面白い作品というのもあります。そういった作品はどこか1日だけ、1公演だけ見ても満足度はすごくあるので、ここに劇団四季や宝塚のすごさがあるのだろうな、としみじみ思います。
(当然、これらの大規模劇場作品にも初日から千秋楽までの変化というものや、千秋楽に行くにつれてさらにパワーが上がっていくということはあると思うのですが、ベースと安定力のレベルが高すぎる)

人からはそれを体験談として聴くことはあっても、実感として得るのはなかなか時間がかかりまして、私の場合は2019年夏に観た、こちらの作品がそれでした。

舞台『ヨルハ ver1.3a』
スクウェア・エニックスの名作「ニーア・オートマタ」をベースとした舞台。
上述のメサイアに出ていた役者さんが出演されていたので、軽い気持ちで観に行って衝撃を受けた作品です。本当に観に行って良かった。本当に、良かった…。
この1.3aは残念ながらDVD化されておらず、2020年に再演という形で上演されるはずだったのですが、くしくもコロナによる最初の緊急事態宣言と上演が重なり、全公演中止になってしまいました。この2020年の公演が、私が唯一本当に全部の公演のチケットを抑えられた、夢の全通作品になるはずだったのですが、すべて払い戻しになってしまって泣いた。
2020年版は無観客ということで配信され、その後DVD化もされたのですが、私にとっての衝撃作だった1.3a自体は残念ながら映像化はされないままとなってしまいました。
しかし、これもまた、舞台の一期一会を感じますし、2019年版を観に行って良かったな、と心から思う次第です。

2019年版は、色々背景が絡み合っているのですが、本当に3日目くらいから空気が変わって、大阪の大千秋楽は本当に話もそうなのですが、演者さんの圧が素晴らしかったのです。
舞台はイキモノで、演者さんが進化する瞬間をみた気持ちでした。
本当に良かった…何回も言っちゃう…。

 

舞台をDVDで見ればいいじゃないか、とも思うのですが、別の作品でもいいから、やはり3回は劇場に足を運んでいただきたい、と素人ながら思ったりします。
私も劇場に行きながら、「いったいDVDで観ていた頃の自分と何が違うのだろう」「なぜDVDだけではだめなのだろう」と考えたのですが、1つの観点として、「視座の固定」というのがあるのではないかな、と思いました。

漫画は2次元の空間を、作者が切り取って「コマ」に落とします。
誰を、どのタイミングで、どういった角度で見るかというのは、作者が決めるので、作者の「今ここを観てほしい」というところはダイレクトに我々に伝えられます。(読み取れるかは別として)
これはアニメも同じですが、アニメの場合はセリフに込められた感情の起伏、空間の雰囲気を、声優さんの「声」やBGMの「音楽」により、より鮮明になるところが個人的にポイントなのではないかな、と。
(脱線しますが、漫画と小説の違いは何かと言われると、「だれが何を言っているか(しているか)」の ぼかし方の手法が個人的には変わってくるのではないかなと思っています。謎の人物や犯人を黒塗りなどで登場させようとするとき、表現の方法がすごく変わるよなぁ…と)

映画は極端にいうと漫画の3次元化で、これは監督の「今ここを観てほしい」というところはダイレクトに我々に伝えられます。ただし、漫画と違うのは、或る意味漫画にはそのコマで映っている「範囲外」の世界というのは、その瞬間に存在しないのです。
映画というのは、切り取られた空間の外にも、世界があることが多いでしょう。別撮りをすることもあるし、カット毎に撮影することはあるので、全体を100%としたうちのもしかすると15%程度になるかもしれませんが、そこには確実に人がいて、時間が流れています。

そうして、舞台というのはその「範囲外」の世界というのが、非常に少ないものになるのです。
さらに、我々観客は板の上に広げられたすべての世界のどこを見てもいい、誰を、どのタイミングで、どういった角度で見るかというのは、観客が決めるのです。
これが舞台が「目が足りない」と言われる背景です。もちろん、制作側は「今ここを見て!」という部分で証明を絞ったり、セリフをいう人物を絞ったりして、或る程度「今みるべきところ」というのを我々にも伝えてきますが、舞台というのは「板の上」すべてで作品なので、絞られた証明の外、暗いなかで演者が実は行っている仕草や表情といったもの、そこから見えてくるものというのもあるのです。
DVDになって収められるものというのは、「それがないとシナリオが確実に分からない」というコマだけで、舞台が作り出した「世界」というのは、絶対に収まらない。ここが、DVDも買って劇場にも行くということに人を駆り立てる…。
のでは…ないかな…と今の段階の私は思うのでした。
(最近360度いろんなカメラから収めた映像をフルコンプした鬼のようなDVDが出たという界隈もありますが、でも劇場に行くのは辞められない)

うぅ…舞台観に行きたい…。

 

そんな、舞台の楽しさを覚えたあとに、もう一度巡り巡って博物館や美術館などのことを考えるのです。
こういった施設で求められるのは、四季や宝塚のような高クオリティ―と安定稼働だと思うのですが、時には、イキモノのような舞台で感じる「進化する楽しさ」のようなものが味わえる、そんな空間もありなのではないかなぁ…

などと思う夏の夜なのでした。