でも、いい欲もなきゃ困るしな。本当に欲がなかったらなんにもやらなくなっちゃうでしょう。ぼくなんかでも欲がまったくなかったら、何を質問されたって、ハハハハ、ハハハハッて笑ってるよ。
ー 144ページ
書籍情報
書籍名:幸せはすべて脳の中にある
著者:酒井雄哉 (著)/茂木健一郎 (著)
出版社:朝日新聞出版
レーベル:朝日新書
発売日:2010年02月12日
購入日:ー
読了日:2014年06月23日
レビュー日:2014年06月23日
目次
まえがき
第一章 生きる力ってなんですか 千日回峰行の力
同じことを毎日ぐるぐると繰り返すこと
空っぽだから、苦しくなかった
暗闇の中を歩いているうちに心得が静かに
道に迷ったときも、自分を信じて静かな心で歩く
闇の恐怖の正体は…
日ごろ使わない力がよみがえってくる
行動が浄化されていく
生命記憶と千日回峰行
険しい道を歩くことで知恵が生まれてくる
物事はすべてつながっている
茂木健一郎の視点 暗闇で本能が目ざめる
第二章 縁ってなんですか セレンディピティを生かすには
出会いという名の奇跡
偶然の出会いを大事にする
縁はぐるぐるめぐりゆくもの
偶然の幸運を生かすかどうかは自分次第
大切な肌のぬくもり
千日回峰行の資格を与えられるまで
人に負けないものがひとつだけあった
自分の道は必ずある
できなくたって、かまわない
行こうか、戻ろうか
他人のために自分を捨てて生きようと思うこと
茂木健一郎の視点 縁とセレンディピティを逃さないコツ
第三章 人はなぜ生きるんですか 生きる道はどうすれば見つかるか
ほんのたわいもないことが、人生を変えた
自分の人生、自分でこしらえなきゃだめなんだ
頭の中を空っぽにして、ずっとやっていった
お師匠さんの生きざまを信じること
生活する中で、黙って教える
「後がない」という気持ちで物事すべてせよ
今日のことはみな、今日から始めよ
花は散っても、桜は生き続ける
過去の経験と新しい経験とが溶け合う
頭を空っぽにして、瞬間、瞬間を大切にする
自分とお天道様にうそはつけない
茂木健一郎の視点 師について学ぶ
第四章 心はどこにあるのですか 歩くことと、息をすること
毎日、同じリズムで暮らすこと
こだわらない心でいれば、肌は自然に潤う
悩みが尽きないときは、子どもの心になってみる
戻ってくるなら戻ってくればいい、来ないなら放っておく
歩くことは、脳にも心にも効く
歩くとだんだん、だんだんと無心になる
歩くこと、息をすること、心に思うこと
己はどこにある?
欲があっても、不完全でもいい
茂木健一郎の視点 毎日同じリズムで暮らし、歩いて息をして
第五章 仏が見えるときはどんなときですか 天才と魔境のあいだ
暗闇の中で感覚は研ぎ澄まされる
自分の心の眼で見る
視覚と触感覚で現実感は高まる
仏を見るということ
ビジョンを見ることと生きる力
成道するためには、「魔境」に入る
すべては神様、仏様
物事を治すのには、三倍の時間をかける
茂木健一郎の視点 魔境を退ける比叡山の叡智、天才ということ
第六章 幸せってなんですか 選べる自由があるから幸せ、ではない
今いるところが一番幸せなんだ
どんなにめぐり合わせが悪くても
婚活ってなんですか
聞いて、言う。言ったことは実行する
やるか、やらないか
三日続ければずっと続けられる
決めたら、あとはやるだけ
茂木健一郎の視点 選択肢があることが幸せなのではない
感想・備忘
2014年当時に記載したレビューを転記します。
何かを選びとるということは、脳にとって大切な学びの機会。たとえ失敗しても、そのこと自体から何かを得ることができる。だから、選択するチャンスが与えられるほどに、脳は多くを学び、私たちは幸せに近づくことができる。
このように脳科学は考えるのである。選択肢があることが幸せなのではない p207
極限を一度見てこそ、初めて「日常」が分かるということがある。大阿闍梨が身を投げ打ってつかんだ生きることの「真理」に耳を傾けることで、自分の存在の底から生きる勇気が湧いてくる。
まえがき p5
脳科学者「茂木健一郎」氏と、天台宗大阿闍梨「酒井雄哉」氏(2013年死去)の対談本。
これと同時に「一日一生」を読んだのですが、酒井氏のお話自体は「一日一生」と重なる部分が多いです。けれど、言っていることにブレがないなぁ…と確認できたし、茂木氏という聞き取り役がいることでさらに分かりやすくなっている部分があるので、あまり気になりませんでした。
おもしろかったのは、酒井氏が比叡山に初めてやってきたとき、宮本一乗という方の千日回峰行の「お堂入り」の最終日、お堂から出てこられる日だった。
その光景が頭から離れず、最終的に仏門に入られたのですが、ご自分が千日回峰行をする際、師匠の方が高齢で、山中を歩けない。千日回峰行は、最初の1日だけ先達の方についてもらい、道を教えてもらう必要がある。そのため、師匠の方が別の人に道案内をお願いした。その人が、なんと宮本一乗大阿闍梨だった…。
偶然の幸運に出会うことを茂木さんは「セレンディピティ」とおっしゃっていましたが、「それをどうやって生かしていくか」ということが脳科学の研究でも重要なテーマなのだそう。
浅井慎平さんという写真家の方がいらっしゃるんですが、浅井さんは、ビートルズが四〇年ほど前に来日公演したときにオフィシャルカメラマンとして写真を撮られたんです。その浅井さんがビートルズと出会ったのがたまたまラジオから聞こえてきた音楽だったというんですね。
あとになって振り返って、「出会いの中で一番最高のものは、不意打ちのように、予想もしてないときに出会うものだ」というふうにおしゃるんです。p51-52
酒井氏の場合は、そんな「セレンティピティ」を生かす行動を、知らず知らずのうちにとっていた。
なんだか、本当にご縁という言葉をしみじみ感じさせられるエピソードだなぁと思いました。
ここから2024年の感想です。一日一生の感想はこちら。
最初のレビューからちょうど10年経ちますが、この2冊は今読み返しても私にとっては良い本だなと思います。
一日一生と併せて酒井氏のお話を意訳すると、目の前のことをとにかくやり続けていくと成果があとからついてくるよ(その成果は自分にとっての、というもので、世間や人と比べる必要はないよ)ということを言っておられると思うのです。
数年前にインドに少しだけハマッていたのですが、その際にインドの神々(ヒンドゥー教)の話を見ていくと、同じことを言っているのです。
インド古典で言われているのは、「よく分からなくても行動をしろ。行動こそが大事」というものでした。お経がよく分からなくても教義がよく分からなくてもいいから、とにかく「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる、と説いた浄土宗の思想も分かるような気がしてきます。
私はもうすぐ不惑を迎える年齢ですが、最近しみじみとこの言葉に感じるものがあります。
この行動が、例えばとにかく人に会いに行くとか、人の話を聞きまくるとか、そういうふうに現代的な自己啓発では捉えられがちだと思うのですが、それだと外からの影響が大きすぎる気がします。
私はここでいう「行動」とは、そうではなくて、自分から自分へ影響を与えるための行動だと思っています。
例えば、私の家には神棚があるのですが、神棚の水などを毎日変え、手を合わせてという行動をする際、賢バカ(ホリエモンのいう小利口)な私は「こんなにイライラして人の不幸を面白がりたいような心境になっているときに手を合わせられない。だから手を合わせるのは今日はやめておこう」と思っていました。
あるいは、「こういうのを配置するときは何か作法的なものがあるんだろうけどよくわからないからそもそもやらないほうがいいのかもしれない」と、神棚の水を替えたりとかお塩を持ってみたりとかの行動を止めてしまおうか、と思っていた時期もありました。
ここには思考が入っています。
これだと、「理解してからでないと行動しない」「理解していないから行動しない」というふうになっていってしまいます。
そうではなくて、「なんかよく分からないし合ってるか分からないけど、とりあえず毎日水換えて手を合わせておくか」という行動をとにかく毎日毎日毎日続ける。
そうすると、ある日ふと思うのです。それは水を替えているときかもしれないし、手を合わせている時かもしれないし、はたまた家の外、普通にスーパーで買い物をしている時かもしれないけれど、何かにハッと気づく瞬間がくるのです。
例えば、「目に見えない、実際に水を飲むかもわからない方なので水道水そのままでいいか、と思って水換えていたけれど、自分が飲む場合は水道水をじかに飲まないから、これは自分のなかの無意識の、他者を軽んじているところというか、よろしくないところなんじゃないか。人と誰かを区別して、だれかだったらこれでいっか、みたいな差別の種なんじゃないか」→「じゃあ変えていこうか」みたいな。
このハッと気づく瞬間は、行動をし続けた結果やってきたものです。
そんな感じです(未熟なので言語化できません)
酒井氏の別の著書もまた読んでみたいな、と改めて思いました。
印象に残ったところ
結局、空っぽだったから良かったんじゃないの。頭が良かったら、考えすぎちゃってだめだったかもしれない。
ー 15ページ
迷っているときによくないのは、考えすぎちゃうことだね。
ー 21ページ
逆に、目の先まで夜の霧に包まれてしまって、道が全然分からなくなったときにも、とにかく自分を信じて静かな心でトコトコ歩いて行ったら、正しい道とちょうど並行する道を歩いていたっていうこともあったな。
ー 22ページ
なにもすごいことをしなくたっていい。ただ目の前のことをコツコツやる、それだけで自然に知識が生かされてくるし、知恵もついてくるんだよ。
ー 38ページ
縁というのはあるけれど、でも縁を結ぶかどうかは、やるかやらないか。動くかどうか。自分の気持ち次第だと思うんですね。
ー 57ページ
ぼくは太平洋戦争を経験したから、鎮護国家というとなんともいかめしく、戦車や飛行機に乗って敵が来たらやっつけてやる…という戦争を思い浮かべちゃうけど、そういう意味ではないんです。人心を安楽にして、素晴らしい国土をつくるためになるような道場にしなさい、ということだったんですね。
ー 65ページ
人間ていうのはさ、いろいろなことをすぐに忘れちゃって、物事を自分の都合のいい方にばかり考えてしまう。だけども、今、自分がここにいるということは、大勢の人たちのおかげでここにいて行をさせてもろうてるんだから、それを、嫌だから、あっちの方が楽しいし楽だからといって、こっちの大勢の人たちをほっぽり出して行ってしもうたら、それはおかしいのと違うかなと思うわけですね。
ー 79ページ
思いもかけぬ偶然から、自分の人生を良い方向に変えるような出来事に出会うことを「セレンティピティ」と呼ぶのである。ホラス・ウォルポールの考え方がユニークだったのは、「セレンディピティ」が一つの「能力」であるとしたことだった。
ー 84ページ
生きている中で、いろいろなものと出会い、相互作用し、その過程で学んでいく。「セレンディピティ」は、このような学びのプロセスの一環である。
ー 85ページ
大きなセレンディピティに出会うためには、「行動」「気付き」「受容」というサイクルを辛抱強く繰り返すしかない。セレンディピティを育むのは、毎日の習慣である。習慣を自分のものにすることで、「縁」を引き寄せることができるだろう。
ー 86ページ
大成するとか成功するなんて、人間の価値観だから、仏さんから見ればたいした違いはないの。大事なのはね、その人が自分の道を見つけることなんだよ。
ー 94ページ
結局のところ、人間って、瞬間、瞬間を大切にするしかない。
ー 113ページ
自分をだませば、おそらく死ぬまで大きな荷物をしょって歩かなきゃなんない。自分は仏さんにものすごくうそついているのに、人にはうそついちゃいけませんよと説かなくちゃいけない。それは、もう詐欺師と同じだよね。
ー 116ページ
大学の唯一の存在意義は、師との出会いの場を提供することであろう。
ー 120ページ
自由とは、大海に浮かぶ木の葉のようなもの。木の葉に目を奪われて、大海を見失ってはいけない。
私たちの生命の本義は、大海の方にある。
ー 209ページ
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