鳥尾小弥太

鳥尾小弥太と娘(養女)と娘婿(伊藤柳太郎)1

はじめに

鳥尾小弥太には、実子が2人、養子が1人存在していることが史資料よりわかっています。
今回は、この養子の方にスポットをあてて、この方周辺の鳥尾にまつわるあれこれを整理していきたいと思います。
長くなったので、千代子さん周辺に絡んだ前編(この記事)と、伊藤柳太郎を含めた後編(後日アップ予定)に分けます。

なお、本件については若干ナイーブな話題になり、かつ、私個人の興味および小弥太に関する調べものとしてそこまでの正確性は求めていないコンテンツ(千代子さんの誕生経緯などの精度を上げることで、小弥太の思想を理解するふり幅がこれ以上変わらないと考えられる)ため、千代子さんの具体的な親の特定などについては結果として推測に終わっている部分が多々あります
あらかじめご了承ください。

後編は以下になります。

 

小弥太のこどもたち

華族画報や鳥尾の著書など、発行されている史資料からわかる鳥尾の家系図としては以下のようなものになります。(詳細:鳥尾小弥太(とりおこやた)とは

小弥太の実子としては、妻であるたえ(泰子)さんとの間に

・廣子(ひろこ):明治6(1873)年1月~昭和31(1956)年4月。娘。日野西資博氏へ嫁ぐ。
・光(みつ):明治9(1876)年10月4日~明治44(1911)年6月1日。息子。明治38(1905)年4月家督相続。

という2人のお子さんと、養女として「千代子」という娘さんがいらっしゃいます。
千代子さんについては後述する結婚願などの記録より、明治11(1878)年3月15日生まれということなので、小弥太の子どもとしては末っ子にあたるような形になりますね。
ざっくりした年齢表は以下になります。

 

千代子さんについて(花園日誌の小弥太の手紙)

では、この千代子さんはどういった経緯で養女となったのでしょうか。
これについては鳥尾の著書である「花園日誌」に、彼女にあてた手紙で言及があります。
※花園日誌(得庵全書 p1338-1341/国立国会図書館デジタルコレクション 681-682コマ目)

十二月十四日夢中に得たる歌
※略※

お千代に遣はす文、
汝は予が姉君の不幸中の子なり。其上薄弱多病にして、将に死せんとせしこと屡なりし。老夫及び養母の、一念の慈悲心によりて、全く今日あるを致せり。名譽ある陸軍少佐伊藤柳太郎の妻となりて、大丈夫にして怜悧なる一子を舉げ、現に心配もなく、生長しつゝ有るなり。亦實に幸福の至りならずや。夫れ恩を知り、愛を知るを以て、人となす。しからざれば禽獸にだもしかず。老夫今春來重病にあり、一家舉て之を患ひとす。只各々止を得ざる家事に支へられて、廣子も光も、予が膝下に侍するを得ず。然るに汝は、良人の出征留守を守るの身のみ。 彌太郎末だ學校に上らず、此時に汝母子、吾膝下に来りて。いさゝかなりとも、報思の誠を捧げて、孝養すべし。老夫たとひ大患ならざるも、年已に六十に垂んとす。天命を保ち、此世を去る、餘命、幾千もなし。
汝は伊豆山の別邸に来りて、折/\に予が熱海の庵室を見舞ふべし。薪炭と米と、鹽と、醤油と、勝男武士を給すべし。野菜は、大根ぬぶか杯あり。上下三人、尤も汝等の養生に適せり。河原伯母君も、此邸に在すなるべし。此君は、予が姉君なり。汝予に代りて、孝養すべし。此事寒中丈をよしとす、西京より堀氏來り、日々茶事あり、是れも叉汝が爲に善因縁たり。
箇様な事は、明年よりは、決して一言もせぬなり。故にくど/\しく書付けて、おくり示す。亦是れ子に對する一教なり。汝が老後の大幸福は、必ず此一事より生ず。
日野西の姉君に、此手紙を見せて、相談すべし。ゆめ/\なほざりに思ふことなかれ。
伊藤千代子殿    老夫

意訳するとこんな感じです。

おまえは私の姉君の不幸中の子である。
そのうえ体が弱く病気がちであって、たびたび死にかけていた。老父(小弥太)や養母(泰子)の深い慈悲の心によって、本当に今日があるのだ。
名誉ある陸軍少佐 伊藤柳太郎の妻となって健康で利口な一子(弥太郎)をもうけ、その子は今も心配なく成長しているようだ。これは本当に幸福なことではないか。与えられた恩を知って、また愛を知ることで人は人となる。そうでないならばそれは獣と変わらない。老父は今年の春以降、病を重くしており、家の者たちはみなこれを大変なことだと思っている。
ただそれぞれやむを得ない家庭の事情があって、廣子も光も私のところにきて看病することができない。その点、おまえは夫が出征しており留守を守っているのみの身である。弥太郎はまだ学校に上がる歳でもないので、いま母子ともに私のところにきて、わずかな期間であったとしてもこれまでの恩返しとして孝行するべきである。
私がたとえ大きな病でなかったとしても、すでに六十歳を越えた。天命をまってこの世をじきに去るだろう。余命は幾ばくも無い。
お前は伊豆山の別邸にきて、折々に私の熱海の庵室を見舞うのだ。その際、薪炭と米と、塩と、醤油と、鰹節を持ってくるように。野菜は、大根漬けなどがある。私とお前と弥太郎で過ごすのが、お前たちにとっても養生に適しているだろう。
河原の叔母様も、この屋敷におられるようになるだろう。この方は私の姉である。おまえは私に代わって、孝行しなさい。
このことは寒中の間でなるべく長い期間であればあるだけよい。京都から堀氏もきて日々茶事もあるので、これもまたおまえにとって良いご縁だと思う。
このようなことは、来年からは、決して一言も言わない。ゆえに今回はくどくどしく書き付けて送った。
こういったことも子に対する一つの教えである。おまえの老後の幸福は、必ずこのことから生じてくる。日野西の姉(廣子)に、この手紙をみせて相談しなさい。
ゆめゆめ疎かににしてはいけない。
伊藤千代子殿    老夫

ものすごい意訳するとこうです。

廣子も光も小さい子がいたりして忙しいけど、
おまえ子どももそこそこ大きくなって旦那さんも単身赴任してるし、
俺もいつお迎えがくるか分からないから
冬の寒い時期だけでもいいからこっち来て世話してくれないか。
女一人、子一人で家庭にいるより絶対そのほうがお前にとっても良いと思う。
なんなら会ったことないだろうから河原のおばちゃんも呼ぶし、
お茶の先生も来るからおまえにとってもよい機会だろ。ちなみに…
こういうことは年明けからは一切言わない。
一回しか言わないからくどくど書いたけど、
子は親の背中を見ているから、
親を介護しておかないとお前も老後、弥太郎に面倒見てもらえないぞ。
廣子に相談してみなさい。
大事なことだからスルーするなよ。

日野西の姉君に、此手紙を見せて、相談すべし。ゆめ/\なほざりに思ふことなかれ。」とかめっちゃ怖いですね。廣子さん(良い人)に相談しろってそれは彼女忙しくて行けないって言ってるんだから、「行ってこい」といわれるだけじゃん…逃げ道ないじゃん…。
令和の感覚でこの手紙を読むと大炎上しそうですが、明治後期のことかつ翌年本当に小弥太は亡くなってしまうので、お迎えが来るという件は本当なので目をつむってください。。。

これは明治37(1904)年12月14日の日付の後に続けて記載されており、実際に手紙を書いた日ではない可能性がありますが、年始からちょっとあったかくなるまで可能な限りいてほしい的な書きっぷりをみると、年内に彼女に届くようにしたのだろうと思います。
この手紙のなかで注目したいのは、冒頭の「汝は予が姉君の不幸中の子なり。」というところと、「河原伯母君も、此邸に在すなるべし。此君は、予が姉君なり。」というところかと思います。

 

小弥太の姉とその家系

2024年8月14日時点の本サイトの「鳥尾小弥太(とりおこやた)とは」という紹介ページでは、この千代子さんを次姉の子かも、という記載をしておりました。
それは、単純に長女である女性は小弥太が奇兵隊に入る前の時点ですでに三輪家というところに嫁いでおり、彼女の子どもとみられる「三輪清吉」なる人物の名前が鳥尾関係の資料で記載されていることを知っていたからです。

つまり、長姉の子どもたちは「三輪家」で成長しているだろう、という思い込みがあった、ということです。
ところが、ここで「河原伯母君」という言葉が出てくることでまた違う可能性が出てきました。このあたりを整理してみます。

鳥尾家の親族

まず鳥尾家の親族として挙げられている家について記載します。
以下の記事で、小弥太の子である光氏の葬儀の際の告知情報について紹介しました。
(過去記事:鳥尾小弥太と三浦梧楼 1 ― 鳥尾の遺子を、山県に後事を託された三浦梧楼―

あらためて記載するとこうです。
※東京朝日新聞の明治44年6月3日版7面

従四位子爵鳥尾光儀
永々病気の處療養不相叶昨一日卒去致候間此段辱知諸君へ勤告候也
追て来四日午後一時自邸出棺音羽護国寺に於て佛葬式執行仕候
明治四十四年六月二日
嗣子 鳥尾敬光
親戚 日野西資博
酒巻敬之助
中村 凞静
三輪 清吉
河原 丑輔
子爵 三浦 梧楼

日野西資博」は、上述の小弥太の娘である廣子氏の夫。
酒巻敬之助」は、光氏の妻である知勢さんの父。
子爵三浦梧楼」は、小弥太と同郷で大正時代のフィクサーとも呼ばれているとかなんとかという方です。

この二家(日野西家、酒巻家)と三浦については、関係性がはっきりとしています。
問題は残りの三家(中村家、三輪家、河原家)です。
現時点では、これは順番的にこうだと思っています。

中村家:小弥太の本姓の本家
三輪家:長姉の嫁ぎ先
河原家:次姉の嫁ぎ先

順を追って整理します。

 

中村家(小弥太の本姓の本家)

「鳥尾小弥太」というのは、奇兵隊時代に使っていた変名であって、小弥太のもともとの名は「中村鳳輔」と言いました。この改名などについては小弥太自身で著した自伝である「恵の露」に詳しく書いてあります。
また、奇兵隊入隊後に小弥太が亡くなった時のことを考え、後のことをどうするか、という話を親族とした話も以下のように記載されています。
(過去記事:【鳥尾小弥太】恵の露03~鳥尾小弥太と奇兵隊~

伊藤の叔父は、是非歸家して、母上に安心させ、又先祖の供養等もしなければならぬと、切に言はる。由て余は思へらく、従弟の萬里介を、余の相續人にして、家督を譲り、一身を擲ちて奉公すべしと、心窃かに決心せり。
當時余は隊長なりし、此隊長は、戰ふごとに眞先に先に立ちて、働くもの故、一戰争有るごとに、二人三人は必ず討死するものなり。當時天下の形勢は、つまり余の如きも、是迄は死を免かれ來るも、長く生存する理なし。さすれば今に及んで従弟を世繼とし。余は無きものとなりて、母上にも覺悟させて置く方、却てよろしからんと。此事を伊藤の叔父に圖りしに、叔父の曰く、母上が承知なら、それでも宜しかるべしと。因て又母上に其事を相談せしに、例に依て、善いとも惡いとも言はれぬ。總領の姉に相談せし處、姉は中/\氣丈な人で、それは以ての外の事である。私は總領に生れたが、お前と云ふ世繼があるから、他家へ嫁に往つた。若し他人に中村家を繼がせる程なれば、私が女でも養子を取つて、此家を相續すべきである。三人も兄弟ありて、一人も家の相續をせぬと云ふ事はないと、甚しく不同意を云はれた。余は此事を、丸て叔父に托して、大概にして陣屋で出て往ちた。其時中の姉は、猶家に居て、母親を介抱して居つて吳られた。慈母の逝去せられしは、明治元年十二月二日なり。誠に兩親に對して、更に孝養を爲すことの出來ぬ仕合なりしは、甚だ遺憾である。

おそらく、伊藤の叔父(小弥太の父の弟。瀧蔵)は、小弥太の父が長子で中村姓を名乗っていることから、次男以降で伊藤家に養子、または、婿入りしたのだと思います。
「萬里介」はこの瀧蔵氏の子であると考えられるので、伊藤家から中村家へ人をいれるような案を出したわけですね。こういったことは家を主として考える江戸時代では特に珍しいことではないかと思います。
が、一度外に出ているかつ父の弟のほうに家が移ってしまうので、気丈な長姉さんは反対されたわけですね。
そして小弥太はこ れ を 瀧 蔵 氏 に 丸 投 げ し て 出 陣 し て い き ま し た 。(初めて見たとき、明治以降の片鱗を感じて笑ってしまった)

この問題がどう解決したのかが実は千代子さんの問題に関わってくるのですが、この経緯から「中村凞静」という方はおそらくこの、もともとの「中村家」を継いだ方であろうと考えられます。
この人物と同名の方が、「明治二十年農商務省職員録(明治二十年四月改正官員録)」に見えます。

地質局
八等技手下 中村凞静(山口)

引用元:
農林省農務局 編『明治前期勧農事蹟輯録』下巻/長崎出版/1975 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
p1822

なお、この年の農商務大臣は以下の2人です。
この年の7月26日に谷さんは農商務大臣を辞職しているので、それ以降は山縣さんが兼任されていた波乱の年でした。

大臣 谷干城
兼任(内部大臣) 山縣有朋

この中村さんは地質局で長く勤めあげられたようで、今の段階で確認できる一番古い登場は明治19(1886)年の官員録*1。これには地質局の御用掛準判任として「東京」として記されていますが、ほかの方からの連続のような書きっぷりで、同年8月の官員録*2では「山口」となっており、大正12(1923)年の官報*3にて免職願を出されていました。

その後、おそらく明治19年の時点で東京にいたと思いますが、明治27(1894)年の農商務省職員録*4では北豊島郡高田村、現在の東京都豊島区が本籍となっています。小弥太の小石川の屋敷と近いですね。
彼は、その息子である醍醐鵄郎氏(生年:明治29(1896)年。次男)の紹介文より*5、地元の地主であった醍醐金太郎氏の娘(中村スミ子。生年:慶応3(1867)年11月。金太郎長女*6)と結婚されたようです。
(余談ですが、*6の「大日本婦人録」、広告を含めてめちゃくちゃ興味深いです)

それ以上については遡ることができないため、苗字はともかく珍しい下の名前のおかげで同名人が引っかからないことと、当初山口→東京(小石川)に籍を移していることから、この地質局に出仕している中村凞静さんが、鳥尾の本姓の中村家を継いだ人物ではないかと思われます。

中村凞静氏が鳥尾の言っていた「萬里介」であるかどうかは確証がありません。
また、長姉が中村家へ入って「萬里介」を養子にとった、または、まったく別の人物(長姉の子など)を養子にとったのかも、現時点では分かりません。
現時点では、いったんここまでとしておきます。

中村氏に関する参考・参照文献

*1.彦根正三 編『改正官員録』明治19年上3月/博公書院,明17-26 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
*2.  彦根正三 編『改正官員録』明治19年上8月/博公書院,明17-26 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
*3.大蔵省印刷局 [編]『官報』1923年01月30日/日本マイクロ写真/大正12年 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
*4.『農商務省職員録』明治27年5月現在/農商務省/明27-32 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
*5. 桜井森一 編『高田町政史』/共愛新報社/昭和4 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
*6. 婦女通信社 編『大日本婦人録』/婦女通信社/明41.7 ー 国立国会図書館デジタルコレクション

 

三輪家(1番目の姉の嫁ぎ先)

次に1番目の姉の嫁いだ「三輪家」についてです。
これについては上述した「恵の露」より抜粋します。(過去記事:【鳥尾小弥太】恵の露02~鳥尾小弥太の幼年期~

翌年の四月、余が十四歳のとし、敬親公御歸國の御供をして歸國す。其時余は家督を継ぐ、叔父伊藤瀧蔵と云ふは、余が父君の差継の弟である。歸國後は、其の家に在りし。
元来家事不如意なる所へ、父君が旅で死去せられ。一入家政も困難に墜入り、余が母方は、徳田折蔵と云ふ、母堂の弟が、世を継いで居られた。此人と、伊藤の叔父と相談して、中村家は、一時謂はゆる分散仕組と云ふ事になり。玆五箇年間、仕組の都合にて、母堂は徳田へ、余と姉とは、伊藤へ引受る事となる。此事は余が歸國前に、巳に決定してありし。総領の姉は、巳に三輪氏に嫁せり。余は幼年事ゆゑ、萬事叔父どもに打任せて置く。十四歳より十七歳まで、叔父の家に居る。

このことから、長姉は三輪家へ嫁いだ、ということがわかります。
また、新聞に記載のある「三輪清吉」氏については、同名人物を鳥尾の著書である「王法論」の校訂者としてみることができます。
(鳥尾小弥太 著 ほか『王法論』/千鍾房/1883年2月 ー 国立国会図書館デジタルコレクション  11コマ目)

王法論
鳥尾得庵著   甥 三輪清吉校定

ここで「甥」と書かれていることから、この清吉氏は三輪家の子であり、小弥太の姉の子である、ということがいえるでしょう。

なお改めてこの「甥」を今回調べていて面白かったのですが、この明治16年2月の「千鍾房」(巻末の出版社は北畠茂兵衛)出版の王法論では「」となっているのですが、別の版では「」と書いてありました。普通に誤字だと思うのですが、三輪氏本人が気づいていない?あたりが、とりかえばや的な妄想をしてしまう余地を与えてしまっていますね。

「甥」と記載のあるもの
・鳥尾小弥太 著 ほか『王法論』/千鍾房/1883年2月 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
「姪」と記載のあるもの

・ 鳥尾得菴 著 ほか『得菴詩文 : 2巻』/出版者不明/1885年 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
・ 川合清丸編『得庵詩文』/日本国教大道社/1895年11月20日版 ー 国書データベース
・ 川合清丸編『得庵詩文』/日本国教大道社/1899年3月3日版 ー 国書データベース

そしてこの清吉氏は、王法論の後付けによると「麹町富士見町一丁目三十六番地寄寓」となっており、小弥太の屋敷(または敷地内の別建物)で同居していたことがわかります。
また、2年後の明治18(1885)年も住所は変わっていますが、引き続き同居していたことが以下から読み取れます。蒼龍窟は、鎌倉の円覚寺住職であった今北洪川の室号です。

東京小石川区関口町百九十二番地鳥尾殿方 三輪清吉
※生縁長州萩市

引用元:
鎌倉市市史編さん委員会 編さん『鎌倉市史』近代史料編 第1/吉川弘文館/1988年3月 –  国立国会図書館デジタルコレクション
p394
※市史の元資料は明治18(1885)年8月の「蒼龍窟会居士禅子名刺」

以降、清吉氏については同姓同名の方が散見されており、確実にこの清吉氏と同一人物、という確証がとれませんので推測になってきますが、興味深い情報が2つあるのであげておきます。

1つめ:『現代華族譜要』*1
1929年に発行された上述の書籍で、伯爵 田中光顕のページに「三輪清吉」の名前がみえます。

養女
うめ
大橋時言長女
明、一〇、一二生
三輪清吉夫人

「大橋時言」という方は、同姓同名で同時代に内務省などに出仕している方がいるようです。
田中光顕は、言わずもがな、土佐藩出身の彼です。
(関連記事:鳥尾、年上に逆らえないの巻(田中光顕『維新風雲回顧録』より)
確証がありませんが、現段階ではここで出てきた「三輪清吉」氏は、小弥太の姉の子である可能性が高いのではないか、と思っています。
そうすると、田中光顕氏と血のつながりはないけど家としては遠縁になるので、上述の回顧録エピソードがまた何とも言えない感じになってきますね。

2つめ:『官報 1923年06月25日』*2
上述の19コマ目に以下の記載があります。(略)はこちらで入れたもの、■■は文字がつぶれており判読が難しいのですが、おそらく「鉄道」の異体字ではないかと思っています。(同鉄道はこの時期国に買われ、新線がひかれていった関係もあり縮小する動きになっています。また、この年の9月に起きた関東大震災で本鉄道は完全廃止になっています)

熱海■■株式会社變更
一 左記ハ大正十二年二月二十八日取締役ニ就任ス
(略)
三輪清吉 東京府北豊島郡高田村千六百八十四番地
(略)

この清吉氏が今追っている方とすると、住所が変わっています。
この住所ですが、先に出てきた中村凞静氏の住所とわりと近い場所になります。既出の資料から中村氏の住所を確認すると、「東京府北豊島郡高田村千三百四十二番地」*3 。

推測の域を出ませんが、中村氏の番地も新番地であるような数字であるため、中村氏の妻の一族である、高田村の地主であった醍醐氏から土地を融通してもらい、田中光顕氏の養女と結婚するタイミングで三輪氏も居を構えたのではないか、という可能性が出てきます。
このあたりは豊島郡の土地開発の歴史と各地籍図を照らし合わせていけば答え合わせができそうですね*4。

三輪氏に関する参考・参照文献

*1.維新史料編纂会 編『現代華族譜要』/日本史籍協会/1929 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
*2.  大蔵省印刷局 [編]『官報』1923年06月25日/日本マイクロ写真/大正12年 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
*3.『農商務省職員録』明治27年5月現在/農商務省/明27-32 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
*4. 五千分一東京図測量原図 : 東京府武蔵国北豊嶋郡高田村近傍 ー 国際日本文化研究センター 所蔵地図データベース

 

河原家(2番目の姉の嫁ぎ先)

最後に河原家です。
現時点では、この河原家は小弥太の2番目の姉の嫁ぎ先、と仮定しています。
この2番目の姉については、既出の「恵の露」、および千代子さんへの手紙のなかに以下のように記載があります。

余は此事を、丸て叔父に托して、大概にして陣屋で出て往ちた。其時中の姉は、猶家に居て、母親を介抱して居つて吳られた。慈母の逝去せられしは、明治元年十二月二日なり。誠に兩親に對して、更に孝養を爲すことの出來ぬ仕合なりしは、甚だ遺憾である。

(過去記事:【鳥尾小弥太】恵の露03~鳥尾小弥太と奇兵隊~

汝は伊豆山の別邸に来りて、折/\に予が熱海の庵室を見舞ふべし。薪炭と米と、鹽と、醤油と、勝男武士を給すべし。野菜は、大根ぬぶか杯あり。上下三人、尤も汝等の養生に適せり。河原伯母君も、此邸に在すなるべし。此君は、予が姉君なり。汝予に代りて、孝養すべし。此事寒中丈をよしとす、西京より堀氏來り、日々茶事あり、是れも叉汝が爲に善因縁たり。

※本記事上部。伊藤千代子への手紙より

次姉については、小弥太が伊藤の叔父にこの話をしたのが長州征伐の後(「再び」と言っているので2回目)ということで、慶応2(1866)年の時点では母の介護をされていたようです。
これがまず1つ。
次に、「河原伯母君」といわれる小弥太の姉がいて、この方は明治37年12月時点で存命であり、この時点で千代子さんに改めて説明をする程度には千代子さんと縁がなかったこと、がわかります。
いったんこの2つを頭に置いた状態で、「河原丑輔」さんを整理していきます。

まずこの方については、三輪清吉さんのところであげた鎌倉市史の同じ資料で名前がみえます。

東京小石川区関口町百九十二番地鳥尾殿方 河原丑輔
※生縁長州萩市

引用元:
鎌倉市市史編さん委員会 編さん『鎌倉市史』近代史料編 第1/吉川弘文館/1988年3月 –  国立国会図書館デジタルコレクション
p395
※市史の元資料は明治18(1885)年8月の「蒼龍窟会居士禅子名刺」

このことから、明治18(1885)年時点では少なくとも鳥尾一家と、鳥尾の姉の子たちというのは同居(または敷地内の別建物に居住)していた、ということになります。

また、おそらくこの河原さんだろうと思われる人物が、防長学友会雑誌(*1、*2)にみえます。
同紙には堀真五郎氏や時山弥八氏など、奇兵隊関係者の名前もあがっています。
明治24(1891)年の『防長学友会雑誌』(5)に、「北海道札幌農学校 河原丑輔」という記載があり、明治24年の時点では鳥尾達と同居を解消して、クラーク先生で有名な北海道札幌農学校へ入学したようです。
この札幌農学校へ入学した河原さんが、明治44年の新聞に出ている方と同一人物だとすると、以降農学校関係の書籍で名前を見ることができますが、詳細は不明です。

清吉氏と同様に、同一人物、という確証がとれませんので推測になってきますが、河原さんについても興味深い情報が2つあるのであげておきます。

1つめ:『人事興信録』*3
明治44(1911)年に発行された上述の書籍で、竹田関太郎氏の節に河原さんの名前が見えます。

妻モゝヨ 元治元、正生、山口、士、河原丑輔姉

※781コマ目

この竹田関太郎さんは山口県士族ということで、嘉永5(1852)年生まれ。
そしてその妻のモモヨさんは元治元年正月生まれ。元治元年は旧暦2月から始まっているのでちょっと怪しいのですが、新暦に作られた資料なのでニュアンス的に1864年とここではしておきます。
この河原さんが今追っている河原さんだとすると、姉がいたことがわかり、その生年も分かった、ということになります。

2つめ:『大日本婦人録』*4
人事興信録と同枠で、同じように河原さんの名前が出てくるのが大日本婦人録です。
※記号は原文ママです

乃木チヨ子
明治十二年十月二十五日生●乃木申造氏夫人△山口縣阿武郡山田村、士族河原丑輔妹△豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿三六一

引用元:婦女通信社 編『大日本婦人録』/婦女通信社/明41.7 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
p568

ここでは妹が出てきます。
明治12(1879)年10月25日生まれ、ということで、間に兄弟がいるかもしれませんが、ここでもこの河原さんが追っている方だとすると、彼の生年は1864年~1879年の間になる形かと思います。
ただ山口縣阿武郡山田村生まれとなっているのが気になりますね…(上述の鎌倉市史では萩市となっているので)。

なお、この方の嫁いだ乃木申造氏はあの乃木希典氏の本家だそうで、いろいろありそうですが本記事とは逸れてしまうため深追いはしないでおきます。
以下のサイト様がわかりやすかったです。

 

河原氏に関する参考・参照文献

*1.『防長学友会雑誌』(2)/防長学友会/1890-04 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
*2.  『防長学友会雑誌』(5)/防長学友会/1891-02 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
*3.  『人事興信録』3版(明44.4刊)皇室之部、皇族之部、い(ゐ)之部―の之部/人事興信所/明36-44 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
*4.  婦女通信社 編『大日本婦人録』/婦女通信社/明41.7 ー 国立国会図書館デジタルコレクション

 

関連人物のまとめと千代子さんの母の推測

ここまででわかっている関連人物をざっくりまとめます。

出てきた人物を今追っている人だとした場合に、わかっている年齢などはこのようになります。
(厳密な満年齢にするとちょっと誤差ある人も出てきますがご容赦ください)

中村凞静氏、三輪清吉氏、河原丑輔氏については生没年が分からなかったのですが、この時代はよほどお金持ちか何かないと年下を娶ることが通常だったため、生年はおそらく薄黄網掛けにした範囲かと思っています。
今回の千代子さんの生まれに関して言うと黄色網掛けの部分になると思います。

ここで「河原伯母君」=次姉としたときに1点気になることが出てきます。
というのも、先で述べた通り、第二次長州征伐(1866年)の時点で小弥太の母の元にいて、その世話をしていた、ということです。これを採ると、河原丑輔氏の姉であると思われるモモヨさんの生年と合わなくなります。なので、以下のような説が出てきます。

1)竹田モモヨ氏や乃木チヨ子氏の兄弟と思われる河原丑輔と、光氏の葬儀で親族欄に出ている河原丑輔氏は別人
2)関連人物は正しく、次姉は1864年より前に河原家に嫁いでいて、1866年時点では家に戻って看病をしていた
3)関連人物は正しく、小弥太の記憶違い(第二次長州征伐ではなく第一次だったのでは)
4)関連人物の生年が誤っている(竹田モモヨ氏の実生年が1866年以降)
5)竹田モモヨ氏と、河原丑輔氏の母が別。(河原丑輔氏以降が次姉が母。次姉は後妻)
6)次姉と河原家の子どもは血がつながっていない(次姉は後妻)
7)河原家に嫁いだ姉は次姉ではなく、長姉(三輪家と何らかの理由で離縁したのち再婚)

情報が少ないのでどんどん推測&強火妄想になっていってしまいますね…。
少なくとも「河原伯母君も、此邸に在すなるべし。此君は、予が姉君なり。」という記述からも、小弥太の姉が三輪家と河原家に嫁いだということは確定だと思うので、千代子さんはいったいどちらの家の元で生まれたのだろうか、というのが知りたいところです。

最後に見ていくのは手紙の冒頭の

汝は予が姉君の不幸中の子なり。其上薄弱多病にして、将に死せんとせしこと屡なりし。老夫及び養母の、一念の慈悲心によりて、全く今日あるを致せり。

というところで、この「不幸」ってなんぞや、、、という。
出産に関する不幸という可能性は以下があげられるかと思います。

1)産後、母が亡くなった
2)意図しない妊娠・出産であった
3)双子だった

などなど…。
1)について、仮に千代子さんが河原家の生まれだとすると、河原伯母君は手紙の時点でも存命であるので、この線は消えます。
2)についても考えられなくはないですが(例えば奉公先でお手付きになってしまうなど)、この場合姦通罪になってしまうので可能性は低いのではないかと思いました。
3)についてもないかな、と思っているのですが、私が小説家だったら乃木チヨ子さんを見つけた時点で河原家の双子説(どっちかの生年がずれてる)を推したいなと思いました(?)。会わせたことなかったけど晩年に実母と会わせてあげるよ的なことを冒頭の手紙で書いていた…となるとちょっとドラマチックです。

3)に関してはドラマチックと書きつつなくはないと思うのですが、
順当にいくと三輪家に嫁いだ長姉が千代子さんの出産後に亡くなり、亡くなったということは後妻をもらったりするだろうということで千代子さんは小弥太が引き取った…、という線なのではないかと思います。

その後、少なくとも明治16年までには清吉氏(彼は長姉の実子で相違ないかと思います)、同時期かそのあとに河原丑輔氏(河原家は一家ごとの可能性)を東京に呼び寄せ生活を始めたのだろうと。

そんなわけで、書籍から読み取れる家系図としては本記事上部のものと変わらないのですが、推測を含めた不確定最大限家系図としてはこんな感じになろうかと思います。

華族と経済的余裕がある方々は華族譜要や大衆人事録、人事興信録などで家族関係を読み取れる部分がありますが、士族や省庁出仕をしていてもそれに当てはまらない方々は公開されている情報だけだと家族構成はなかなか分からないものだなぁ…と思いました。
確かにプライベートな部分でもありますし、血縁関係による私情的な見えていない関係性だったり、土地の広がりを解明する以外は、当事者以外が開けっ広げにする問題でもないと思いますのでそれでいいのではないかと思います。
今回見ていて面白かったのは、小弥太の姉の子たちの婿が全員、元山口県士族だったところでしょうか。長州藩閥の中で縁談話が上がっていたのかと思うとほっこりすると同時に「藩閥っていわれるぞ…」と思ったりしますが、このあたりは次回の伊藤柳太郎さんの深堀のほうでも関連してきたりします。

というわけで特に大きな進展があったわけでもありませんが、千代子さんの生まれと小弥太の姉たちについての整理としてはここまでとしたいと思います。

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