鳥尾小弥太

鳥尾小弥太と娘(養女)と娘婿(伊藤柳太郎)2

はじめに

鳥尾小弥太には、実子が2人、養子が1人あり、養子の方は「千代子」さんといって小弥太の姉の子になります。
この方にスポットあてた周辺人物の整理を記事にまとめており、今回は夫である伊藤柳太郎氏周辺を含めた後編です。
千代子さんの母親を含めた、小弥太の姉妹周辺に関する話はひとつ前の記事をご参照ください。

伊藤柳太郎についてのこれまでの情報

前回の記事に引き続き、華族画報や鳥尾の著書など、発行されている史資料からわかる鳥尾の家系図としては以下のようなものになります。(詳細:鳥尾小弥太(とりおこやた)とは

千代子さんの夫が「伊藤柳太郎」氏であるというのは、小弥太の著書である花園日誌に記された、千代子さんにあてた手紙から知ることができます。
また、この手紙の書かれた明治37(1904)年12月頃の時点で、伊藤氏は出征している、ということが分かります。

お千代に遣はす文、
汝は予が姉君の不幸中の子なり。其上薄弱多病にして、将に死せんとせしこと屡なりし。老夫及び養母の、一念の慈悲心によりて、全く今日あるを致せり。名譽ある陸軍少佐伊藤柳太郎の妻となりて、大丈夫にして怜悧なる一子を舉げ、現に心配もなく、生長しつゝ有るなり。亦實に幸福の至りならずや。夫れ恩を知り、愛を知るを以て、人となす。しからざれば禽獸にだもしかず。老夫今春來重病にあり、一家舉て之を患ひとす。只各々止を得ざる家事に支へられて、廣子も光も、予が膝下に侍するを得ず。然るに汝は、良人の出征留守を守るの身のみ。 彌太郎末だ學校に上らず、此時に汝母子、吾膝下に来りて。いさゝかなりとも、報思の誠を捧げて、孝養すべし。老夫たとひ大患ならざるも、年已に六十に垂んとす。天命を保ち、此世を去る、餘命、幾千もなし。

※花園日誌(得庵全書 p1338-1341/国立国会図書館デジタルコレクション 681-682コマ目)

この伊藤氏に関して、家系図を作った頃にネットでググるだけでは「日露戦争の頃の日本軍側の工作員」という情報しか得ることができておらず、以降そのままとなっておりました。
そんな折、小弥太の嫁(息子の光氏の妻)である知勢さんに関わりのある人物を長い間調べられていた方から、彼が岩国の出身で伝記があるようだ、ということを以下の記事のコメントで教えていただきました。ありがとうございました。

関連記事:鳥尾小弥太(とりおこやた)とは

今回この教えていただいた伝記(『烈士伊藤柳太郎少佐』)を読むことができたので、この伊藤氏に関しての追加情報と、その伝記のほうに記載されていた小弥太が伊藤氏へあてた手紙のほうを紹介したいと思います。
この手紙の内容を踏まえると、前編で千代子さんにあてた手紙の内容が現代で考えるとちょっとひどい…という件が緩和されるかもしれません。

 

伊藤柳太郎について

伊藤柳太郎(1870-1905)は明治3(1870)年7月22日、岩国の川下村中津(現:岩国市)で、雑貨商を営んでいた伊藤榮槌の四男として生まれました。
榮槌氏が若い頃はまだ貧しかったようで、榮槌氏と長男は津和野(島根県)のほうまで往来して商売を行っていたようです。その甲斐あって、柳太郎氏が生まれた頃にはある程度裕福になっていたようでした。
16歳のときに陸軍士官学校入学準備として上京。陸軍士官学校の予備校である全寮制の文武講習館(のち成城学校)に入学しました。
その後、無事試験に通ったようで士官候補生として高崎の歩兵第十五連隊に入隊、日清戦争ののち歩兵大尉に進み、第十五連隊中隊長、北京駐屯中隊長と勤め、明治36(1903)年には陸軍省総務局附となり、内モンゴル(当時は清朝の支配下)の一部族であったハラチン右翼旗に軍事教官として招聘された。
明治37(1904)年より始まった日露戦争にも参加し、明治38(1905)年3月10日に奉天から六里ほどの場所で被弾、同月13日にこの傷が元で野戦病院にて亡くなったということです。

ざっくりとした年表はこんな感じになります。

・明治3(1870)年7月22日:生まれ
・明治22(1889)年12月:士官候補生として歩兵第十五連隊(高崎)に入隊
・明治26(1893)年3月:歩兵少尉
・明治27(1894)年7月8日:日清の出征軍には加わらず補充對に残留
・明治27(1894)年10月:野戦隊に編入
・明治28(1895)年5月:東京凱旋
・明治29(1896)年3月:台湾守備の命を受ける
・明治30(1897)年11月:帰隊。歩兵大尉。第十五連隊中隊長(高崎)。
・明治31(1898)年:鳥尾千代子と結婚
・明治32(1899)年:嫡子弥太郎生まれる
・明治33(1900)年暮れ:自宅が全焼
・明治34年(1901)6月:北京駐屯軍中隊長として赴任
・明治35(1902)年12月:帰国
・明治36(1903)年4月29日(光緒29年4月3日):招聘契約書 雇聘
・明治36(1903)年6月1日:陸軍省総務局附(招聘契約に基づき対象期間陸軍名簿から削除された)
・明治37(1904)年1月14日:北京帰着
・明治38(1905)年3月10日:奉天から六里のところで被弾
・明治38(1905)年3月13日:野戦病院にて死没

明治27年からの日清戦争については、ボン浮世絵コレクションにて「今景季」として描かれているようです。(*1) 景季は梶原景季(梶原景時の長男)で、「今景季」は伊藤博文に対する「今太閤」みたいな形で使われている感じですね。

なお、文武講習館に入学するまでは遠縁にあたる堀江芳介氏の屋敷に住んでいたそうです。
この堀江氏、第二奇兵隊出身で、鳥尾や三浦たちと思想的には同じで月曜会事件を機に予備役投入、さらに明治22(1889)年の欧州洋行もしているうえに、保守中正党にも参加されていたそうです。
なので、おそらく、堀江氏から紹介されて伊藤氏と千代子さんの結婚に至ったんだろうな…と思っております。

堀江芳輔為政
天保14 3 2 浦備後臣伝兵衛長男、芳介
二奇、建小隊司令、陸軍少将
明治31 12 3 病死(五六)従三

田村哲夫編『防長維新関係者要覧』/マツノ書店/1995年
p94
※管理人注:Wikipediaの生没年と違いますが、下記の明治12年人物写真帖の年齢と照らし合わせると防長維新関係者要覧が合っているのではないかと思います。

堀江芳介 《明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」 『陸軍』 陸軍歩兵大佐従五位勲四等浅井道博其他 (Ⅱ-07)》のうち ー 皇居三の丸尚蔵館

『烈士伊藤柳太郎少佐』について

上述の年表情報を含め、本記事の伊藤柳太郎氏の情報については『烈士伊藤柳太郎少佐』(*2)によっています。
本書は現在、国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信サービスにて閲覧することが可能です。が、著作権は切れていないため、本文画像の転載はNG、また、本文内容は引用の範囲で使用する必要があります。

同書は、伊藤氏の同郷の友人である永田新之允氏(1871-1971)により、昭和18(1943)年に発行されました。
永田氏は明治4(1871)年4月8日、岩国市登富町(現:岩国市)生まれで、17歳の冬に上京し、明治29年読売新聞社に入り、数年勤務したのち編集局長に就任、その後、国民新聞社、さらに実業之日本社の理事、編集長などを歴任しました。
大正13(1924)年には衆議院議員にも当選し、昭和7(1932)年には岩国町長、のち市長に就任し、昭和46(1971)年6月21日に亡くなりました。満100歳で、岩国市葬が同年6月29日に行われたそうです。

そんな永田氏は伊藤氏に対し、

彼れ伊藤とは總角の時、竹馬の時より其の陣歿の三十六歳に至るまで、一歳を少なくする私は、時に或は意見の相違に依り爭論することもありたれど、常に肝膽相照らし爾汝相許し、私の言ふところは彼れ多く従ひ、彼れの求むるところは私亦多く之を容れ、終りに鐵道爆破行に赴くに臨みては此行生還を期すべからずとして一篇の遺言状を其長兄と岳父鳥尾子爵と私と三人に特送し、其遺孤を托し後事を囑せる如き、其の莫逆の友情は死に至るまで譲るところはなかつた

『烈士伊藤柳太郎少佐』p9-10

ということで、小弥太が陸奥に対して言っていることと同じようなことを言っておられますね(過去記事:【鳥尾小弥太】恵の露04~鳥尾小弥太と陸奥宗光2~)。似たような関係だったのだと思いますが、小弥太と陸奥よりもうちょっと本当に仲が良いというか、和やかな空気を同書からは感じます。
小弥太関連とすると外れてしまうので抜粋していませんが、同書で、伊藤氏が上京するときに伊藤氏の父と永田氏で見送りをするシーンの回想があります。そのシーンの、特に見送ったあとの父親に対する描き方をみると「この人、ほんとうに伊藤氏が好きで良い友人関係だったんだろうな」という気がしてとても良いのでおすすめです。

 

鳥尾小弥太と伊藤柳太郎

さて、そんな『烈士伊藤柳太郎少佐』より、小弥太に関して2つエピソードを紹介します。
※引用文内の太字、および赤マーカーはこちらで入れたものになります

鳥尾、意見を変える(+日清戦争と鳥尾小弥太)

彼れが蒙古行を決定する前に、一つの故障が暫らく彼れを當惑せしめてゐた、其れは外でもない、無論双手を擧げて賛成さるべしと思料したる岳父島尾將軍が、オイソレと同意してくれなかった、将軍は天下の雄、政治家としても軍人としても國士としても愛國論者としても大義名分に明かなる人としても、伊藤の壯舉に固より異議あるべき筈はない、何か別に思慮もあり又愛婿に對する機略を蓄へての話であつたかは知らぬが、某夜伊藤は快々として私を来訪して、『どうも鳥尾の親爺が案外快諾して呉れん』といふから、其れはどういふ譯かと訊くと、伊藤の結婚が明治三十一年の暮、翌年は早くも愛男児を擧げ、三十三年の五月端午は初節句といふに、其れに先ち全家丸焼け殆んど一物を残さず灰爐となつた災厄あり、翌三十四年は團匪事件の條約に依る清國駐屯軍派遣に隨ひ、單身北京に赴き一年半の間淋しき家庭に妻子を残したのに今又家庭團欒僅に半歳にして歸期不明而も遼遠なるべき蒙古入りを爲すのであるから家庭に残さるる愛嬢と愛孫は常に空居を守らねばならぬ運命に置かれて居る、此點如何に豪懐の將軍と雖も人間鳥尾得菴居士として忍び難い所もある、恰も瑟々たる細雨紗窓を濕すの趣があつたが、伊藤は力説して將軍の意を釋かんとする其最中に私を尋ねたのであつた、私は誠に尢なる事と思つた、だが併し此場合私情の忍び難きは忍んで貰はねばならぬ、『將軍或は貴様が杜撰なる計畫と浮誇なる妄想の下に入蒙すると思つては居ないだらうか、我輩が友人として將軍に面し、貴様の心中を懇々と話して見ようではないか』といふと、彼れは今一度俺が話すから其れでもまだ六かしいやうなら一つやつてくれ、何でもお千代の奴が何か言つたのではないかと思う』と言ひながら一夜泊つて歸つた、お千代とは則ち伊藤夫人の事である、其翌晩やつて来て、『喜べ、將軍も納得した、快く納得した、大に國家の為にやれ、留守宅は預かると言つてくれたから晴天上々吉だ』と告げた。

p32-33

明治36(1903)年6月1日より、伊藤氏は清国支配下にあった内蒙古のハラチン右翼旗の守正武備学堂に教師として派遣されることになったのですが、その直前のことと思われます。
この派遣の経緯にあたっては、永田氏の著書および近代内モンゴルの教育史を研究されている阿如汗(アローハン)氏が詳細な論文を執筆されていますので、下部の参照・参考文献にまとめました(*3)。ご参照ください。

伊藤氏のモンゴル行きにあたって、伊藤氏も永田氏も鳥尾が快く承諾してくれると思っていたところ、良い顔をしなかったので意外だった旨が記されています。
伊藤氏の説明がうまく伝わっていないのでは?というようなことを言う永田氏に、もう一回説得してみるといって伊藤氏は翌日帰っていったとのこと。ここで「お千代」と書かれているのが千代子さんになりますが、もし本当に千代子さんが何か言って(言ったとすると永田氏が思っているような事情だと思いますが)、それを組んで鳥尾が承諾しなかったとすると良い親爺なのではないでしょうか。

が、この翌日に伊藤氏が「喜べ、將軍も納得した、快く納得した、大に國家の為にやれ、留守宅は預かると言つてくれたから晴天上々吉だ」と言って永田氏のところにやってきたように、再度の説得で鳥尾はあっさり背中を押すほうに転向してしまっています。
…鳥尾、こういうエピソードしかないな…

伊藤氏が具体的にどういうふうな説明をしたかは不明ですが、当時内モンゴルをもってロシアとの緩衝地帯を設けようとしていた伊藤氏(および陸軍)の方針については、鳥尾も似たようなことを言っていた時期があったようです。
これは2024/08/21時点でWikipediaに記載されている以下の内容を言っています。

日清戦争当時、日本軍の後背を脅かした清国騎兵に対抗するため、満州の馬賊への懐柔を献策している。結局、実現するには至らなかったものの、非正規兵であった馬賊に着目した点が注目される。

鳥尾小弥太 – Wikipedia

この記載が何を以てして言っているか不明だったので今まで流していたのですが、この伊藤氏の話を見ていて思い出したので改めて確認してみたところ、山名正二氏の『満州義軍』(*4)という書籍を根拠としているようでした。
満州義軍のなかで以下のように記されています。
※太字、赤マーカーと「(略)」はこちらで入れたものです

ところで明治廿七ー八年の日清戦争の時に中将子爵鳥尾小弥太が次のやうな献策をしてゐる。即ち
北京ニ向フ日本軍ノ側背ヲ脅カス満州馬隊ニ対抗スル為ニ、満州ノ猟人ヲ懐柔スルコト
この策は畏かしこくも乙夜の覧を賜うたと洩れ承るが、實現の運びには國到らなかつた。
「満洲馬隊」とは「清國騎兵」である。しからば他の「満洲の猟人」とは何であるか。鳥尾中将はそれを如何なるものと考へてゐたのであらうか。
(略)
しかし鳥尾の所謂「満洲の猟人」なるものは、鳥尾自身も深くは知らなかった。鶴岡が満州へ入つて調査してみて、はじめてその全貌が明らかにされた。即ちこれが「馬賊」若しくは「團練」である。

p34-36

ところが、この献策というのの元情報が現段階で見つけられていません。
明治26(1893)年~明治33(1900)年の期間で鳥尾で絞ってとりあえずアジ歴を見てみましたが、この条件だと見つかりませんでした。今後見つけたら加筆したいと思います。
ただ、日清戦争勃発時は予備役に投入されていた明治初期の将校が多く一時的に現場復帰させられており、鳥尾もどうも復帰していたようです(これは知りませんでした)。

明治27(1894)年7月25日の豊島沖海戦で実質開戦し、8月1日に清国に宣戦布告をしたことで始まった日清戦争ですが、国外に将校を派遣した関係もあって上層部の人員が足りなくなってきたのか、同年の10月12日には東京にいる将官およびそれに相当する官職をもつ人名リストが作られています。(*5)
このリストがなかなか胸熱です。監督、軍医を除く、大将~少将で名前を連ねている方々は以下の方になります。

役種
(空欄は現役)

階級 爵位 氏名 明治27年時点年齢
陸軍大将 熾仁親王(有栖川宮) 59歳
陸軍大将 彰仁親王(小松宮) 48歳
陸軍大将 伯爵 大山巌 52歳
陸軍大将 伯爵 山縣有朋 56歳
陸軍中将 子爵 三好重臣 54歳
陸軍中将 男爵 黒川通軌 51歳
陸軍中将 男爵 山地元治 53歳
陸軍中将 男爵 川上操六 46歳
休職 陸軍中将 男爵 野崎貞澄 54歳
予備 陸軍中将 伯爵 西郷従道 51歳
予備 陸軍中将 伯爵 黒田清隆 54歳
予備 陸軍中将 子爵 鳥尾小弥太 46歳
予備 陸軍中将 子爵 三浦梧楼 47歳
予備 陸軍中将 子爵 谷干城 57歳
予備 陸軍中将 侯爵 四條隆謌 66歳
予備 陸軍中将 子爵 曽我祐準 50歳
予備 陸軍中将 子爵 高島鞆之助 50歳
予備 陸軍中将 男爵 滋野清彦 48歳
陸軍少将 岡澤精 50歳
陸軍少将 乃木希典 45歳
陸軍少将 児玉源太郎 42歳
陸軍少将 小川又次 46歳
陸軍少将 黒田久孝 49歳
陸軍少将 佐野延勝 45歳
陸軍少将 寺内正毅 42歳
陸軍少将 塩屋方圀 44歳
陸軍少将 大築尚志 59歳
休職 陸軍少将 渡邉央 57歳
予備 陸軍少将 津田出 62歳
予備 陸軍少将 子爵 田中光顕 51歳
後備 陸軍少将 村田経芳 56歳
後備 陸軍少将 井上教通 59歳
陸軍少将 川村景明 44歳

このリストが上がったあと、同日に西郷従道は現職の海軍大臣に加えて陸軍大臣の兼任となり(*6)、戒厳令発布の官報(*7)が飛んでいます。
さらに、同年10月29日には鳥尾が韓地(朝鮮)へ出張中である旨の文書が残っていました。これが今回調べていて初めて知ったものです。(*8)
自分でいまいまキチンと読めていないので文字お越しされているものをそのままお借りしますが、

副官ヨリ留守第一師団参謀長ヘ回答案 鳥尾滋野両中将出張云々之義ヨリ江間各々趣了承鳥尾中将出張ノ義ハ当省ニ於テハ相分リ@申し候滋野中将ハ留守近衛師団長ニ@命相成候条@@御承分相成度此段及御答候也 号外 陸軍中将鳥尾小弥太 右ハ目下韓地ヘ出張中ニ有之哉 陸軍中将滋野清考 右ハ目下留守近衛師団長ノ残務ニ就カレ居候哉 前出@右号@@@@@ニ付何分@@相成度此段申進候也 十月三十一日 留守第一師団参謀長官 陸軍省副官山内長人殿 追テ@@@御@相願候也

ということで、この時点ですでに朝鮮に渡っているようでした。そして同じく予備役から戻された滋野さんが近衛師団長を任じられているようです。ですので、当該献策がこの出張の前なのか後なのかによりますが、後の場合は実際に現地で得た情報から行った可能性が高くなります。

この日清戦争の鳥尾の渡韓の話はこの千代子さんの記事を書く際には全く予定になかったので現時点だとこの程度の情報しかないのですが、当時朝鮮公使として井上馨(聞多)が朝鮮にいたためそこに行ったのか、はたまた本当に戦地に行ったのか気になりますね。
特に戦地だとした場合、同年9月13日に山縣が第一軍司令官としてソウル(漢城)に入り、10月23日に義州に到着しているので(*9)、もし山縣のほうに行ったのだとすると鴨緑江を鳥尾が見た可能性も出てきます。そうするとロマンだな…と思ったのですが、ロマンなので聞多のところに行ってそこで情報収集していた可能性のほうが高いな…という感じです。

 

鳥尾→伊藤柳太郎への手紙

もう1点のエピソードが、永田氏が伊藤氏の遺品から手元に残している鳥尾の手紙についてです。
引用した手紙内容のうち、「(下略)」は原文ママです。

私が當年を回顧して感に堪へないのは、鳥尾將軍が終に彼れの戰死を知らずして眠られた事だ、彼れが明治三十四年から三十五年の暮にかけて北京に駐屯した一年半の間、支那の巨將及其幕僚や又文官諸卿との交際も厚くなつて、其中の人で偶々日本へ來朝すると、彼れと舊交を温ひる情誼に於て訪問して来る、彼れは其都度、小石川音羽の鳥尾子爵邸に招いて會食した、其頃の鳥尾邸は音羽の丘上に廣廓を占め、巨幹老樹鬱蒼として屋を繞り、珍客を請ずるに、ふさはしい幽邃の境である。私も一二度其席に列した記憶がある、思ふに鳥尾將軍は彼をして志を支那に伸ばしむべく喜んで利用せしめてゐたのである、鳥尾將軍は彼を遇すること厚かつた、同時に彼れの將來の大成の為に時々苦言を呈したと思はるるふしがある、彼れが其苦言を尊重してゐた證左には多くの來翰は續了後屑籠に葬られたのに、彼れの匣底から私の手許に殘つて居る將軍親書の手紙二通、其一通は彼れが高崎在勤時代、千代子夫人大患の時の氣苦勞の筆『醫者は本郷の佐藤へ相頼み候』とあるから順天堂院長の佐藤老博士であつたらう、こうして、いろいろの心づくしが認めてある。私は將軍が明治二十二年、大隈外務大臣の條約改正に猛烈に反對し、怒れる獅の如く大隈伯に詰め寄つて之を破壊した鳥尾小彌太の辛疎振りを知つて居るから、今此書面を見て如何にも半面の優し味を感じ、人間鳥尾得庵居士を想ひ見るのである大概、今明日中には御地へ參られ可申に付、兎も角も大家の事ゆへ一様診察爲致置、今後の手當等も十分注意之處承り置候方可然に付、其御思召にて御取計有之度候、猶爾來の経過は通知被下度候云々』これは明治三十四年三月の事であるが、他の一通は、高崎の借宅が自火か空巣狙ひの物盗り後の放火か、晝間一家不在中の失火に因りて一塵も残さず丸焼となり、身に着るものは軍服ばかりといふ大災厄に遭ふた時の手紙である。
是れには二箇條の訓戒が認めてある、突如たる大災厄に見舞れたる衝動に對し、父が子に訓ゆる不動精神の至言である、伊藤は深く感銘したものか今に其書面が残って居るのが神妙である。
(因に云ふ、書中、日野西とあるは將軍長女の婿で侍從であつた日野西麦博子、光とあるは將軍の長子、彌太郎とあるは伊藤の一子にて將軍の孫に當る)

X X X X

拝啓、過般御出京之際は何之御愛想も無之失敬罷在候、其後御假り宅出來のよし、當分は御不自由と御察し甲上候、拙者も過日來、日野西の孫及び光とも三人はしかにて打臥し大に心配致し、二人孫は最早全快致し、光事も頃日は日々快方にて安心致し候、旁以て御無沙汰勝に相成、不惡御海恕被下度候、當年は彌太郎の初節句に付鯉の吹流しなりとも御贈り御祝ひ可申上之處過般の火災は他人にも迷惑をかけ候事に付此事に付此年は御内祝にて明年の節句に致す方可然かと存候に付、さしひかへ申候、人世の義理御考へ程よく御取計ひ可然奉存候
此度の災厄に付ては随分御當惑之至と存候得共、或は禍を轉じて福と爲すの道理も有之候に付、左に心付の儘を申上候
第一 飲酒は餘儀なき場合の外は御廢し相成度候、種々の過失は盡く酒より起り候事古人も申殘し置候事也、其上精神も疎忽に相成候て思慮もはつきり不致様相成申候、此事は猶御面會致し候節は酒の大害を御話し可申上候
第二 物欲に廉直なるべき事は、勿論男子の心懸け可申事に候得共、兎角不自由致し候時は心中にも卑しき思慮生じ易きものに付、此處十分に御心得有之樣爲念申上置候、廉とはカドと讀みて取與得失、もの事に正しくして所謂るづぼら根性のなき事也、此廉直の二字を心に守れば悪しき友も寄り付不申、又商人杯の甘言にも惑せられず、一生界必らず面目を失はず、軍人は殊に用心の一大事と存候、今日火災等にて御不自由の時は却て此修業によき折に付申上候
たとへ百萬の借金あるも、此心あるものは厳然として男子なり、又百萬の富貴あるものも、此心なきは所謂餓饒なり、心中に一點の自陰落あれば、自然に一生の長日月の中には其身も墜落致し候事は不可免也

右の老婆心より申上候に付ゆるゆる御工夫有之度候野夫も本月廿日頃より一寸西京行致候(下略)
五月三日 得庵
伊藤柳太郎樣侍史

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

鳥尾將軍の此訓戒は濁り伊藤にのみ緊要でない、一般人に對しても亦拳々服膺すべき箴語である、多分、伊藤は此時から一年ばかり禁酒してゐたと思ふ。此二箇條の中に就て金錢上の事があるが、彼れは武人たらんものは金銭に嚴直なるべしとの志操が堅かつた、私と彼れとは骨肉啻ならぬ間で、時に相互に金銭の貸借もあつたが、彼れは其翌月には必ず返済し淹滯せしむるやうな事はなかつた、今其の遺言書を見るに、生前他人に對して負債は何にも無いといふ事を特に明記して居る、是等の係累は生前よしあつたにせよ大事に赴くに當りて悉く決濟して行つたのであらう。彼れは伊藤家としては末子であるから、長兄次兄等が裕かなる生活をして居るに對して、其服代とか何とか、時に家から融通を受けても強ゐて返却の必要もあるまいと思ふに、其れを月給の内から几帳面に兄等に返済して居る、遺言書の中に妻兒今後の生計に就て明細に金錢關係が記してあるが、是等に徴しても物欲に迷はさるる如き事は有り得ないと思ふ、併し突如たる丸焼けの大災難に撃たれ、心事混亂、意志衰耗する事も若しあれば、人間は弱いものである、此時が一大事である、此の時に當りて鳥尾將軍の岳父としての懇情が一篇の親書となつて、彼れの眼前に輝やいた、實に心強い事であつたであらう。

p309-314

どういう経緯か分かりませんが、永田氏は伊藤氏の遺品として匣子を持っていたようです。
自伝に書かれている通り、伊藤氏は頻繁に永田氏のところにやってきて泊まっていったり、ということもあったようなので、元々そうした経緯で永田家に置いたままだった荷物なのかもしれません。その中に、小弥太の筆による手紙が2つ残っていた、ということで、いずれも陸軍歩兵第十五連隊で高崎(群馬県)に居住していた時のもののようです。
1通目がちょっと区切りが曖昧ですが、赤マーカーをいれたものを含むのだろうと思います。2通目は「X X X X」~「~~~~…」の範囲のものです。

1通目は病気を患った千代子さんのために医者を手配し、心配している旨。2通目は明治33年の暮れに高崎の借宅が燃えてしまったあと、どういった気持ちでいたらいいかを綴って送ったものです。
この2通目の意訳を記載します。

意訳

拝啓
先ごろ出京される際はなんのもてなしもできず、大変失礼いたしました。
その後、全焼した借宅の代わりの住処ができたそうですが、当分はご不便になることとお察し申し上げます。
私も先日、日野西の孫(娘の子)や光(息子)と三人はしかに罹ってしまい、おおいに心配しておりましたが、孫二人はもう全快し、光も最近快方に向かってきて安心しているところです。
どちらにしても、ご無沙汰していることに変わりはないのですが、どうかご容赦いただければ幸いと思っております。

今年は弥太郎(伊藤氏と千代子氏の子)の初節句ですので、鯉のぼりなどを贈ってお祝いしたいと思っておりましたが、先日の火災は他人にも迷惑をかけてしまったことですので、今年は内祝いとして、来年の節句にしたほうが良いのではないかと思っております。ですので、今年は差し控えさせていただく件、世間のことを考えてよくお取り計らっていただきたく、よろしくお願いいたします。
この度の厄災については、ずいぶん当惑されたことと思いますが、あるいは災い転じて福となすということもございますし、以下にこういったときの気の持ち方を記載いたします。

第一
飲酒は、どうしても飲まなければならないような場以外は、これをやめること。
様々な過失はことごとく酒よりおこると先人もいっております。
そのうえ、精神も軽率となり思慮もはっきりしないような状態になってしまいます。
このことは次にお会いする場で、改めて酒がいかに害があるかをお話しさせていただこうと思います。

第二
物欲に対して廉直であるべきことは、もちろん男子の心がけるべきこととなります。
とかく、いまのような不自由をするときは卑しい気持ちが湧きやすいので、このところは十分に心得ていただくように申し上げたいと思います。
廉直の「廉」とは、カドとよんで取与得失、物事に正しくして、いわゆるずぼら根性の無いこと、です。
この廉直の2文字を心において守れば、悪い友人も寄ってきませんし、また商人などの甘い言葉にも惑わされず、一生涯必ず面目を失うことはないでしょう。

軍人は特に用心の一大事として、今日火災等にてご不便を感じているようなときはかえってこういった修行としてよい機会だと思います。
たとえ百万の借金があったとしても、こういった心のあるものは厳然として男子であるでしょう。
また百万の富をもっていたとしても、こういった心のないものはいわゆる心の貧しい者です。
心のなかに一点でもだらけようというところがあれば、日々を重ねるごとにその身も堕ちていってしまうことは避けられません。

老婆心から申し上げましたが、ゆるゆる工夫されて取り組まれていただければと思います。
私も本月20日頃よりすこし西京へ行く予定でして…(以下略)

五月三日 得庵
伊藤柳太郎樣侍史

▲意訳ここまで

手紙の原文は載っていないため永田さんが若干改変している可能性もあるのですが、内容をみるに鳥尾が本当に言いそうなことだな、と思っています。
「伊藤は此時から一年ばかり禁酒してゐたと思ふ」と手紙の内容に続けて永田氏が書いている通り、この伊藤氏、かなりお酒を飲む方のようでした。前後不覚になるほど飲むわけではないけれど…と同書の中で永田氏が書いていますが、おそらく千代子さんとしてはちょっと困っていたのではないかと思います。それを、この機会にソッと鳥尾が諫めてくれたんではないか、と私は思っております。

 

千代子さんに「留守を守る身だから」と手紙を出した明治37年の翌年、前回の記事の冒頭に起こした花園日誌は明治38年2月で筆が終わっています。その翌月、3月13日には海を渡った大陸で伊藤氏が亡くなり、そしてそのことを知らないまま、ちょうど一か月後の4月13日に鳥尾も亡くなりました。伊藤氏35歳、鳥尾は57歳でした。
養父と夫を同時に亡くした千代子さんのその後は、資料からは追うことができません。
その後どのような人生を送られたかは現段階では分かりませんが、千代子さんの訃報を永田氏がご存じだったということは晩年まで交流はわずかながらでもあったのだろうなと思います。

また何かしたらのきっかけで、ふとした時にお名前を見かけることが十年後、二十年後でもあったらいいな、と思いつつ、特にオチもないのですが今回の千代子さんから派生した一連の整理結果をいったん終えたいと思います。

参考・参照した文献など

*1:今景季(歩兵小尉伊藤柳太郎)(ボン浮世絵コレクション) – 慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクション
*2:永田新之允 著『烈士伊藤柳太郎少佐』/文録社/1943年 – 国立国会図書館デジタルコレクション
*3:伊藤柳太郎氏の内モンゴルへの派遣については阿如汗氏が神戸大学での博士論文提出に関連して執筆されています。当該研究は科研および松下幸之助記念志財団の助成(2014年度)を受けており、関連論文はインターネット上でほぼすべて参照することが可能です。
清末から中華民国初期の内モンゴルにおける近代学校教育の展開と知識人の育成 - KAKEN清末から中華民国初期の内モンゴルにおける近代学校教育の展開と知識人の育成   – 松下幸之助記念志財団

▽上記のうち、伊藤柳太郎が関連する主要論文
阿如汗「グンサンノルブによる日本陸軍軍人招聘―伊藤柳太郎が招聘された経緯と背景―」『内陸アジア史研究 31巻』/2016年   – J-STAGE

*4:山名正二 著『満洲義軍』/日刊満洲社東京出版部/1942年 – 国立国会図書館デジタルコレクション
*5:「在京将官同相当官人名」Ref.C06031026600、明治27年自6月至12月朝鮮事件綴込雑 陸軍省(防衛省防衛研究所) – JACAR(アジア歴史資料センター)
*6:「西郷海軍大臣臨時陸軍大臣を兼任の件」Ref.C06031026400、明治27年自6月至12月朝鮮事件綴込雑 陸軍省(防衛省防衛研究所) – JACAR(アジア歴史資料センター)
*7:「戒厳令発布の件」Ref.C06031026900、明治27年自6月至12月朝鮮事件綴込雑 陸軍省(防衛省防衛研究所) – JACAR(アジア歴史資料センター)
*8:「韓地へ出張中の件」Ref.C06031012300、明治27年自6月至12月朝鮮事件綴込雑 陸軍省(防衛省防衛研究所) – JACAR(アジア歴史資料センター)
*9:伊藤之雄『山県有朋 愚直な権力者の生涯』/文春新書/2009年

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