雑記

【雑記】推し活と宗教に関する備忘録

はじめに

先日友人と話をしていた際、「この記事どう?感想聞かせて」ということだったので以下の記事を読みました。
※教えてもらった記事はYahooのほうだったのですが、元記事のほうを貼ります

正直なところ、誰かの言っていることに対して聞いたりするのは何でもわりと楽しいのだけれども、自分がそれに対して「何かを言おう」とすると
命に関わること >>>> 仕事関連 > (越えられない壁) > 社会教育・文化財など >>>>>> 幕末維新を含めた趣味のもろもろに関すること > その他
みたいな優先度でしか「感想を言うぞ!」という気がおきず、サーッと読んだだけだと「そういう考えもあるよね~」みたいな、語彙力なさすぎるので薄い感想文しか書けなかった…。教養がある人は好奇心をもってどんな話題でもある程度喋れる、と言いますが、そのあたりが露呈します。
こういう、ちゃんと言語化しようとすると考えるし、考えると自分の持っている思想に対して改めて発見もあるので良いですね(そしてこれが疲れるので、上みたいな優先度でなるべく考えなくていいことを考えたくないズボラであります)
というわけで、もう少しちゃんと読んで感想をまとめてみます。

概要と私の推し活感

まず紹介された記事の概要です。
ゲームに関する技術や知識を共有する国内最大級のカンファレンス「CEDEC 2024」(2024/08/21-08/23)にて、関西学院大学神学部の准教授である柳沢田実氏(専攻:キリスト教思想、キリスト教芸術、生態心理学)が、08/21のレギュラーセッションとして講演したのが本記事の内容となっています。

得られる知見
ファンダム・カルチャーの現状と問題点、ファンダム・カルチャーを作り出すファン心理とその宗教との類似性、ファンダムが「善い」宗教であるための条件
セッション内容
「推し活」という日本独自の呼び名まで生んだファンダム・カルチャーは、2010年以降若年層から高齢者まで広がるメジャーな娯楽となり、日本社会でも大きな経済効果を生む一大産業と化しました。個人の幸福(ウェルビーング)実現のために有効だという点から「推し活」を推奨する動きが強まる一方で、ファンが依存症や中毒状態に近い状態に置かれていること、献身的なファンを搾取するかのようなファン・マーケティングが行われている点など、ファンダム・カルチャーの問題点も顕在化してきています。この講演では、ファン心理の両義性について、宗教との類似性をふまえつつ解説し、ファンダムが「善い」宗教であるためには何が重要なのかを考えます。
ということで、このセッションのテーマは得られる知見に書いてあることになるのですが、今回私が感想を求められているのは「ファンダム・カルチャーを作り出すファン心理とその宗教との類似性」、「ファンダムが「善い」宗教であるための条件」で、特に前者だろうな、と思っています。
なお、ファンダムというのはファンとキングダム(漫画の同名のやつではなくて、ファンによって疑似的に形成されている経済圏(王国)的な意味合いだと思っています)をかけ合わせた造語で、「特定のコンテンツに対して熱心なファン集団を指す」とのことです。
なお、「推し活」という用語に関しては電ファミニコゲーマーの記事では月刊誌「国民生活」にかかれていたというものを元に、
推しとは「ほかの人にすすめること。また俗に、人にすすめたいほど気に入っている人や物」
と定義しておられました。
私個人はこの定義は狭義にいったものだと思っていて、これだと鳥尾も久坂も私の「推し」では無くなってしまいます。私は〇〇を単純に好きだから推してんだ。同担ウェルカム。
webiloさんのこの定義が私個人ではしっくりきます。

推し活
読み方:おしかつ

「推し(自分にとってイチオシの、アイドルのメンバーやアニメのキャラクター)」に情熱を注ぐ活動の総称。ライブに足を運ぶ、グッズを買う、あるいは「推しグラス」のようにグッズを自作する、布教する(SNSで推しの良さを語る)、二次創作を行う、身の回りの小物を推しのメンカラにちなんだ色に揃える、等々、推しへの愛情に関連づけられるあらゆる活動が「推し活」に該当しうる。
(2021年10月27日更新)

推し活 ー  Weblio辞書

この「ほかの人にすすめる」というのが、実は宗教戦争のミソなんじゃないか…というのが記事を読む前の予想・感想でした。
岡田斗司夫さんのいう、現代は心のシェア戦争…ということであれば、ほかの人にすすめるということは、その人のキャパが増えない限りは、その人の心のなかの何かの比率を縮める代わりに、すすめられたものの比率を上げるということだと思うのです。
これをいわゆる推し活ではなく歴史上の宗教戦争に照らし合わせると、富の総量が増えていないなか、ある国(神)のシェアを広げようとすると、ある国(神)のシェアは下げなければいけない。極端にいうと、何かを捨てさせて(否定して)、なにかを許容させるということにもなります。そして、勢力を拡大したにも関わらず(おなじファン同士にも関わらず)、
我が一番、神に近い」というトップヲタ(自称)とか、
我らが神を支えてきたのだ」という神官みの強い古参制(良い神官は当然いる)とか、
我は免罪符をいっぱい買ったなり。ゆえに罪も許される」という金にものを言わす貴族(貴族)とか、
神は〇〇を望んでいる!」「神がこういったのは〇〇だから!」「神を理解しているのは我だ!」という派閥(プロテスタントとかカトリックとか東方教会とか浄土真宗とか日蓮宗とかetc…)が出てきて、戦争が起こるわけです。
たまに「我の信じた神はこんなことするはずがない。ゆえに、神は死んだのだ」という反乱勢(反転アンチ)が出てきますが、このあたりは経済圏を争う上記とは異なり、神VS信徒の、神の解釈違い戦争なのでより悲惨です。
私はこのあたりの現代解釈は犬山たまきくんのユニコーン解説図が秀逸すぎると思っているのでオススメです。
なお私も舞台にハマっていた期間があるのですが(過去記事:【雑記】同じ本を何回も買ってしまう問題と舞台の話)、私は貴族でないにも関わらず貴族にあこがれて、一時期免罪符買う庶民みが強かったです。なんか、キックバック入るし推しの枠でチケを買わないと…とか、個人ブロマをいっぱい買わないと…とか。
もう義務になっている時点で貴族でなければ危険信号。免罪符買ったら教会は喜ぶけど別に罪も許されないし、買いすぎると破算して教会に通うこともできなくなるので、「好き」の範囲にしたほうが結果的に幸せになれます。
(免罪符系ヲタクは別に推し界隈でなくとも、あらゆる趣味界隈でよく見かける(私の身内の車ヲタクも「車好きならパーツを良いやつにしないと…」的な方向に一時期走っていた))

 

件の記事の話(感想)

では件の記事をみていきます。
はじめに前提として、私はまじめに話すと この記事の内容だけでは内容に共感できない… という感じです。
ただ、これはこのセッションがCEDECの中の催しなのでエンタメ寄りにしないといけない、ということと、この先生のポジションが「何かを神聖視する人間の心理」ということだからだろう、というとことです。

この先生は、神聖性のなかに「」も入れてしまっているんですが、私は上述の通り、命とそれ以外の領域は別物だと思っているので、ここを一緒にされると頭でも理解ができないのです。
神聖性というのは多様性で、誰かが神聖だと思っているものはだれかにとってはそうでもない、というものである、というのが私の理解なので、誰にとっても万国共通優先するべき「命」は、多様性にくるんでしまうのはちょっと解釈違い…という感じ。
なので、「そういう考え方もあるよね…」という簡単な着地点に止まってしまいたくなるのですが、もうちょっと歯を食いしばって考えます。

上述の「命」を聖なる価値を持つものに入れてしまっている、という前提を踏まえると、記事中の

20世紀後半の先進国では世俗化が進み、宗教のような呪術的なものは今後なくなっていき、合理的な21世紀が来るという感覚が存在していたと言います。しかし、21世紀の幕があけた直後に発生した同時多発テロを受け、研究者たちは慌てて研究を始めたそうです。

聖なる価値の研究が進むにつれ、聖なる価値を巡る諍いや交渉に対して第三者が金銭的な取引を申し出ることは一層激しい怒り(バックラッシュ)を引き起こすことも分かってきました。

という記載も「そりゃそうだろうな」という感想です。
「聖なる価値を巡る諍いや交渉に対して第三者が金銭的な取引を申し出ることは一層激しい怒り(バックラッシュ)を引き起こす」を、聖なる価値を持つもので2つ主語を書き換えます。

1)
「命」を巡る諍いや交渉に対して第三者が金銭的な取引を申し出ることは一層激しい怒り(バックラッシュ)を引き起こす

2)
「大切なペン」を巡る諍いや交渉に対して第三者が金銭的な取引を申し出ることは一層激しい怒り(バックラッシュ)を引き起こす

Aさんは1)で、Bさんは2)の解釈で話をしたら大論争になります。そうです、「聖なるもの」の主語がでかすぎ(広すぎ)なんです。
今回のセッション内容だけだとエンタメに寄せすぎているので、そういうものだよね、と思うのですが、「神学」的な神の色が、なんか弱い。せっかくだから神学的見知でこのあたりを聞いてみたかったな、という感じ。
この先生のいう「神」は、八百万でもなくアッラーでもなくクリシュナでもなく、キリスト教圏なのでイエス様とその父なるGODだと思うのですが、GODと大多数の日本人のなかの「神」の定義はかなり違うので、そのあたりがなんかこう、もうちょっとかみ砕いていれてきてくれると専門性際立ってめちゃくちゃ面白かったんじゃ…という気持ち。
たぶんこの辺りの解釈が出てこないと、紹介されている社会心理学者のジョナサン・ハイトが実施したという「道徳基盤調査」の結果の分析は響いてこないのではなかろうか。

これについては書いていて思ったのですが、おそらく専門にあげられている「生態心理学」というものがそういう分野なのだろうか。あげている先行研究者に関しても心理学のような話が多いな、と思った。
「キリスト教思想」についても、あれなのだろうか、近代思想とか中世思想とか古代思想とかで分かれていて、この先生は現代思想的な部分がご専門なのだろうか。
これも結局は、「私はこういう知見がきけると思っていた、だが違った(勝手に期待していた)」という解釈誤りなだけの気がしますね。

 

得られる知見のまとめ

記事を読んだので整理します。
なお、記事の内容は記者の方の伝聞になってしまうので、上述のインタビュー記事と、三田評論のほうもMIXして引用させていただきます。

以下、こういうことを主張されたいのだろう、というまとめです。
(本当にこういうことを主張されたいのかは不明かつ、私の推し活への見解ではないです)

<前提>
人々は様々なものに「聖なる価値」を付与する。
聖なる価値はお金など市場経済で定義された価値に変換できない(したくない)

■ファンダム・カルチャーを作り出すファン心理とその宗教との類似性
1)ファン心理
<日本で「推し活」が流行する土台> 

①価値観土台
・「道徳基盤調査」の結果、合理性の高い人々は「ケア(危害)」「フェアネス(公正)」という要素を重視し、左記に比べて「ロイヤリティ(忠誠)」、「オーソリティ(権威)」、「サンクティティ(神聖)」は低下する傾向があった。
・同調査では、日本人は「ケア(危害)」「フェアネス(公正)」を重視した人々については、上記とは異なり、残りの3つの要素が低下するのではなく「サンクティティ(神聖)」は高い傾向にあった。
※記事中のスライドでは自由主義とか左翼とかそういう層での5要素のグラフしか出ていないので日本人のやつどの程度なのか不明
→ 日本人は合理的な人々であっても「聖なる価値」を重視する傾向にある

②Z世代の共同体意識のリアリティの欠落
・人間は他者との関係「私/私たち」、または「私たち/彼ら」という枠組で認識するはずだが、Z世代は「私/膨大な彼ら」という枠組で世界を認識している。共同性や共同体の基盤になる感覚が欠落している(※インタビュー記事)
→ 日本人は血縁共同体に対する意識が強く、逆にそこを越えた関係性(「私たち」などの共同体)にリアリティを持ちづらいのではないか

<ファン自身の自認>
・推し活は消費社会における一種の宗教。
そもそも推し活をする人たちは自らの推しを「神」と呼び、ファン同士の対立を「宗教戦争」と呼び、推しグッズを並べた棚を「祭壇」と呼ぶなど、自ら推し活が擬似宗教であることを明言している。
→ 生きることの意味や価値を人々に供給している

2)「推し活」と宗教との類似性
・信仰とはごっこ遊び
神や霊など「目に見えないなにか」をリアルに感じるために、人間は様々な努力をおこなう。「目に見えない他者との非常に情緒的でパーソナルな関係性」が重要、といわれている。
→ 「想像上のものと関係性を結ぶ」という構造は、まさに推し活やファンダムのなかでもおこなわれているもの

・宗教(キリスト教圏)のごっご遊び
近年のキリスト教福音派では、「Jesus is my best friend」、イエスとともにコーヒーを飲んでいるかのようなふりをする活動がされている。
(「ルカの福音書-103「友よ」」や、「ヨハネ福音書15章9-17節「イエスこそ真の友」」の解釈からきている模様)

・推し活のごっご遊び
推し活もまた、「推し」の分身のぬいぐるみを作り、その写真を撮影したり、一緒に旅行をしたりする「ぬい活」、「推し」のアクリルスタンドを飾る祭壇作り、「推し」の誕生日にケーキを作って一緒に食べた気分になるなどの行為がある。

→ 両者とも「感情的な現実」を求める盛大なごっこ遊び ではないか。

 

■ファンダムが「善い」宗教であるための条件
1)「推し活」の流行の他の要因と意義
Z世代は共同体意識のリアリティの欠落がみられる。推し活はこれを補完し、推しを通してパラソーシャルな関係を結ぶ(社会的な人間関係を結ぶ)ことができているのではないか

2)ファンダムが「善い」宗教であるための条件
・1960年代以降、アメリカでは全体的に肯定的な感情による現実を作っていこうとした
・「善さのない世界を善いものと信じる」(善さのない世界:筆者としては市場経済が全面化している現代はあまり善いものではない、という前提)というために、ごっご遊び的な行為は必要
・「推し活」を行う人々と、私たちは同じ社会にいながら互いにまったく異なる現実を生きている可能性が高くなっている

 消費する側もそれを作る側も、宗教と同様に「想像上のものと関係性を結ぶ」という構造である、ということを念頭に置いたほうが良いのではなかろうか

 

まとめた上での感想

ということで、記事単体だけでは腑に落ちなかったところが、三田評論とインタビュー記事で補完すると、あっているかは不明ですが理解できました。
CEDECで講演された際の落としどころとしては、ゲームのキャラクターなどで推し活をしている層はこういう心理、社会的な背景を持っている可能性もあるので、それを理解してゲームやグッズなどを作っていったほうがいいね、やる側もそういう理解をもっていたほうがいいね、ということでしょうか。

三田評論のほうの「私たちは同じ社会にいながら互いにまったく異なる現実を生きている可能性が高くなっている」については、それこそ多様性が叫ばれている時代のなかで意識しておくべきことなのかもしれません。

ただ、そこにはやはりまず「社会」という共同体があるので、前提としては郷に入らば郷に従え、の精神で、その「社会」でしかれているルール、キリスト教的にいえば「律法」のもと、他者を理解しながら生きていくことが大切なのかな、と思いました。

 

参考書籍

別途、ユダヤ教、キリスト教の「神」の考え方と、日本人の宗教観は以下の本がオススメです。「宗教の力」、好きすぎて2冊持っています。
上述したGODと日本の「神」の違いについて、この2冊から少し引用してみましょう。「一神教の誕生」は2002年の本ですが、現時点で2024年に読んだ本の中で一番面白かったです。

右に述べてきたことの関連で申しますと、外来宗教としての仏教は、この伝統的な祖先崇拝を受け入れることによって土着化に成功しました。しかし、キリスト教は日本人の信仰における祖先崇拝の重要性を見誤ったために、土着化に失敗したのだったと、私は思います。
一九七三年にシカゴで「第九回人類学民俗学国際会議」が開かれましたが、そこで掲げられた特設テーマが「祖先崇拝」でありました。この時の会議で討議の対象とされた地域は、主として日本、沖縄、東南アジアに限られ、いわゆる「西欧」社会が含まれていないのが印象的でありました。この地域的に偏った分布は、もちろん祖先崇拝の残存盛行地域を示す印象的な指標であります。中でも、産業構造において西欧型を示す日本が、その精神構造において祖先重視の伝統を継承してきたことの意味が関心の的となったのであります。

(略)

私は日本人の信仰において「先祖」という存在が持っていた権威と役割は、ちょうど欧米社会における「神」の存在に極めて類似していると考えるものであります。日本人の多くは、彼らの日常生活を見守り、その行動の正邪を判断するだけではなく、その運命をも予知し、予言する存在がほかならぬ先祖であり、先祖の霊であると考えてきたからであります。

山折哲雄「宗教の力」p45-47

神と民とが契約の当事者である。両者に権利と義務がある。神は民に恵みないし救いを与え、民は神を崇拝する。これはすでに見た4a図(五十四ページ)に示した関係である。この図にしたがって考えるならば、北王国が滅亡したという事態は、神が民に恵みを与えなかったということを意味する。神は動かなかった。神は沈黙していたのである。

加藤隆「一神教の誕生」p64

神と民との間には契約があるのだが、一方の当事者である民は罪の状態にあり、契約における当事者の義務を果たしていない。そのために契約が実行されないのである。そして民は、他の神々を選ぶことはできない。これも民が罪の状態にあるからである。
ただしこの一神教の枠組から出る方法もある。ヤーヴェとの契約を破棄すればよいのである。そうすれば民が罪の状態であるという位置づけも解消する。しかしこのことは、ヤーヴェを見捨てることを意味する。契約を破棄することは、ヤーヴェを駄目な神だとすることを意味するからである。民は駄目な神を選ぶことはできない。

加藤隆「一神教の誕生」p71



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