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【読書記録】異界夫婦

しかし、いわゆる「妖怪」の絵はあまり描かなくなったものの、実は今のほうが本来の意味で「妖怪絵師」に近いという見方もできるかもしれない。身近にいる我が家の『小鬼』を観察し発信することが、きっと私にとっては最高の妖怪表現なのだろう。いつの間にか私は、妻という『小さな大妖怪』を、いろんな意味で描き続けていくことになったのである。
ー73ページ

 

書籍情報

書籍名:異界夫婦
著者:戌一
出版社:左右社
レーベル:ー
発売日:2024年09月30日

購入日:2024年09月30日(楽天ブックスにて事前予約)
読了日:2024年10月
レビュー日:2024年10月02日

 

目次

0、序
一、異
収集癖の私と、多重獣格の妻
野生生物からの置き土産
妻は飲み友達
我々はなにで食っているか
二、積
妖怪絵師、小さな「鬼」に出会う
妖怪絵師、お化け屋敷で買い叩かれる
狐面を売って生活していた頃
出会い、下積み、突然のピアノ
三、起
スポーツエリート一家に生まれて
たまには私の話を
なぜ動物たちは私より妻になつくのか
われなべにとじぶた
四、開
妻に入信
修行の日々
妻が「バズり」出す
まさかの人物からのオファー
やっとプロになれた?
五、結
異界夫婦の結婚指輪
変な人はおもしろい?
おわりに

 

感想・備忘

妻、推薦!
「なかなかよく書けていると思います。」
己の妻に神性を見出だし帰依した男が綴る、初のエッセイ集。

ー 本書帯より

数年ぶりに本を予約して購入しました。
本書は、美術家やアートディレクターとしても活動している戌一さんが、妻であるふくしひとみさんとの生活や関係を描いたエッセイです。
私はX(Twitter)で流れてきたツイートでご夫婦のことを知ったのですが、絶妙に良い…と思ったのでエッセイが出ると知った時にすぐに予約させていただいていました。

この動画が好きです。リトル・ニモ観ている時みたいな気持ちになる。

ただ、X(Twitter)は毎日毎日見ていると私はメンタルや時間を取られてしまうので常に最新の情報を得ているわけではなく、このご夫婦に対する知識もあまり深くはなかったので、本書を読んでいて「そうだったのか」と意外だと感じることが多々ありました。

 

本書タイトルはご本人がつけたものではないそうで、編集者の方が提案してくださったものだそうです。
この「異界夫婦」という文字をみた際に「私の心に細波が立つのを感じた。」という戌一氏は、続けてこのように書かれています。

これまでもインターネット上で発信を行うたびに、「変わっている」程度ならまだしも、「変人」「自分だったら無理」「似た者夫婦」「落ち着かない家」などという、否定的な含みをもつ意見が散見された。その多くはインターネット特有の現実感覚の希薄さや、他者を慮る想像力の欠如が生んだ、未熟がゆえの軽口の類であろう。しかし、たとえそこに自覚的悪意がなくとも、発信者側からすると決して好ましい反応ではない。ただそういった感想から想像しうるに、観察者の目を通して見た我々の生活は、あまり一般的ではないということだけは確かなようだ。

p7

というわけで、この一文で私は良い意味で「そうだったのか」と色々考えるものがありました。
「好ましい反応ではない」というところで、アンチなどそういったことをいう人は誰にとってもそれはそうだろう、と思ったのですが、何となくこういうことに対して無風状態の方々なのかな、とちょっと思っていたのです。
しかしそれは勝手な先入観で、もっというと「普通」とはいったい何なのだろう、ということも考えさせられました。

 

うっすらと、そして常々自覚していたことではあるが、「尖ったはぐれ者」と「優れたはぐれ者」の夫婦、それが私と妻なのである。

p12

恥も外聞もなく本音を言わせてもらえるなら、私は妻のような表現者になりたかった。幅広いジャンルにおいてプロとして活躍し、その態度は常に奉然自若として他者に執着を見せず、にもかかわらず周りに人が集まり尊敬される……私は妻のように生きたかったのだ。

p13

大学卒業後に妻のふくしひとみさんが開いた個展がお二人の出会いだったそうで、多彩に活躍される彼女との関係性や、「妻に神性を見出し帰依」するようになった背景をこのように語っておられます。いや、 めちゃくちゃ分かるよ…(声もでかくなるよ…)
もうこんなのアマデウスとサリエリじゃん…ミロス・フォアマンの映画アマデウス大好き人間として、これを読んだ時におもわず天を仰いじゃったよ…ハッピーエンドになったアマデウスとサリエリじゃん…。序章から上げられる妻の名言(ちゃんと本書内で太字になっている)が、これが印象深いと思っていて序章に書いちゃう時点でなんかもう、良いよ…最高…ヲタクこれが見たかった…。
闇に見えて光属性で引っ張っていってくれる(というか光に見える闇側が勝手に引っ張られてる)関係性どちゃくそ好きぃ…と、すでに序章で予想の100倍くらい元を取れてしまった…。

関係性ヲタクとして言いたいのは、こういう場合に劣等感感じているというか、凡人に見える側が実際はただの凡人じゃないことが重要なのですが、戌一さんも十分に「異界」側であることがとあるテレビの取材が入ったことからも伺えます。
その取材に際しブルーになっていた戌一さん。

そんなマイナス思考に囚われた私は、今回も我が心の拠り所たるお妻様に相談する運びとなった。すると妻はこともなげにこう言い放ったのである。「出てほしいって言ってきてるんだから出てあげればいいんじゃない。向こうはプロなんだから、たとえつまらない人間でもおもしろく仕上げてくれるよ」と。そうだった。こちらがお願いして出してもらっているわけではなかった。私は話が大きくなるとすぐに委縮してしまうのである。まさに小物ここに極まれり。ただ「つまらない人間でも」の部分が少し気にはなったが、そのときは心に余裕がなかったので受け流した。

p20 ※太字は原文ママ

ここ声出して笑ってしまった。

さて、そんなお二人は実は事実婚だそうで、より適切に関係を言い表すならば「飲み友達」なのだとか。けれどもそれだと関係性が他者には伝わりづらいし、表現をみてもらいにくい。

表現を見てもらうためにはきっかけが大切で、唐突に無名の表現者が「こんなにすばらしい音楽を作ったので聴いてください」と発信したところで、誰も目を向けてはくれない。「誰?」という印象で留まってしまい、見るまでに至らないのである。ということは、普遍的な呼称「妻」を用いることによって、「ああ、この人の奥さんがこんなことをやっているのか」と受け入れられるのではないか。そう期待して実行に移したところ、試みが功を奏したのか定かではないが、少しずつ妻の表現が拡散されるようになった。こうして我々の中で「妻」呼びが定着し、自他共に我々は夫婦であるという認識に至ることができたのである。

p43

これもめちゃくちゃ分かる…。
なんだか、冒頭の異界夫婦に対する反応といい、このくだりといい、「妖怪が人間界のルールに沿って、自分たちの暮らしを守りつつも自分たちを受け入れてもらおうとしている」ようなジワっとするものを感じてしまいました。
これは妖怪側の人間じゃないと意味わからないと思うのですが、妖怪側の人間にとっては同意いただけるのではないだろうか…。自分たちが妖怪で、妖怪であるから「特別な存在」だという驕りはそこには無くて、かといって個性を殺して「世間一般」のレールに沿って生きていくのも、抗っているわけではなくて力を入れていない状態で「特にできませんなぁ…」という状態の人間たち、多分こういう感覚で生きている人多いんじゃないだろうか。
妖怪であることに極端に誇りを持っている人や、世の中に抗いまくっている人は苦しそうだな、と思うのですが、トトロよろしく本物はうまく溶け込んで暮らしているな…と思ってしまいました。

この解釈は馬鹿にしているわけではなくて、私も妖怪側なので全て読み終えて「やっぱりそうだよな…」という感じしかなかったのですが、後半でお妻様もこのようにおっしゃっていました。

異常な人はおもしろいことが多いから、異常であることがおもしろいと思われがちではあるけれど、普通でおもしろいのが一番良い。一番見るに堪えないのは、凡庸な自分から脱却したくて、おもしろくもない異常行動を取りたがる人たちである
p114

私は凡庸で面白くない小妖怪なのですが、でも一応妖怪側にいるので「分かるぅ…」しかなかった。

 

今回に関しては「やはり自分たちは他者とは相入れない」と悲観しているわけではなく、他者との関わりを経て「自分たちに何が必要で何が不必要か」がはっきりしたように感じてる。人に寄り添おうとしたあの期間は、決して無駄ではなかった。ただ「あの頃の公演が一番良かった」とだけは評されないように、以降の公演はより気合を入れて臨まなければならない。
p106

というわけで、「私が犯した最大の間違いは、集団に所属しようとしたことである。」(p319)として、最終的にはお二人での活動に戻っていった表現活動ですが、そこに至るまでの様々な出来事が「二、積」や「四、開」のあたりに書かれています。

私が印象的だったのは「二、積」に書かれていた、お化け屋敷の制作に関する話と、絵が燃やされてしまった話。

私と妻が、何かやりたいけど金がなく暇だからこの仕事に協力していると思われていたということか。もちろん全体の意見ではなく、その人の個人的な考えかもしれないが、その言葉は私と妻を大きく傷つけた。
p77

プロとして制作を行っていたにも関わらず、報酬はおろか評価も蔑ろにされてしまったお化け屋敷の話と、それに続く絵の話は、魂を削って「モノ」を生み出したことがある人ならば共感するのではないでしょうか。
モノを生み出さなくとも、自分の生業にプライドをもってやっている人ならば、感じるものがあるはずです。

ちょっとここに、私の実父の仕事を「安くしてくれよ…」的に友人から言われてショックを受けた話を書いていたのですが、身内に見られると関連人物特定されそうなので消しました。
本当に、身内であろうとも仲良くあろうとも生計は別であれば百歩譲ってサービス提供側が「安くしますよ」っていうなら分かるけど、顧客側が「安くしてくれよ」は失礼すぎるだろう…。

作家とは別に安定した本業がある人ほど、逆に純度の高い表現を行えているように思う。定収入があるため作家活動で利益を出す必要がなく、ひたすらやりがいを持って挑めるためである。自己表現のためならいくらでも手間を掛けられるし、お客様に「高い」と言われたくないので、相場より安く販売することも多い。それは単純に人を喜ばせたいという清い心情から発するものかもしれないが、言ってしまえば趣味だからできることである。これは手仕事にとどまらず、絵や音楽、そしてデザインに関してもいえることだが、最低限の時給換算は行い、労働の安売りは慎んでもらいたい。副業の作家が市場の相場を下げることは、表現一本でやっているプロの生活を脅かす行為であるということを、くれぐれも自覚していただきたいものである。
p90-91

やりたいことだけでは生活が苦しかった時期に、戌一さんは今ではすっかりおなじみになった顔上半分だけの狐面を作っておられたそうなのですが、その際に本業が別である方から「お金をとるなんて」的な発言をされたことを書いておられました。
これもめちゃくちゃ分かる…。
先ほどの話はクライアント側に対してちゃんと金払えよ的なものですが、これは作り手側も安売りし過ぎるなよ、ということです。もしやるならやはり最低賃金や仕入れ値を考慮して、原価割れしないような価格帯でやっていかないと市場が正常に機能しないし、それって結局業界自体の衰退を招くと思う。適正価格取れないならば、いっそクライアントワークをしない、戌一さんの表現を借りるならば「作品」だけ作って「商品」は作らないようにすればいいのに…と思いました(それが許されるように、クライアントは発注するなら適正価格払ってね、という)。

後半に行くにつれ、お互いの両親のエピソードなども登場しめちゃくちゃ面白かったです。もうこれ以上濃いキャラ出てこないだろう…と思ったのに、戌一さんのお父さんがラスボスだったのものすごく笑いました。
その手前の、おばあさんの話がすごい良かったな。『斯く人の愁苦多きを見れば、神仏有りて之を守護するに非ずと。』という鳥尾の話を思い出してしまった。

 

読了して思うのは、本書はエッセイであり妻を布教する夫(信者)の書いた聖書であり、異界と人間界の狭間でさ迷っている小妖怪たちに対して一つの道を示すようなものではないか、ということです。
本書内には戌一さんが随所に、妻であるふくしひとみさんの言葉を書かれているのですが、それをここに引用するのは極力我慢しました。妖怪にはめちゃくちゃ響きます。
あとは、冒頭で述べたように個人的には「ハッピーエンドなアマデウスとサリエリ」というのに尽きる。
妻に救われた、という戌一氏ですが、私は「夢が叶ってよかったね」というお妻様の言葉にホロリと来てしまいました。戌一氏がお妻様を「才能と努力の鬼」と言っていることがものすごくよかったのですが、このお妻様の言葉で二人の関係性が決して片一方に寄り掛かったものではなく、二人でいることによってそれぞれの本来の一番良いところが化学反応を起こして膨張していっているのだな、としみじみ思いました。

なお、本書に登場したほくろうとたぬ房きよ美が登場する方言ラップはこちらです。
遠野物語みを感じる…。

 

印象に残ったところ

おそらく二人とも、世の親が推奨する理想的な人生設計からは、結果として大きく逸脱してしまったように思う。ただ妻が「親の理解の範疇を超え多彩に活躍するアーティスト」といった仕上がりであることに対し、私に関しては「親が存在を隠したがる恥ずべき馬鹿息子」方向ではないかと思うし、実際にそういう扱いを受け続けてきた。つまり逸脱の方向が真逆なのである。

p11

信仰する対象(妻)の言葉を伝えるという意味では、これは私にとって「聖典」の編纂作業である。
p14

しかし近年は自ら望んで裏方に徹していた私であるが、捨て去ったはずの表現欲が、他者の紹介という形で発露するとは……人生何が起こるか分からないものである。
p15

例えば私が妻の実家の猫に対して「前より太った?」などと口にしようものなら「しっ!聞こえるよ!」と、猫に対する気遣いすら過剰なのである。しかし妻にそう言われて猫の顔を見ると、横目で私を見ながら本当に悲しそうな顔をしていて、妻を介して猫と意思の疎通を図れたような錯覚に陥る。
p38

当時の私は人とうまくコミュニケーションが取れないというストレスに耐えられず、酒席では常に「酩酊」を求めていた。自分が伝えたいことが全く他者に伝わらなかった。また同様に他者の言っていることに全く共感できなかった。そのため常時、私は努めてその場で最も愚かな人間になろうと心掛けた。
p47

これらはあまり普通の家庭には存在し得ない「モノ」ではないかと思う。しかし彼らは全員が、妻の「表現において妥協できない姿勢」がもたらした産物であり、妻にとっては全員が唯一無二の表現仲間なのである。
p62

やりたいことだけやって生きるためには、必ずやりたくないこともやらなければならない。ただ自分の矜持を傷付けるような仕事だけは、注意深く拒んでいかなければならない
p63

仕事と創作、商品と作品は別である。商品ならいくらでも販売するが、作品を売って暮らすほどの気概と勇気は、今も昔も私にはない。
p91

人には向き不向きというものがある。そして妻はもちろんのこと、私も全くその行為に不向きであった。対面で説明するより、文章を練って発信するほうが性に合っていたようだ。
p98

それでも何もできないより、何かできたほうがいいのではないかという考え方もあるだろう。しかしできない人間はちょっとできただけで満足できるし褒めてもらえるが、できる人間はできる人間の中で勝負しなければならなくなる。そしてそこで勝ち上がってしまえば、次第に負けることが許されなくなってしまうのである。客観的には満たされているように見えても、主観としてはとても苦しかったのではないだろうか。
p105

一番大切なのはとりあえず死なないことだ。
p129

ではどう「やばい」のかというと、それは自分ではよく分からない。だからこそ客観的に見て、残念ながら私は、本当に「やばいやつ」なのかもしれない。妻の好感度の高いギャップと比べても、私はひたすらバランスの悪い人間なのである。
p149

例えば印象に残っているものだと、「さつまいもみたいなところ。料理にも甘い物にも使えるけど、ずっと掘り起こされるのを待ってる。早く掘り起こさないと種芋になってしまう」と私を評したことがあった。私はいまだにその内容に理解が及んでいないし、そもそも質問の答えにすらなっていないようにも感じる。
p153

生き物は生きてこそであるし、生きている間は不本意な目に遭わないように努めたい。因果応報を信じる精神は、見返りを求める精神とも解釈できる。まずは因果応報からの脱却を目指す。しかし輪廻転生については自分の意思では如何ともしがたいが、せめて善行が積み重ねられ、輪廻からの脱却が成ることには期待したい。そしてこのような自問自答を繰り返している最中に、ヨガを学ぶ機会を得た。しかし特別ヨガの思想がしっくりきたというわけではなかったが、目の前には妻という小さな神がいたのである。
p164

幸福という概念を相対的に見ないことが肝要なのだろう。現状に腐らず、しかし手を緩めず、日々の業務に励むしかない。
p175

世間の興味は移ろいやすい。寄る辺もなく補償すらない我々の生活は、常に「一寸先は闇」なのである。日常的に発信を続けることにも、いつかは疲れてしまうだろう。「バズる」以前の生活に比べると、かなり自己実現に近づいたといえるが、こうなったらこうなったで、以前にはなかった気苦労に苛まれることにもなった。
p183

しかし常に二人でいるものの、心の中ではそれぞれ孤独と戦いながら活動を続けていた。
p225

そして私の「人を楽しませたい」という誰にも求められていない欲求は、若き日の私を大いに苦しめていた。他者と生活を共にする才能が皆無なのに、その欲求を満たすためには他者の存在が不可欠であったためである。
p126

一見楽しそうに見えて、地獄の中にいるような感覚で過ごしていた昔の自分に戻るくらいなら、心地良い妻の洗脳の中にいたほうがいくらかましだ。多くの人間を救っている宗教でさえ、その起源は異端であり、今でいうカルト宗教のような存在だったはずである。私にとって「異端の神」である妻を崇めることに、もはや迷いはない。
p229-230

 

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