逸話鳥尾小弥太

鳥尾小弥太と三浦梧楼3―第1回帝国議会(貴族院) 編―

はじめに

鳥尾小弥太と三浦梧楼は、長州藩奇兵隊出身で、年も近く当時から晩年まで交友がありました。そんな二人に関する逸話などをご紹介。
過去のものはこちら。

今回は「観樹将軍回顧録」より、「貴族院議員任免事情」を紹介します。
先日、娘婿である伊藤柳太郎氏に関わる記事を書いていた際、大陸(中国)に渡ろうとしていた伊藤氏に「妻子もまだ大変な時期によろしくない」と反対していたのに、再度説得されて「最大限バックアップするから行ってこい!!」的に180度意見を変えていたエピソードがのっておりました。(過去記事:鳥尾小弥太と娘(養女)と娘婿(伊藤柳太郎)2
ま た こ う い う 話 だ よ … と爆笑したのですが、鳥尾は意見をコロコロ変えると言い切ってくれた原点の三浦の話を文字お越しして紹介していなかったので、今回改めて紹介します。

また、本件の背景をみるにあたって、ちょうど先日、2024/08/23より国立国会図書館の運営する「帝国議会会議録検索システム」が全文テキスト検索可能という神更新がありましたので、国立公文書館の公開している第1回貴族院の議事速記録に併せて、こちらを使用させていただいてどんな発言があったのかも見ていきたいと思います。

帝国議会会議録検索システム ー 国立国会図書館
帝国議会議事録 ー 国立公文書館
第1回分:貴族院第1回通常会議事速記録

「観樹将軍回顧録」について

三浦梧楼は号を観樹といい、「観樹将軍回顧録」は、報知社(現:報知新聞社)の編集局長などを務めた熊田葦城(1862-1940)が、三浦の直話を筆録し、國分青崖(1857-1944)の監修、および古島一雄(1865-1952)の校閲を経て正教社から出版された回顧録です。
この正教社版はNDLで全文を読むことができます。

三浦梧楼 [述] ほか『観樹将軍囘顧録』/政教社/1925年 ー 国立国会図書館デジタルコレクション

 

なお、木堂雑誌にて「温軒迂人」のPNで本回顧録のレビューが載っており、そこに上述の出版関連者の情報が出ています。このPNの人物は、本雑誌の主催である鷲尾義直(1887-1955)のことと思われます。
当該人物については以下のサイト様の記述をもとにさせていただきました。
・『木堂雑誌』2(5月號)(5)/木堂雑誌発行所/1925-05 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
<羯南と古島一雄>(29) 鷲尾義直について ー 陸羯南(くがかつなん)研究 ~司馬遼太郎・青木彰の遺志を継いで~

「観樹将軍回顧録」の出版関係者には上がっていませんが、関係者全員、陸羯南と親交が深いので面白いですね。
監修をおこなった國分青崖はWikiをチラっとみただけなのですが、

1878年(明治11年)、上京して司法省法学校に入った。その夏の関西旅行中、弊衣破帽のゆえに拘束される珍事があった。翌年、賄征伐(調理場荒らし)のいたずらがこじれ、原敬・陸羯南・福本日南・加藤恒忠らと共に退校した。退校仲間とは長く親しくした。

国分青崖 - Wikipedia

ということで、原敬のWikiのほうに本件の典拠文献のっていますが、この退校メンバー、明治政治界隈でクセ強すぎるだろう…。「退校仲間とは長く親しくした」になんだか笑ってしまいました。

古島一雄と三浦のタッグ(?)はこちらの記事でも紹介しています。
過去記事:【歴史ネタ】三浦梧楼、息子のために嫁を探す

 

貴族院議員任免事情

意訳は不要かと思うので、今回は文字お越しをしたものをそのまま紹介いたします。
起こしながら改めてひどくて声だして笑ってしまった。

貴族院議員任免事情

我輩は初期(明治二十三年)の議會に、貴族院議員に互選せられて出たが、此れが又一波瀾であつた。
同族議員の選擧に就ては、相當に運動もあつたが我輩は元老院議員になつた経験もあり、何うも言論の府には、不向の人間だと確信して居つた。隨つて議員にならうと云ふ考へもなかったが、今の武者小路の親爺だ。此れは中々確乎りした人物であつたが、ソレが遣って来て、
「同族のものは皆アナタに投票する積りですが、お受けになるやら、ならぬやら分らぬから、ソレを確めに来ました。」
と云ふことであった。
「自分は同族から互選せられることであれば、ソレは決して辭退せぬが、自から進んで議員にならうとは思いませぬ」
と言ふと、
「ソレだけ分つて居れば宜しいです。」
と言って 、歸つたが、皆が投票して呉れて、當した譚である。
議會も愈々開けて、七日か十日か経つた時の事であった。鳥尾も議員であつたが 富士見町の富士見軒へ来て呉れと云ふことであるから、我輩も出掛けて往つたが、二十人ばかりも集つた。
其頃の司法大臣は山田で、佛蘭西からボアソナードと云ふ法律家を雇入れて、法律の改正を計つたが、ソレが出來上ったから、此議會に提出することになつて居つた。何んなものが出るやら知れぬが、鳥尾は此れに反對であるのだ。ソレで同志を斜合して、此れに反對しようと云ふ所から、今日の會合を催ほしたもので、鳥尾は滔々と反對の意見を述べ、
「何うか諸君も我輩の意見に賛成して貰ひたい。」
と云ふことで、此處に集つたものは、擧つて之れを賛成し、何れも法律改正に反對すると云ふことに決定した。
ところが、其翌日の議會で、鳥尾が演壇に立つた。無論大反對の演説であらうと思つて居ると、何ぞ圖らん、ソレが大賛成の議論であつたのである。鳥尾は貴族院第一の能辯家だ。ソレに議論が緻密だ。雄辯滔々、演べ去り、演べ來つた意見は、言々句々、皆賛成の議論だ。サア驚いたのは、昨日集つた面々だ。
「鳥尾と云ふ奴は、怪しからん奴ぢや。昨日と今日とは、正反對だ。アンナ奴には口を叩かすな。」
と期せずして、皆妨害を始めた。咳拂ひをする。靴を踏み鳴らす。滿場忽ち喧々囂々として、何を言ふやら譯が分らぬ。スルト鳥尾が赫と怒つた。
「議長が多數の議員と共謀になつて、乃公を袋叩きにするか。」
と怒鳴るや否や、席を蹴立てゝ、飛び出して仕舞つた。
「鳥尾と云ふ奴は、實に酷い奴ぢや。昨夕の意見と今日の議論とは、丸で正反對だ。タツタ一晩で豹變して仕舞つた。酷い奴ぢや。」
と中々批評が喧ましい。一體鳥尾と云ふ男は、何時も能く議論の變る男ぢや。ソレが惡意から來るのでもなく、慾得から來るのでもない。アレの性質として、學問上なり、理論上なりから見て、此方が好いと思ふと、ガラリと豹變するのだ。
鳥尾は控室に歸るや否や、辭表を提出して、サツサと宅へ歸つて仕舞つた。其時の議長は伊藤であつたが書記官長の金子堅太郞を使として、我輩の所へ寄越した。
「私は伊藤さんの命で參りました。鳥尾さんは辭表を出されましたが、初めての議會に、議員の辭するなどゝ云ふことは、御上も非常に御心配遊ばすし、何も鳥尾さんが辭表を出さねばならぬと云ふ事柄でもなし、アナタは御親友の事だから、何とか御勸告を願ひたいと云ふことで參りました。」
と云ふことだ。
「イヤ、鳥尾の今日の擧動には、自分も驚いたが、併しお話の趣は承知した。何とか仕ませう。」
と答へて、其辭表は預かつた。ソレから其日の夕方、鳥尾の宅へ出掛けて往つた。
「君、今日の事は、大變違ふぜ。君は辭表を出したと云ふことぢやが、何も伊藤が惡いと云ふ譯はないぢやないか。ツマリ君が自から招いたことだ。昨日と今日とは、丸で態度が違ふ。議論が違ふ。豹變も甚だしい。ソレで二十何年も交際した友人が皆憤つた。咳拂ひをしたり、足踏みをしたのは皆皆レから來たんだ。何も伊藤の知つたことではない。」
と説いたが、堅白異同の辯は、彼れの得意だ。何とか角とか滔々と辯ずる所謂議論風發の勢がある。
「乃公達は議論では迚も敵はぬ。君に饒舌らして置けば、際限がない。」
と言ひながら、ストーブの前にあつた鐵の棒をヂーと引き付けた。石炭を挾む鐵の道具だ。此れには鳥尾も度々苦い經驗を嘗めて居る。ソレを見て容子が又ガラリと變つた。
「成程、君の言ふ所も一理ある。好し、ソレでは君に任さう。」
と急に折れた。
「ソレなら此れを還へす。何も言ふな。」
と言つて辭表を還へすと、
「君に任すと言つた以上、何も言ふことは、ない。」
と言つて、受け取つたから、我輩も辭して歸り、金子を呼んで、其事を告げたが、伊藤もソレを聞いて、非常に喜んで居つた。


我輩も這んな事から考へた。ドウも自分は辯論が下手だ。議員と云ふ柄ではない。ソレに無二の親友と思つたものゝ振舞も、甚だ感服しない。他人の事を言ふのではない。自分も這んな所に居ると、何時かアンナ眞似を遣るかも知れぬ。此れは罷めるに限ると、斯う思つた。ソレで鳥尾の事を片付けると、其翌日、今度は我輩が辭表を出した。
「自分は辯論の素質を備へて居ないから、議員の資格がない。碌々として員に備はるばかりで、身の爲めにも宜しくないから、罷めて貰ひたい。」
と云ふことで、辭表を出した。さうすると金子が又遣つて來た。
「伊藤さんは、三浦は乃公が議長だから罷めるのだ。何うか三浦に往つて言つて吳れ。病氣なら病氣で出ぬとも好いから、辭表は一時見合せて吳れ。乃公も止むを得ず、議長の職に就いたが其內蜂須賀に讓つて罷める積りだ。長いことでもないから、乃公の罷めるまでは、何うか此儘で居つて呉れ。其代り病氣で出ぬなら出ぬでも好いからと申されました。」
と云ふのだ。
「何も伊藤が議長だからと言つて、乃公が罷めるのではない。乃公の性格は、言論の府には合はぬと、豫て思つて居つた。ソレで樞密顧問官になれと言はれた時も、辭して受けなかつたのだ。何も議場の容子を見ると、感服しないことが多い。親友の間にも、感情の爭を起すこともあらう。情實の前には、平生の說を曲げることもあらう。乃公も不知不識の間に、そんな境涯に陷るであらうかと思へば、餘り快よくもない。ソレで早く罷めようと思つたので、何も伊藤が何うの斯うのと云ふことは、斷じてない。」
と言つて置いた。ソレから伊藤は間もなく罷めて、蜂須賀が此れに代り(明治二十四年七月更迭)我輩の辭表も、尋で聽許された。斯う云ふ譯で、議員になつてからも、五度か六度しか、貴族院に出席しなかつた。
鳥尾の變節したのは、全く山田から泣き付かれた爲めだ。條約を改正して、治外法權を撤去するには、法律から改正して掛からねばならぬ。多年の間、苦心して漸く出來上つたのが、今回提出した法律案だ。山田は鳥尾が此れに反對だと聞いたから、早速アレの所に行き、涙を揮つて、自分の苦心やら、條約の關係やらを說いたから、鳥尾は此れに動かされて、ガラリと心機一轉に及んだのだ。鳥尾には斯う云ふ話は澤山あつた。

 

登場人物と背景などの整理

以下より画像をお借りして加工しています。
近代日本人の肖像 ー 国立国会図書館

近代日本人の肖像さん、2021年に四将軍をまとめたときにはなかった鳥尾の肖像が増えていたので、今回はお借りいたしました。(鳥尾が若い頃しかなかったので全員そこそこお若い時の肖像画にしてみました)
また、今回、話のなかに登場している武者小路さんだけ、何人か候補がいたのですがどの人物か特定できませんでした。


山田顕義
(1844-1892) は、伊藤や、この明治23年6月に陸軍大将となった山縣有朋と同じ松下村塾の出身者です。大村益次郎の後継者的立ち位置で戊辰戦争、西南戦争と軍人として活躍したにも関わらず、詳細はいろいろありますが山縣との意見が合わずに陸軍を去り、この頃は司法大臣として民法や商法の整備を進めていました。

伯が司法卿―司法大臣時代(明治十六年~二十四年)にその全力を注いで専念したのが法典編纂作業である。憲法は伊藤博文を中心にして研究が進められていたが、民法・商法・民事訴訟法・裁判所構成法は伯の領導の下に作業が進められた。「明治二十三年第一回帝国議会開院前」というタイム・リミットを背負って短期間で完成をみた民法典(旧法典)は、しかしながら各方面から猛烈な批判をうけた。これが世にいう民法典論争である。

『國學院黎明期の群像』 /1998/國學院大學日本文化研究所 「山田顕義」の章(p51-52)より

ということで、この伊藤と憲法の制定を進めたのが今回登場している金子堅太郎(1853-1942) です。

この金子は、保守主義の祖とされる英国の思想家・政治家であるエドマンド・バークに関する講義を山田に行っていたり、山田が創立に関わった日本法律学校(現:日本大学)の初代校長に金子が就任していたりと、関係が深かったりします。
伊藤と金子の携わった大日本国憲法はこの前年の明治22(1889)年に公布、明治23年11月29日に施行に至っていましたが、近代国家としての民法、商法などは施行はまだできておらず、議会の開設時期に併せて急いでいた結果、今回紹介した第1回帝国議会で見事大炎上してしまった…ということです。

ただ注意しなければならないのは、この法典編纂作業が維新以来の悲願である条約改正問題と不二一体の関係にあったということである。つまり伯は「条約改正のために時日の遷延は許されない」との政治判断の下にあえて拙速を貫いたのである。法典の規定内容に未熟・不備の部分が残るだろうということはとうに予測していた。この点が余り理解されずに「民法出でて忠孝滅ぶ」といったいささか煽動的な攻撃を前に、伯が心血を注いだーその過労が伯の生命を縮めたといわれるー民商法典の施行が延期されるに至ったことは「我朝固有の国体(皇祚天壌と無窮)」を固守し国法を定め欧米諸国の国法と我人民慣習の法を斟酌し、国法の条目を審議し、国法に依り以て国律を確定」(前掲載白書)することを終生変らぬ信条としていた伯にとって心外であり、遺憾なことであっただろう。

『國學院黎明期の群像』 /1998/國學院大學日本文化研究所 「山田顕義」の章(p52)より

あくまでゴールは条約改正で、山田も初期法典に不備があることは承知していたということで、「自分の苦心やら、條約の關係やらを說いたから、」というのはこのことを正に説明していたのでしょう。
前後関係しらずに観樹将軍回顧録のところだけ読むと、山田が絶妙なタイミングで鳥尾に泣き落としをかけにいった小悪魔(?)みたいな感じになりますが、ちゃんと理解するとどう考えても鳥尾が厄介おじさんです。みんなを集める前に山田に話を聞きに行けばよかったのに…。

なお、「前掲載白書」は、「兵ハ凶器ナリ」で始まることで有名な建白書です。
この一文は、貞観政要の以下の一節からとられたものですね。

太宗曰、兵者凶器。不得巳而用之。故漢光武云、毎一発兵、不覚頭髪為白。自古以来、窮兵極武未有不亡者也。

太宗が答えた。
「兵は凶器である。万やむをえざるときに用いるものだ。後漢の光武帝も「一度軍を動員するごとに頭がまっ白になる」と語っている。古来、いたずらに兵をもてあそんだ者は、いずれも滅んでいる。

著:呉兢、訳:守屋洋『貞観政要』/ちくま学芸文庫/2015 p230-232

この山田の建白書はよく引用されているのですが、全文を見たことがないなと今更ながら思いました。
この全文は吉野作造編の『明治文化全集』第23巻 軍事篇・交通篇(1930) に収録されているそうです。1992年に日本評論社さんから復刻されています。
せっかくだからこの機会に読んでみようかと思い、NDLに遠隔複写を申し込もうかと思ったのですが、日本の古本屋さんで昭和版が出ていたので購入してみました。届いて読んだらまた別の記事で、山縣や鳥尾を含めた明治初期陸軍周りをまとめる際に活用してみたいと思います。

この建白書周りを含めた論文として、背景を理解するうえで以下が良かったのでご紹介いたします。

・奥野武志「岩倉使節団と学校教練―山田顕義「建白書」を中心に―」/法学新報121(9・10)/2015
→  中央大学学術リポジトリ にて公開されています。
・蓮沼啓介「山田顕義と西周 : 日本陸軍の設計者は誰か。」/日本大学法科大学院法務研究(17)/2020
→ 日本大学大学院法務研究科の学術研究のページ にて公開されています。

 

該当の議会の様子

さて、冒頭で記載した通り帝国議会会議録検索システムで神更新があり、速記録の画像をちまちま確認する手間が大幅に削減されたので、この機会にいったい鳥尾がどんな演説をしていたのか見ていきます。

同システムでは、OCR(画像からテキストを読み取る)は完璧ではないため、誤字などあるかもしれませんという旨が注意書きもされています。このあたりを含め、このシステムで見たい箇所のあたりをつけ、そのあと国立公文書館のデジタルアーカイブのほうで該当箇所を確認していく…とするとさらに良いかと思います。

 

帝国議会について

帝国議会は、衆議院(選挙で議員を選出)と、皇族、華族、勅任された議員で構成される貴族院からなっています。華族の議員は公・侯爵議員は世襲で終身ですが、伯・子・男爵の議員は同爵間の選挙で選ばれたものが就任したそうで、当時三浦は「子爵」だったため、回顧録冒頭の武者小路さんの「同族のものは皆アナタに投票する積りですが、」はこの議員選挙のことを指していることになります。
(そうなると、この武者小路さんは武者小路実世氏(子爵)ではないかと思うのですが、年代が合わないのですよねぇ…)

第1回帝国議会場は1891年1月20日に火災により全焼しており、残っていません。
第2回帝国議会より使用された議場は見取り図が出ており、保護期間満了で使用可能だったため画像をお借りしました。

貴族院事務局報告』第4回/貴族院事務局/1893 ー 国立国会図書館デジタルコレクション 16コマ

1Fのものです。2F分の見取り図も上述の書籍にて確認することができます。
この場内の写真は、小林和幸氏が執筆している国立国会図書館の以下で確認ができます。

貴族院と日記――明治期を中心に ー 国立国会図書館(国立国会図書館憲政資料室 日記の世界)

フランス革命期のフランス議会では、議長席から見て右側に旧秩序の維持を支持する勢力がおり、これを「右翼」、反対に左側に革新派がいたために「左翼」という語源になったということですが、上述の見取り図だと議長からみて左側に維新政府の重役からなる「貴族院議員」、右側に民衆から選ばれた「衆議院議員」が座る形になっていますね。

後述の鳥尾の議論などをみていると、座席関係がとても気になる…。左右はもちろんこれ前に座っていた人いたらいろんな意味で辛すぎるだろう…と観劇脳で思ってしまった。
貴族院議員の席次表をみると子爵の筆頭は谷さんになっているんですが、

(略)
五八  從二位 子爵 谷干城君
五九  從二位 子爵 青木周藏君
六〇  從二位    岩村通俊君
六一  正三位 子爵 壬生基修君
六二  正三位 子爵 鳥尾小彌太君
六三  從三位 子爵 大給恆君
六四  從三位 子爵 福羽美靜君
六五  從三位 子爵 岩下方平君
六六  從三位 子爵 宍戸たまき君
六七  從三位 子爵 黒田清綱君
六八  從三位 子爵 河田景與君
六九  從三位 子爵 林友幸君
七〇  從三位 子爵 三浦梧樓君
七一  從三位 子爵 伊集院兼寛君
七二  從三位 子爵 伊東祐麿君
七三  從三位 子爵 海江田信義君
七四  從三位 子爵 井上勝君
(略)

― 第1回帝国議会 貴族院 議員席次表

という感じなので、座席は3~5席くらいで1列になっているとすると、谷さん列→鳥尾列→三浦列になっていた可能性もあるのかな…。

第1回帝国議会の該当の話

では、問題の第1回帝国議会の様子をみていきましょう。
第1回帝国議会の会期は明治23(1890)年11月29日~明治24(1891)年3月7日になります。
以降、引用している議事録は原文に対し適宜こちらで改行と句読点を適宜いれています。

辞表のその後の話(谷さん、とばっちりをくらう)

まず本エピソードの後の話から見ていきましょう。
この会期中の、明治24年1月13日の議事がこうなっています。

議事日程

第一 子爵三浦梧樓君請暇の件
第二 子爵鳥尾小彌太君請暇の件
第三 侯爵淺野長勳君請暇の件
第四 度量衡法議案(政府提出) 第二讀會

ー 第1回帝国議会 貴族院 本会議 第14号(明治24年1月13日)

三浦は7週間、鳥尾は5週間、そして左記の二人と華族の七人組とか呼ばれていた浅野長勳が4週間、いずれも病気にて議会を休みたい、という旨の議題が上がっています。今ならこんな議題を挟み込ませて本来議論すべきことの時間を奪ってしまって、税金泥棒と言われてしまうでしょう。サラリーならぶっ叩かれます。(一応、この期間彼ら休みます、異論なければ許可します、でこの話はすぐ終わっています)

というか、なんで三浦が一番休み長いんだ???
「乃公の罷めるまでは、何うか此儘で居つて呉れ。其代り病氣で出ぬなら出ぬでも好いからと申されました。」が有言実行されているんだと思うのですが、なんで止めに入ったお前が一番長いんだよ…とちょっと笑ってしまった。(華族の七人組については「鳥尾小弥太と三浦梧楼2―山縣に嫌がらせをする編―」をご参照ください)

 

そしてこの二人の休みのとばっちりをくらっている方がいました。
谷さんです

会期終了間近の明治24年3月3日の予算委委員会にて、予算の詳細でもめていますが、ここでのちに文部大臣、内大臣になる濱尾新(1849-1925)から、「詳細分からないなら調査して再報告したらどうだ」的な発言が出た際、同じくのちに文部大臣になった数学者の菊池大麓(1855-1917)よりこのような発言が出ています。

○菊池大麓君
只今ノ所デ、二日間ニ調査ヲ了テ報告スルコトガ出來ルトカ出來ヌトカ論ズルノ必要ハナイト思ヒマス。既ニ委員ハ調査ヲ遂ゲテ報告ヲシロト云フ付託ヲ受ケタノデアリマスカラ、之ハ出來ルカ出來ヌカ、兎モ角モ早ク退イテソレゾレ調査ヲ遂ゲルガ宜イト思ヒマス。

就テハ私等ノ受持ノ五科ノ事ハ之ハ出來マセヌカモ知レマセヌ。
何トナレバ主査タル所ノ三浦梧樓君ハ請暇ヲサレテ居ラレマシテ、主査ヲ辭サレナイカラ其代リヲ選ブコトガ出來マセヌ。若シ出席ガ出來マセヌナラバ、早ク辭職ニナレバ代リガ出來テ居ッタデアリマセウガ、主査ノ無イタメニ會ヲ開クコトガ出來マセヌデゴザイマシタ。
加之鳥尾小彌太君ハ陸軍ノ方デゴザイマス。
又三浦君モ谷君モ同樣デ、斯樣ニ人ガ揃ッテ居ルカラ十分ニ調査モ出來ルデアラウト考ヘテ居リマシタ所ガ、其中ニ、三浦君ト鳥尾君ハ請暇デ一度モ出ラレマセヌ。
谷君ハ定メテ御考ヘガアルダラウト思ヒマシテ、私ハ谷君ニ向ッテ委員會ヲ開カレンコトヲ請求致シマシタケレドモ、一度モ御開キニナリマセヌデ、終ニ今日ニ至リマシテゴザイマス。

ー 第1回帝国議会 貴族院 予算委員会 第1号 明治24年3月3日

めちゃくちゃ怒ってるじゃん…。
意訳すると、

調査せい調査せいといわれても、うちのボスの三浦梧楼がずっと休んでいて会議開けないんですよ。
せめてボスが辞めてくれて新しいボスがくれば会を開けるんだけど、あの人休んでいるだけで辞めないからそれもできないんですよ。
それに加えて鳥尾さんですよ。陸軍の予算が分からないのはこいつが休んでいるせいですよ。
谷さん仲間でしょ?
三浦さんと鳥尾さんが二人そろって「やすみまーす!」って言ってから1回も出てこないんで、谷さんにはさぞなにかお考えがあるのかなぁぁぁ~~~、と思っていたんで、私は谷さんに「予算会議ひらきましょ」って常々言ってたんですけど、開いてくれなくて今日を迎えてるんですよ。
と、現場の人の気持ちが分かりすぎてサラリーは胃に穴が開きそうです。事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きているんだ…。
そして、こんなド正論ぶつけられた谷さんは逆ギレすることもなく大人の対応です。

○子爵谷干城君
チヨット一言。
今菊池君ノ御演說ガゴザンシタガ、至極御尤モナ譯デ、私抔ノ調べテ居ル所ノモノハ、是迄ノ經驗上ノ事デ晩レテ居ルカ知ラヌガドウカ是ハ斯クアリタイ。
又是等ノ事ハ十分ニ質問モ致シタイト考ヘテ居リマスケレドモ、詰リ一人ノ考ヘデ出來ル譯デナシ、又他ニ、三浦ヤ鳥尾ト云フヤウナ人間モアルモノデアルカラ、其レ等ノ考モ聽キタイガ所ガ、今菊池君ノ申サレタル如ク到底望ムベカラザル今日ノ景况ニナッテ居ル。
併ナガラ是迚モ猶豫ガアレバ、互ニ其意見モ聽キ、サウシテ諸君ニ御報告スルコトモ出來マスケレドモ、問題ニ就テ申シマシタ所ガ、只今ノ通リ政府ノ議案ト衆議院ニ於テ今度修正シタ所ト我々ノ考ヘタ所ト此三ノ問題ヲ比較シテ、始メテ判斷ノ出來ル譯デアリマス。

第1回帝国議会 貴族院 予算委員会 第1号 明治24年3月3日

ごめんなさい本当にごめんなさい… と思ってしまった。
ちなみに、休みますが許可された1月13日を1週目として、

七週間後:1891年2月27日
五週間後:1891年2月13日

ですが、明けた3月の議事録に二人の姿はありません。
ごめんなさい本当にごめんなさい…

 

問題の大炎上演説の概要

問題の大演説をみていきます。
本件は以下の会議にて議題にかけられています。以下の太字の部分の議題です。

第1回帝国議会 貴族院 本会議 第6号 明治23年12月20日

第一 侯爵尚泰君請暇の件
第二 伯爵冷泉爲紀君請暇の件
第三 請願委員長侯爵蜂須賀茂韶君の報告
第四 商法及商法施行條例施行期限法律案(衆議院提出)第一讀會
第五 右議案の審査を付託すへき特別委員の選舉


第1回帝国議会 貴族院 本会議 第7号 明治23年12月22日

第一 子爵堀田正養君請暇の件
第二 男爵高崎五六君請暇の件
第三 商法及商法施行條例施行期限法律案(衆議院提出)第一讀會の續

このあと述べますが、結果として炎上したといえるのは議題の2日目で、この12月22日以降、おそらく鳥尾は議会を欠席しています。
それまでの議会では毎回めちゃくちゃに喋りまくっているのですが、三浦は「我輩も這んな事から考へた。ドウも自分は辯論が下手だ。議員と云ふ柄ではない。」と自分で言うだけあって、一言も喋っていない。対比にビビります。

 

商法施行延期問題

この議題は、すでに公布されていた民法や商法に対し施行したいが、そもそも議論が十分でないので延期をするべきだ、というものです。

明治20年10月21日に設けられた法律取調委員会の議決を経て,元老院の会議に付され,元老院では調査委員や審査委員を置き,数十回の会議を経て,明治22年6月7日元老院総会によって可決された11)。これが,明治23年(1890)3月27日商法(明治23年法律32号)として公布され,明治24年1月1日より施行すべきものとされた。いわゆる旧商法である。次いで商法施行条例(明治23年法律59号)が,明治23年8月7日に公布され,同じく明治24年1月1日施行と定められた。なお,民法は,明治23年4月21日および10月6日に公布され,明治26年1月1日より施行すべきものとされた。これが旧民法である。
旧商法は,「総則」と「第1編商ノ通則」,「第2編海商」,「第3編破産」から成る。第1編は12章に分れ,その第1章ないし第5章は現行商法の総則に当り,「第6章商事会社及ヒ共算商業組合」はほぼ会社法に当り,第7章ないし第10章は商行為法に当り,第11章は保険法,第12章は手形法・小切手法である。
旧民法に対しては,外国法の模倣であり旧慣にそわないなどの理由から実施延期論が主張され,断行論との間にいわゆる民法典論争がまき起こるのであるが,旧商法に対しても,外国法の模倣であること,民法との調和が十分でないこと,急速に実施すれば経済界の混乱を招くなどの理由から,実施延期論が起り,断行論との間で論戦がなされた。そして明治23年の第1回帝国議会において,商法および商法施行条例の施行は明治26年1月1日に延期された。

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11)現在は2年,最初の取締役は1年(現256条)。
小橋一郎「わが国における会社法制の形成」/国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告/1981

明治24年1月1日というと、この議会の2週間後に迫った年明けです。
法律は施行から効力が生じるのですが、公布後でも施工前であれば法律自体の改廃ができることもあり、明治26年1月1日施行にしようと、衆議院の曽根荒助、中島信行から提出されたのが延期案です。
(実際の提出(発議者)は衆議院議員の永井松右衞門という人物で、中島が衆議院議員の議長、曽根が書記官長であったことから、貴族院の議事ではこの2名の名前になっています)

上述の引用文の通り、結果としてこれは延期案が可決されています。

あくまで条約改正をターゲットにして突貫工事で作った民法・商法ですが、それがゴールであることは議員も認識していたようで、それを踏まえての問題点も含めて12/20の会議にて、高知県から多額納税者枠で当選した島内武重(1857-1893)が以下のように発言しています。

○島内武重君
私ハ此商法實施條例ノ事柄ニ付キマシテハ前日ノ戶籍法ノコトトハ大變違ヒマスノデ、此商法ノ事柄ハ滿堂諸君モ御承知ノ通リ、我ガ日本國ノ商法上ニ改正ヲ加ヘテ間接ニハ外國トノ條約ニマデモ關係スル重大ナル問題デアルカラシテ、是レ等ノコトニ付キマシテハ已ニ衆議院ニ於キマシテモ 又我貴族院ニ於キマシテモ、或ハ斷行論モアレバ又延期論ヲ主張スル論者モアルヤウニ思ヒマス。
已ニ本員ナドハ延期論者ノ一人デゴザリマス。
餘程是レハ重大ナ事柄デアルカラ、何分正條ヲ履ンデサウシテ此二百五十一名ノ議員中ヨリ、九名ノ委員ヲ選擧スルノガ適當デアルト思ヒマスカラ、中村君ノ說ヲ全ク賛成イタシマス。

 

というわけで、三浦の回顧録での記述と照合すると、

・明治24(1891)年1月1日商法施行を目指す派(今回の延期案に反対派)→ 山田に賛成派
・明治26(1893)年1月1日商法施行を目指す派(今回の延期案に賛成派)→ 山田に反対派

混乱するのでエピソード中の「反対」の主語を山田にしてしまいましたが、こんな感じになります。

上述の通り施行まで2週間ないので、かなり緊急を要する議題だということで議長(伊藤)の元に選抜委員を集めて、そこで決定してはどうかという意見が出ました。
さらに、出雲大社宮司でもあった千家尊福が、選抜委員を伊藤に一任していいんじゃないかと発言し、それはやめろ251人の議員の中からみんなで選ぶべきだ、というのが「第五 右議案の審査を付託すへき特別委員の選舉」の議題になってきます。

三浦の回顧録のなかで出てきたのは委員の話というより商法を延期するかしないかの話だと思うので、回顧録通りにいうと、当初鳥尾は島内さん同様に、この延期案には賛成の意見を言うはず、という感じです。

 

鳥尾の動きについて

・1日目(12月20日(土))

ではどうか、と1日目の12月20日(土)をみていくと、この日鳥尾が珍しく静かだな…と思っていたら、

○子爵鳥尾小彌太君
本員ハ少シク遲刻イタシマシタノデ、議場ノ樣子モ能ク分リマセヌガ、併シ何シロ委員選擧ノコトト伺ツテ居マリスガ、本員ハ少シク別段ニ建議ヲ致シマス。

と、遅刻していたようです。(今回もう一人このあとで遅刻者がいました)
さらに遅刻したうえに言いたいことがあるようなのでこの続きをみますと、

ト申スノハ、何分此案ニ對シテハ發議者ト云フモノモ先ヅ無シ、動議者モ無シ、又原案ヲ維持スル人モ先ヅ無イ姿デアリマス。
シテ見ルト、此委員ノ組方デ既ニ委員ガ此案ト云フモノハ····或ハ、廢棄シテ速ニ斷行スルガ宜イト云フ傾ノ人ガ集ツテ委員ヲ組ミマスト、是レガ卽チ其案ヲ廢棄スルコトニ付テ、自ラ當然反對ノ位置ニ立ツテ其勞ヲ取ルコトニナリマス。
又夫レニ反對スレバ、矢張リ反對ノ結果ガ出來ル箇樣ニナリマスト、今日滿場ノ諸君ノ中デ既ニ或ハ心ノ中デハ斷行スルガ宜シイトカ、若クハ延期スルガ宜シイトカ云フコトハ、稍々心ノ中デハ極ツテ居ル樣ニモ考ヘラレマスデ········
併シ是レハ唯心ノ中ノコトデアリマスカラ、互ニ相知ルコトモ出來マセヌ。
夫レデ之ヲ投票スルコトニシテモ、自然ドンナ所ニ其結果ガ趣クカト云フコトハ、甚ダ氣遣ハシイ。
又議長ノ指名ニ依リマシテモ、ソコラノコトハ甚ダ氣遣ハシイ。
カラ、先ヅ全院委員會ニナサツテ、全院委員會ヲ經テ其全院委員會ノ結果ノ上デ委員ヲ組ムト云フコトニナッタラバ、至極穩當デアツテ、又議事モ滑ニ行クデアラウト思ヒマス。
此段ヲ建議イタシマシテ、諸君ノ御勘考ヲ煩シタイト思ヒマス。

…。
鳥尾の著書をこれまでいくつか文字お越しして意訳をつけながら私も心の中ですでに思っていたのですが、今回速記録を読んでいてその思いは確実となりました。

鳥尾の話、めちゃくちゃ長いうえに分かりづらい…。

歴ヲタとしてキャッキャしている私はテキスト経由で彼の言葉を聞くので耐えられますが、たぶん音で聞いていたら「何が言いたいねん」と、仕事とか議論的な話でこういう話し方する人(雑談は別に良い)、お付き合いはご遠慮願いたいタイプなので、同時代人じゃなくて本当に良かったな…という感じです。(ほかの議事みてもずっとこんな感じなので悲しすぎて泣きそうになっちゃった…)

要は、いろんな思惑があるのでいきなり貴族院から選任された委員に一任じゃなくて、衆議院を含めてもう一回議会で話して、貴族院、衆議院合わせた委員で議論してから、貴族院の委員で決めるという流れにしようぜ、ということですね(発議者もなし…というのは、この延期案が衆議院から出たものなので、貴族院の会議に発議者がいない、という状態)。

この建議はスルーされておりまして、議長にこの議案の貴族院の特別委員の選挙を一任する、が賛成者多数で可決されています。「本員ノ建議ハ成立ツテ居リマスカ、」の鳥尾の発言かわいそうなんだけどこれまでの暴れっぷりがすごくて、俊輔(伊藤博文)が明らかにイラっと疲れていてそっちに同情してしまう…。

なお、伊藤が選んだ委員が以下の9人です。

・從三位 子爵 黒田清綱 → 委員長
・從三位    岡内重俊
・從四位    村田保
・從三位 子爵 三浦梧楼 → 副委員長
・從三位 男爵 渡邊清
・小幡篤次郎
・從三位    小畑美稻
・從四位    前田正名
・渡邊甚吉

この委員は午前の会議閉会間際に指名され、午後の会議の頭までに話し合って延期案を可決するか否決するか決めることになりました。
結果として、可決する(明治26年1月1日より施行する)というふうに決まった、ということです。
ただし、委員のなかでも岡内重俊、渡邊清、前田正名の三人は反対(明治24年1月1日に施行)ということです。三浦はこれだけみると延期賛成(=山田に反対)のほうに投じた形になりますね。

この委員と12/20の議会で反対・賛成の立場を述べている方をまとめるとこうなります。

■反対(明治24年1月1日に施行)(山田に賛成派)
・岡内重俊 ※委員、演説
・渡邊清 ※委員
・前田正名 ※委員
・渡正元 ※演説
・平田東助 ※演説

■賛成(明治26年1月1日より施行する)(山田に反対派)
・黒田清綱 ※委員
・三浦梧楼 ※委員
・村田保 ※委員
・小幡篤次郎 ※委員
・小畑美稻 ※委員
・渡邊甚吉 ※委員、演説
・島内武重 ※答弁より
・加藤弘之 ※演説
・下郷傳平 ※演説

なお、午後一の、「委員で話し合った結果は延期案賛成です」の発言のあと、「先刻ヨリ見レバ大分議員ガポツポツ退カレタヤウニ考ヘマスシテミルト」と平松時厚議員が発言しており、退場がポツポツあったようです。おそらくこの退場組は延期反対派だと思われますが、議会の雰囲気的には延期賛成派が多かったようですね。
この日は6人がこの議案について演説をしたことになりますが、閉場時の伊藤の発言によるとまだ17人喋りたい方がいたそうです。それが次回、12月22日の会で行われることになっていました。

・2日目(12月22日(月))

そして明けた決戦の月曜日、12月22日です。
残り17人の演説が会議明けから始まるのですが、午前がおわり、お昼休み明けの午後一で議長の伊藤が、「演説、一人40分くらい喋っていてとても時間が足りない ので、この議題明日以降も継続するよう政府にお願いしようかと思っている。もしくは、一人20分くらいに短縮して喋ってもらえませんか」と言っています。

これは大論争ですね…何日かかるんだ…。

三浦安が「せめて30分もらえないか…」というと、「民法出デテ忠孝亡ブ」の生みの親(実際は違うようですが)、穂積八束の兄である穂積陳重もそれに賛成します。
そんなとき、鳥尾がこのように発言します。

○子爵鳥尾小彌太君
今議長ノ御意見ニ付テ少シ申述ベタイ。
昨日以來賛非兩樣ノ御議論ヲ承ハリマシタガ、ドウモ私ハ要領ヲ得マセヌカラ、ドウカ是レハ同ジ事ノ講釋ヲ聞イテモ果テモ付キマセヌカラ、ドウカ全院委員會ヲ二時間ナリ三時間ナリ開カレムコトヲ希望イタシマス、

20日にスルーされてしまった会議の開催を再度言っています。
これは賛成、反対ではなく、単純に今の議論と併せて通常の時間でもう一回議論しましょうということなので、賛成派、反対派に関わらずこれに以下のメンバーが次々に「賛成」と言います。

・本田親雄
・尾崎三良
・柳澤光邦
・中川興長
・本多副元
・三浦安

そのあと、もう一度鳥尾が発言します。

○子爵鳥尾小彌太君
本員ハ此議案ニ付テ實ハ、質問ヲ致シタイト存ジテ居リマスノデ。
ト申スモノハ、ドウモモウ要領ヲ聽キ得ルコトガ出來マセヌモノデゴザンスカラ、速ニ其要領ヲ聽得タナラバ、十分ニ贊成スルモノハ賛成シ、或ハ反對スルモノハ反對スルト云フ思想ヲ定メヤウト思ツテ居リマシタ。
夫レヲドウゾ御許シニナラムコトヲ希望イタシマス。
左スレバ議事モ却ッテ早ク運バウカト思ヒマス

…ん?
なにを言っているんだ鳥尾。三浦の話では君は延期賛成(山田に反対)の号令をかけているので、要領を得ているだろう。賛成一択ではないのか。昨日の議会は委員も議場も賛成派が多かったんだぞ、ホームだぞ!何を迷っているんだ!!
と、なんだかおかしい鳥尾。
もっというと、20日から言っているこの会議自体も、延期賛成にほぼ傾いている話を、衆議院を巻き込んでもう一回話そうということなので、あれもしかして…という気配が漂ってきています。

その後も賛成だ!反対だ!の演説が続くなか、突然発言します。

○子爵鳥尾小彌太君 一タビ發言ヲ求メタウゴザリマス、
○議長(伯爵伊藤博文君) 鳥尾子爵ハ何デゴザリマスカ
○子爵鳥尾小彌太君 演壇ヘ出テ宜シウゴザリマセウカ
○議長(伯爵伊藤博文君) 夫レハ困リマス

このやり取り声出して笑ってしまった。
このあともモゴモゴしていて、もう一回「發言ハ出來マセヌカ」「出來マセヌ」のやり取りが出てきます。
以降届け出を出していた議員の演説続きますが、穗積陳重の演説が終わったあとに中山孝麿から「討論終結ノ建議ヲ提出イタシマス」と、もう終わりにしませんか(議員投票にいきませんか)の発言が出て、細川潤次郎も、先日からもうみんな言いたいことも言ったし、本日の冒頭で伊藤議長が「時間ないねん」と言っていたこともあるので、規則にのっとって議長が討論終結の決議を議員起立によって判断したらどうですか、と援護射撃します。おそらく長時間の会議にみんな疲れてきたのか、この細川氏の発言には「賛成賛成」と連呼する人がいたそうな。

鳥尾はここでまた、「発言させてください!」的なことを言っているのですが、スルー(今回は本当にスルー)されてしまいます。
このあと、箕作麟祥(1846-1897。民法編纂委員、商法編纂委員を務めており、この方は延期反対派)が演壇に上がって演説をするのですが、そのあとに本来演説を予定していたらしい海江田信義(1832-1906)が壇上に上がって演説することを辞退し、「モウ今日人ノ腦髓ト云フモノハ凡ソ極ッタモノデアル今日ノ所デハ速ニ決ヲ御採リニナルコトヲ希望シマス、」と、投票に進むことを進言しています。
みんな疲れすぎているし、この海江田さんが「だんだん話が本筋から反れていってない?」みたいなこと言っているのですが…そんな空気のなか、一人だけ空気を読まずに発言しまくる人がいます。
鳥尾です。

まじでこの後の発言何を言いたいのかよくわからないのですが、ついに議長の伊藤のみでなく千家氏にも「只今ノ鳥尾君ノハ質問デスカ、何カ討議デスカ」と言われる始末。
それでも一生懸命喋ろうとするのですが、討論終了の決議は賛成多数で可決されてしまったため、演説は終了、賛成・反対の投票に移ることになります。
この投票が始まるにあたって、鳥尾はどうしたかというと…

○子爵鳥尾小彌太君
表決ノ前ニ少シ情願ヲ致シマスガ、表決前ニ私ハ此議場ヲ退キタイト思ヒマス。
ト云フモノハ延期ノ趣旨ヲ私ハマダ十分了解スルコトガ出來ナイ。
然ルニ此案ノ可否ヲ決スルニ至ッテハ、天皇ノ御印ノスワツタモノヲ或ハ無ニスルカ、或ハ無ニセヌカト云フ程ノ大切ノ問題デアル。憲法ニ關係ハアリマセヌガ、隨分重大ナ問題デアリマスカラ、ドウモ私ハ此表決ノ數ニ入ルコトハ出來マセヌデゴザイマスカラ、甚ダ諸君へ對シテ失禮デハアリマスガ、退會イタシマスデアリマス

ということで、ここで退場していました。
その後、起立多数でこの延期案は可決され、議会は終了します。
これが議事録から見える一部始終です。

 

三浦の回想との照合

というわけで、議事録からみると鳥尾は演壇に上がっていないし、演説もしていないのですね。(上がろうとしたけどNGくらっている)
観 樹 将 軍 ま た 話 を 盛 っ て い る 可 能 性 。

ただ、どうも延期案に賛成という立場ではなく、最後の捨てセリフをみても延期反対(山田の意見に賛成派)の立場寄りだったようなので、「無論大反對の演説であらうと思つて居ると、何ぞ圖らん、ソレが大賛成の議論であつたのである」というはやっぱり盛り過ぎですが、延期反対派に肩入れした発言だったことは確かでしょう。
延期賛成であれば、もう一回衆議院に差し戻す必要もなく、貴族院の選抜委員が「賛成」多数の立場をとって、貴族院の議員全体でも賛成の空気が漂う中、「もう一回、もう一回衆議院も含めてこの話しきりなおそう!!」的なことをいう必要ないですからね。

なので、三浦の話と照らし合わせると、

・鳥尾が大反対(延期反対)の演説をした → していない
・上記の演説はみんなを集めた会議の翌日にした。その会議で途中退場した → 退場はしている(12/22)
・退場した日の演説では山田に賛成(延期反対)の立場だった → 演説ではないけれど言っていることはまぁそう
・当初鳥尾は山田に反対(延期賛成)の立場だった → 議事からは分からない

ということになろうかと思います。
おそらく、鳥尾がみんなに声をかけて集めて延期賛成(山田に反対)のお願いをしていたのであれば、演説の前日(12/21、20とか)ではなく、もっと前のような気がします。
12/20の遅刻した日に発言している内容が、すでに仕切りなおそう的な感じがするので。
もうここまでくると説得したのが本当に山田かも怪しい。延期反対派の誰かかもしれない…言っている内容的に箕作氏では…?

この商法延期については衆議院で討論されたのが議事録上では貴族院の会議の5日前、明治23年12月15日になっています。なので、帝国議会自体が始まる前は鳥尾は山田に反対(民法・商法の施行の延期に賛成)で、議会が始まったあとの期間のどこか、12/20の貴族院での討論が始まる前までに説得されたんじゃなかろうか…。
いずれにしろ、三浦とか周りの人からすると「あいつ延期反対派になってるじゃねぇか!!!」は間違いないと思うので、その前後を三浦が盛ったのでしょう。
その後二人とも会議出てきてないしね。
三浦が話を盛っている(3回目)ことはむしろいつものこと過ぎて安心すら感じるのですが、お前らは本当に谷さんに謝ったほうがいい

 

雑感など

※雑感は回顧録の内容に限った話です

この話、まさに私が鳥尾に興味を持ったきっかけの話でありまして、登場人物全員好きです。
関連記事:【覚書】私が鳥尾小弥太にハマった経緯をまとめてみた

当初山田顕義を調べていた際に東京鎮台司令長官周りで山田と三浦の関係性(実態は山田と木戸さんと、木戸さんと三浦の関係性)が気になって(過去記事:20210506(閑話休題の明治陸軍雑談))、この観樹将軍回顧録を読み、この逸話の泣き落とし山田に振り回される鳥尾を知ったので、めちゃくちゃ思い出深い…。
読んだ当初は上述の通り山田を追っていたし、久坂や高杉の暴れっぷりに感覚麻痺していて幕末の先人たちの逸話に慣れてしまっていて、泣き落としのほうに意識が集中していたのですが、今読み返すと 鳥 尾 ひ ど い な … 。前日にみんなに「反対してくれよな!!」って根回ししといて翌日賛成の演説したらそら「酷い奴ぢや。」を連呼されるわ…。

俊輔(伊藤博文)の周旋の才が、大人になりサラリーをこなしてきた今となっては「本当にこの人すごいな…」って感じでいっぱいです。
このエピソードで一番かわいそうなのは2回も面倒くさいお使いに出されるカネケンだと思うのですが、私は彼に対して絵にかいたような官僚のイメージしかないので、面倒くさいと思いつつもそれ以上の感情なく、淡々とこなしている絵しか浮かびません…(俊輔の憲法手伝ったメンバー、クセあるけどみんなそんなイメージがある)

というか、

「乃公達は議論では迚も敵はぬ。君に饒舌らして置けば、際限がない。」
と言ひながら、ストーブの前にあつた鐵の棒をヂーと引き付けた。石炭を挾む鐵の道具だ。此れには鳥尾も度々苦い經驗を嘗めて居る。ソレを見て容子が又ガラリと變つた。
「成程、君の言ふ所も一理ある。好し、ソレでは君に任さう。」
と急に折れた。

ここが本当に好きすぎてジワジワくる。喋りながら鉄の棒持ち始める三浦怖すぎるだろう。
「此れには鳥尾も度々苦い經驗を嘗めて居る。」が こいつを黙らせるには論ではなく暴力 みたいなことが過去にもあったということだし、二人の関係を端的に表していてたまりません。
腐っても一時期陸軍のNo.2にいて、めんどくさい議論ぶっ放してくる鳥尾が一瞬で折れるの、奇兵隊時代からの付き合いのメンツに完全にイジられキャラ扱いされている何というか、若い頃から知っている人間と、明治で長州閥が出来上がったあとに付き合い始めた人間の間でギャップめちゃくちゃありそうで、良い。

一體鳥尾と云ふ男は、何時も能く議論の變る男ぢや。ソレが惡意から來るのでもなく、慾得から來るのでもない。アレの性質として、學問上なり、理論上なりから見て、此方が好いと思ふと、ガラリと豹變するのだ。

これすごい的確だよな…と本当に感動してしまいます。
この分析をもとに、鳥谷部春汀による鳥尾評(過去記事)や、伊藤柳太郎に対する意見の変更をみていくと全部理解できる…。
三浦は谷さんに「彼の男は旧来の友人なれ共兎角独智に任せ熟談の出来ぬ性来」(谷干城遺稿)と言っていたり、この話でも「親友」と言ったり言われたりしているのをみても、よく鳥尾のことわかってくれているな…さすが…と思う。(カネケンが二人の関係を親友、と言ってきたのは、どっちかというと「めんどくせぇけどお前何とかしてくれ、付き合い長いから親友なんだろ」的な圧を感じますが)

本当に何年経っても好きなエピソードです。

 

 

 

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