鳥尾小弥太

関係者の語る鳥尾小弥太と戊辰戦争(『維新戦役実歴談』から)

概要

冬の東福寺。

維新戦役実歴談という、明治維新の50年後、大正6年に発行された談話集があります。
これのなかに収められている鳥尾に関する記述をずっと紹介したかったのですが、ようやく!!
維新戦役実歴談については、近代デジタルライブラリーで公開されています。

維新戦役実歴談 - 国立国会図書館デジタルコレクション(近代デジタルライブラリー)

 

維新戦役実歴談とは

維新戦役実歴談は、明治元(1868)年10月13日に、新発田城内(現在の新潟県新発田市)において、戦没者の大招魂祭を行った日から50年後、大正6(1917)年10月14日に、靖国神社において行われた50年祭に併せて刊行されました。長州藩出身者を中心とした「維新戦歿者五十年祭事務所」により編纂され、発行人代表は児玉如忠という、自らも戊辰戦争へ身を投じた元長州藩士となっています。
(14日としたのは、13日が土曜日だったからだそうです)

この本は中身もさることながら、序文や凡例に、「これは昔の思い出話だから記憶違いで当然間違いもあるかもしれないからね!」と、注意がされていることが私としては非常に面白く感じました。
すでに維新の功労者(とされる人々)の大半は世を去り、50年という日が過去のしがらみを徐々に遠いものにしているからでしょうか。ここに登場する人々の話には、過去の栄光を誇るというよりも、ただただ遠いあの日を懐かしみ、逝ってしまった仲間への追悼の念が感じられるのです。
(白河口と越後口に出兵した人々の話は一部載せるのを躊躇うくらいなので、ちょっと例外かもしれませんが…)

今回は、鳥尾に絡み、内容が少しリンクしているこのお三方の話を一部ご紹介。

伏見鳥羽方面(故林子爵)
伏見戰争並に前後關係(松村源一)
伏見方面(三浦梧樓)

 

伏見鳥羽方面(故林子爵)

林子爵は、林友幸(1823-1907)。槍の半七、とよく紹介されている、奇兵隊の軍監を務めた人です。鳥尾よりも20才以上年長の方ですね。
慶応4年(明治元年/1868年)1月3日に火ぶたが切られた戊辰戦争最初の戦闘、「鳥羽・伏見の戦い」に参戦していた林さんは、開戦までの流れとそれぞれの日のダイジェストを語ってくれています。

(問)詰り三日の戰争には土州は一發も撃ち出さなかつたのですな。
(答)アノ方は敵の居らぬ方へばかり往くから鳥尾がやかましく言ふうてやつた、一體戰争と云ふものは敵が居らぬ所で出来るものではない、と言ふて怒つて詰り敵の居る方へ出して呉れと云ふことだつた。
(問)あれは容堂公の方から幕兵に向つて鐵砲を撃つてはならぬと言ふて止めてあつたさうです、サウすると戰争をしたのは多くは薩長土三藩と書てありますが、薩長と言ふことになりますな。
(答)けれども土州も兵を二小隊か幾らか出して居つたから三藩とも言はれるだらう。
(p86-87)

編集委員が(問)、林さんの受け答えが(答)です。
あとで松村さんの話にも出て来ますが、鳥尾は奇兵隊では古参なこともあってか、林さんと色々なところで接点があって割と仲良さそう(林さんが常になだめているともいえる…)なので、鳥尾が談話によく出てきます。

 

(問)そから四日は
(答)四日は高瀬川の戰争ばかりで、是は朝の内十時頃までに皆な濟んだ、其朝は霧がかゝつて居て能う分らぬ、それに大砲を撃つた烟と火事の烟で眞黒になつて居つて彼方も分らぬが此方も分らぬ、鳥尾が怪我をしたのも其朝で、耳の後ろを少し怪我した、何でもないと言ふて居つたが血が出るから東福寺へ拉れさしてやつたやうなことであつた、
(p90)

わたくし西郷従道が大好きなのですが、従道もこの鳥羽伏見で耳あたりに銃弾貫通する怪我を負ってるんです。なんだろう…みんな交わしたと思ったけどかわし切れずに耳にあたるのでしょうか…。

 

(問)あの時分に兵隊を國へ戻すと言ふことになつたのはあなたの御意見でしたか。
(答)私共の意見であつたが、其時は廣澤も居り木戸も居つて、戻すと言ふことになつたら随分やかましいことになつて私を殺すなどと言ふ論も起つた位で皆な止まりたいと言ふ所へ明日立つと言ふことになつたものだから皆な大不平と云ふものだ、併し金を使わぬ中に戻したから親や女房子は大層悦んだが、勝つた勢で威張つて遊びたがつた所だつたから。
(p99-100)

これは鳥尾関係ないのですが、面白かったのでちょっと抜粋。こういうの正直に言っちゃうところが林さん大人~、と思ってしまいます(そして言い方もなんかお父さんみたい(笑)

伏見戰争並に前後關係(松村源一)

松村源一は、生没年不詳なのですが、奇兵隊士です。
慶應元(1865)年2月時点の奇兵隊名簿にも名前がみえ、滋野謙太郎の第一銃隊二ノ伍に属していたようです。(鳥尾は当時、久我四郎の第三銃隊の押伍)
※本多友一が山県有朋に献上した諸隊名簿では、談話中に出て来ますが奇兵隊除隊扱いになっているので、除隊者のところにしか名前がありません…隊員のままでいれば身分書いてもらえたのに…!

奇兵隊日記ちゃんと見ればわかるのでしょうけどちょっと挫折。
そんな勿体ない松村さんの残してくれた談話が個人的に面白すぎてずっと紹介したくてたまりませんでした。すごく偏見をもってまとめると、

・鳥尾と一緒に奇兵隊を止めて第二奇兵隊へ行って好き放題してた
・鳥尾は背が高い
・鳥尾といっしょの蒲団で寝たけど、三浦のほうが親しみが深い(怪我治ったから嬉しくて見せに行くって…可愛いわ!)
・鳥尾と鳥羽伏見開戦させようとしたけど失敗した
・鳥尾VS赤川敬三の詳細がみれるのは多分ここだけ
・鳥尾、やってることが完全に小学生

ではどうぞ!
※読みづらかったので、一部改行、「」、「。」(原文はすべて「、」)などを補っています。

 

それから吉田に歸つて、吉田で一寸氣に喰わぬことがあつたので、第二奇兵隊の方へ行つた。これが慶應三年の八月でありました。第二へ行くに付て、中々やかましかつた。やらぬと云ふ、行ても差支ないといふ。どうせどつちでも戰に出るのだ、第二と言ふても矢張り奇兵隊だ、差支ない。堀潜太郎といふ人が、中々聞かぬ氣の人で、そんな馬鹿なことがあるものか、自分の勝手だ、行きたいものは行くが宵いと。
そこで四人即ち鳥尾小彌太安倍無蔵中野慎一と私が行きました。其頃林友幸さんは第二奇兵隊の長で恰ど萩へ歸つて居られるから私は四人の代人で萩へ行た。さうすると林さんが、「小彌太(鳥尾)も昨日来て岩城山(第二奇兵隊の陣)へ行くといふ」から、サァ何處に居ても同じ事だ。そこで林さんと約束して出て行た。
それから鳥尾氏は先へ行かれた。私共は跡で行た。其時は出兵の仕度をする時であつて金の無いものばかりで、京へ行くといふので、小使をもらつて皆自分の家へ暇乞に行た。私も自分の家へ行つて歸りに、熊毛郡の島田へ私が行つた時は、夜の十二時であります。宿屋の數が少ないゆへ皆一ぱいで泊る處がないから問屋場へ行て、宿をどうかして呉れいと申した所が、「あなた松村さんではないか」、「さうだ」、「それでは向ふの島田屋に何とかいふ方が泊つて、あなたが来たら寄越して呉れ、何とも名前を仰しやらぬが、丈の高い人だ」といふから、大方鳥尾さんぢやないかと思つて行て見た所が、蒲團に一枚括まつて寝て居る。「此通り蒲團も無い、これで寝にやならぬ、時に君は金があるか」、「金があると言て大してない」、「たんと入る譯ではない、宿銭があるか」、「宿銭ぐらゐはあります」、「それなら宵い」、其蒲團を冠つて二人で寝たことがある。
それは富海の本屋で本を買うた、それが三圓五十銭計りであつた、心やすい所だからやらぬでも宵いが、やらぬのも極りが悪いといふので、皆拂つて仕舞つて、途中で菓子を食う銭も怪しくなつた、それで日が暮れてあすこ迄来たのであります。
翌日鳥尾さんと一所に陣屋へ歸つてそれから直に出張する様になつた。
第二へ行つては、暴れたものであります。第一から行たといふので、どんな規則を破つても小言の云い手がない。
それから小船に乗つて上の關迄行て、室津へ泊つて、室津から軍艦に乗つた、それから西の宮へ着いた。
西の宮では、第一奇兵隊の人々とも一所に居つた。あすこに暫く居つた。丁度其時あの邊では太神宮の御札が降ると云つて、皆氣狂ひの様になつて、縮緬の友禪の襦袢で肌脱ぎて、婆さんも娘も夜も晝も騒いだ。其中に暫く居つた。
其から山崎の方へ出掛けた。山崎には關門がある。本道は通れぬ、裏道を通るが、裏道もやはり裏關門がありますが、そこは林さんが行つて談判した。「宜しうございます、お通んなさい」といふので通つた。それから粟生の光明寺に暫く居りました。其時には山田市之丞さん杯と一所に塚原といふ、塚原ト傳の出た所に陣屋があつて關門がありました。其所へ談判に行つた。林さんと山田さんと、私と中野と二人附いて行きました。さういふ様にあの邊を皆説廻つてさうしてトウ\/京都へ出る様になつた。
京都は相國寺に居りました、立派な寺であります。金屏風の所へ持て行て、草鞋を掛けたり鐵砲を掛けたりしたのは、氣の毒な様で。
其れから暫く居つて、伏見の方へ第二奇兵隊だけ出た。さうして撞木町の少し先の何とかといふ町に居りました。其で今夜一晩、一つ行て揖斐を嚇かしてやらうぢやないか、揖斐といふのは舊幕の大隊長であります、さうすれば屹度向ふから打てくる、打てくればそれが手初めだから直に始めやう、鳥尾さんと私と中野慎一と三人でいつた。大さ三尺角もある門柱が立て居る。其處へ行て揖斐さんに遇ひたいと言た。所が、「今晩は一寸外に行て、今居りませんから」と云て遇はなかつたから計畫は敗れてしまつた。
其内に段々大阪の方から兵がやつて来た。桑名が一番先へ来た様であります。けれどもまだ喧嘩にならぬものでありますから、斥候に廻つて行合ては、御苦勞さんと言つて居た。
所が正月のよく覺えませぬが二日か三日の晩であります。日が暮れて人影が見えぬ様になつた。私共六人先へ出て居た。さうすると僅か三間位の道であります、其道の向うの方から五六人出て来た。「何れの御藩」と言つた、所が「會津藩」、向から「御藩は」といふから「長州」と言た。「打て\/」と言つて打ち出したから此方からも打出す。所が不幸にしてそこで以て三人計りやられた。其時私と末永良太郎とモウ一人、三人やられた。末永は左の頬、私は右の足を打たれた。
それで私は其戰はそれなりで、其晩は京都の東福寺に病院があつてそこへ来た。撞木町に病院の出張所があつて、そこで繃帯して東福寺へ行た。傷の癒る迄其儘居つた。それから山口へ歸つて入湯した。丁度三浦さんも負傷して一所に入湯して居つた。どつちかと言へば、鳥尾さんの方よりは三浦さんの方が親しみが深い。三浦さんは左で、私は右、どつちも足が立たなかつた。山口に居るうちに一寸足が立たものだから、嬉しかつたから三浦さんの所へ行つた。「貴様足が立たか」、「オレモ」、「歩けるか」、「歩ける」、「それでは大賀の所へ行て御馳走になつて来やう」、と云つて一所に行た。
それから奥州の方へ兵が出たが、私共は行くことが出来ぬ。
それから京都の方へ又行つた。京都で出て今度は膺懲隊と第二奇兵隊が一所になつて行た。一所になつて今度は東京へ出るといふことになつた。そこで膺懲隊の赤川総督と鳥尾さん(第二隊長)が喧嘩をした。といふのは三條畷の方に何か目的があつて、それを見たさに赤川は、其方へ兵を率ひて行た。所が三條へ廻つては道が遠くなるから寺町で別れて仕舞つた。それが別れの初めで、船に乗つて東京へ出た。品川から喧嘩して、向うで港屋へ宿札をはると、とつてしまつてこつちの札を掛けて仕舞う。向うは仕方ないから鮫津の川崎屋へ宿を取つて、雙方が離れて仕舞つて、そこで君公が鳥尾に腹を切らせるといふので、杉さんが、それはいかぬ、悪いと言た所が赤川もわるし。それからトウ\/やかましくなつて鳥尾さんは坊主になつて仕舞う。跡は皆國へ歸して仕舞へといふことになつた。
所が私共十人殘つた。それから鳥尾さんの處へ行き跡は目黒に行て、目黒の何とかいふ寺へ行つて、そこで自炊をやつて、暫く居つた。さうして居る内に一方は私ども目黒へ行く前に九人で江の島へ行つて歸り掛け方々拝んで二三日泊つて横濱山城屋方へ歸つて来た。こちらでは何處に行たかと、大心配をして鳥尾は品川で待て居る。早く品川まで歸れといふので、それから晩方に駕籠を頼んで三枚で品川へ歸つた。
それで皆歸して仕舞つたから、前に申した目黒へ行て暫く滞留して、後に横濱へ行て、些と學問でもしたら宜からうといふので、四人ばかり殘つて横濱佛學校へ行た。今の横濱のステーションの向うに學校があつた。其處に居つた所が、山田さんが奥州から歸つて来て、東京へ歸つて来いといふから、東京へ来た。今大蔵省のある所が國の屋敷でありました。あすこに居つた、其の内トウ\/國へ歸らなければならぬことになつて歸つた。
(p211-217)

 

安倍無蔵、中野慎一は奇兵隊士。
松村さんと同じく慶應元(1865)年2月時点の奇兵隊名簿では、安倍は槍隊の四ノ伍に、中野は二ノ伍に属しています。
隊長は阿川四郎。「吉田で一寸氣に喰わぬこと」は、おそらく諸隊再編成のことを指していると思われ。(奇兵隊は総管が変わっています)
揖斐は揖斐章かな?

赤川さんと鳥尾のやりあいが面白いのですが、鳥尾のやってることが完全に小学生です…。
林さんの、土佐藩に対する態度でもそうだけど、鳥尾は基本的に根がまじめなので(特に前線で実際戦っているので)、こういう軍規を乱すというか、無駄な労力使うことにすごく腹がたったんだろうなーと思います。

で、多分、よく言われる戊辰戦争で鳥尾隊が転戦、というのは、第二奇兵隊に一応所属しているけど半分浮いてしまっている(悪さしても誰も注意しないというように、第二奇兵隊であって第二奇兵隊でない扱い)、鳥尾達数人を指して言ってるんだろうなー…というのがこの談話をみたあとの私の推測です。
なんだろう、第二奇兵隊における奇兵隊からの天下り(?)連中って…ヤンキー漫画でこういう扱い受けてる人よくいるよね、というデジャブ。

ところで、松村さんの回顧では堀潜太郎がやたら怒ってるんですが(笑)、ほかの人の回顧だとそんなこともないのです。怖いイメージがあったのか…松村さん…。
三浦、鳥尾、堀の三人はどこかで「奇兵隊青年三隊長」なんて言われていて、堀さんの記事はちょいちょい拾って読むのですが、いつかまとめたいです。

伏見方面(三浦梧樓)

最後は三浦の談話です。
林さん、松村さんの談話とリンクする、鳥羽伏見の開戦から2日たった1月5日の話です。
これも一部改行、「」、「。」(原文はすべて「、」)などを補っています。

此の時我隊長藤村英二郎尤も勇氣に任して軍刀を上段に構へ大聲にて、さあこひ/\と眞先に進み、危險云ふ可らず、襟髪をつかみ後へ引き戻し、此の時計らず足を棒か何かで打たれた様な氣がして、土手にころびをちた。草を攀て這ひ上れば又落る。静に足部をしらべて見れば血が流れる。是は打たれたと初て氣が付き刀を鞘に納めて、座つて、「モウ宜いから行け/\」と一氣に攻めた。
敵の鎗隊は全滅した。
其内に橋に掛つて臺場を築いた。其の間に聲を掛けて橋の中頃に行たのを見て、これなら宜い、淀も一氣に落すであらと思ふ時にはや後方に送り返された。道が一本筋で左右は河と沼で、前方は兵の外一時に多數を進むる事出来ず、尻が塞がつて居る。それで物といふものは知るも良し、知らぬも良しで、前に鎗隊の鎗襖の敗れた事を聞て居たら荷様な無茶馳けもせまじ。左すれば此の大勝の仕合も得られまじ、一氣に淀を落してから、大阪まで一潟千里、戰争はそれで止んだ。それが五日の午前で、十二時迄に淀城は落ち付いた。
幕兵の逃げる奴を山崎の關門に居た藤堂の兵が、今後は最初の我兵の通行を妨げたものか打つてかわつて、五日には反對に横から幕府の兵を反對に打出したから、さん/\”に破れた。
それから我輩は怪我をして東福寺へ戻つたが、百姓が藁で拵へた所謂雑物を入れる駕籠に乗せて貰つた。
山本常次郎といふ奴が強い奴で、彼の奴が「是れを頼む」といふて、膝の上に重い包んだものを置いて行つたが、それは何か知らぬ。途中の病院で「療治をしてやらう」といふ。焼酎で洗ふといふ。それは大變だ、長州ではもはやそんな馬鹿な療治はしない、それは御免蒙むると、東福寺へ歸つて、落附て風呂敷包を取て見たら、藤村の首だ。勝敗期す可らず、苦戰の事ゆゑ敵に取られぬ様に首をかき取りしは山本常の注意なりし。
藤村が死だ事を今初めて知て悲傷堪へざるの餘り大聲にて啼いて居ると一寸背中を叩く者がある。見ると、鳥尾だ。繃帯をして居る。隣の室から飛んで来た。共に藤村の死を悲み、さうして驚いた。最も親密と頼む三人の友人が圖らず一人は死し、二人は、怪我をした。
藤村といふ男は十九であつた。頗る英邁な男であつた。初め打出村上陸の時、遙に湊川を指して、「あの邊が湊川だらう」といふて、「湊川きくより船の早きにて膝折にするひまもなかりき」の一の歌を作て見せた勇氣もあり學才もあつた男だが、惜いことをした。
その兄の太郎と云ふ男も既に國難の折に繪堂の戰争で戰死した。たつた二人りの男の子を兩方とも失つたその母親の心事は如何にも氣の毒である。その後凱旋の酒宴の席に、何度出られた事があるが、いつも先きに立つて歌つたり踊つたりしてわが内心の悲痛を踊りや歌にまぎらして居られたのは、その心の内は如何にも哀れであつた。
此の戰争に於て、會津鎗隊の中の當時の生存者に興津某といふ八十に近き老人がある。其息子が大蔵省の官吏で、或日言ふには、父は戊辰の折に伏見淀にて鎗隊の生き殘りであるが、あなたにおめに掛かつたら聞て見てくれろと申して、その息子の話すには、あの伏見戰争の折に、あなたがおいでになつたが、あの折長州の隊長が刀を抜いて逃げる兵士どもを斬り居つた人がある、あれは誰であつたかと、尋ねに来た。それから思ひ出して、それは私だ、斬たのではない、跡へ引いてはいかぬ座れ/\と言て、刀で叩いて居つた。向ふから見たら丁度斬る様に見へたらうと云つて、大ひに笑つた事がある。
それから六月になつて負傷も平癒して越後口の戰争にへ出たが、此の方面には丁度戰争の中途から参つた譯であるからこれは最初から出征して居つた人々の話に譲り置くこととして自分の話は唯京都方面の口切り戰争の話だけに止めて置くこととする。
(p392-p396)

 

三浦の回顧録、観樹将軍回顧録には、この足の治療でアイテテってなってる記述もあります。
藤村英二郎は、本多友一の編んだ諸隊名簿によると、「元来栖源兵衛組当時準士」とあるので、功績によって一代限りで士分に取り立てられたようです(堀潜太郎も準士です)。
三浦は藤村のことを「19歳」といっていますが、奇兵隊日記35に収録されている争地度数死傷名簿によれば、

廿一才 藤村英二郎稔彦
右慶應四年戊辰正月五日城刕澱ノ役戰死

 

とあるので、記録は数え歳をもって記載されているのでしょう。
1847~1849の生まれになると思われますが、そうするとまさに三浦や鳥尾と同年代になりますね。
奇兵隊日記では私怨の喧嘩に加担して謹慎処分を受けていたりもする藤村さんですが、三浦、鳥尾もそれぞれ別々に謹慎うけたことありますし…血気盛んな同年代で、気の置けない関係だったのかもしれません。

 

直近で東福寺を訪れたのは、もう5年以上前になります。(冒頭の写真は、約10年前のもの)夏の暑い時期に訪れた東福寺は、緑がとても美しかったです。

東福寺のすぐそばには、退耕庵という、鳥羽伏見での長州藩士の菩提寺があります。(歴史はもっと古いです)

明治四年にたてられた碑。

そしてこれは東福寺境内にある、防長忠魂碑。

撰文は三浦梧楼。書は、長州三筆ともいわれる野村素介によります。
この忠魂碑も、大正6年に建立されたもの。

藤村さんは、東福寺近くの墓地で眠っています。
この墓地、たどり着けなくてまだ行ったことがないのですが、今度は行けるといいなぁ。

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