鳥尾小弥太(とりおこやた)とは

鳥尾小弥太(とりお こやた)


鳥尾小弥太(とりお こやた)は、日本の江戸時代後期から明治中期の軍人、政治家、思想家。
弘化4(1847)年12月5日(新暦1848年1月10日)に、長州藩萩城下の川島村(現在の山口県萩市川島)に、同藩の蔵元付中村宇一右衛門の長男として生まれた。母は徳田氏。

基本データ


鳥尾小弥太肖像 鳥尾小弥太肖像(ポストカード裏)
(所蔵:友月庵)


得庵全書より)

生年 弘化4(1847)年12月5日(新暦1848年1月10日)
没年 明治38(1905)年4月13日
出身 長州藩(山口県)萩城下河島村
旧本姓 中村
敬孝(高)
幼名 一之助
通称 百太郎、鳳輔
得庵、御垣、不識道人
中村宇一右衛門敬義 (御蔵元付) ※2021/10/03更新
徳田氏某
兄弟 姉二人(長女:三輪家へ嫁す)
山村たい(たえ、泰子)
千原りき
2人(長女:廣子 長男:光)
家紋 二剣花菱?

略歴


安政5(1858)年春に父と共に江戸に登り長屋敷へ詰めるが、万延元(1860)年に藩主に伴って一時帰国した父が兵庫県の加古川でその夏に没したため、翌年春に萩へ戻り、数え歳15にて家督を継ぐ。

文久3(1863)年4月、四国連合艦隊の襲来に伴い、藩の銃撃隊として参軍。この年の6月8日、高杉晋作により奇兵隊が結成されると入隊。同年11月1日の奇兵隊日記にて名前が見えるため、遅くともこの時期までには参加したものとみられる。
以降、藩の内戦、戊辰戦争を経て明治3(1870)年に兵部省に出仕。翌明治4(1871)年に陸軍少将、明治9(1876)年に陸軍中将にすすみ、明治10(1877)年に起こった西南戦争では行在所中陸軍事務取扱として京都、大阪を拠点として九州への兵、武器弾薬の調整を行った。
明治12(1879)年に第6第近衛都督に就任するが、翌年の開拓使官有物払下げ事件に反対し、陸軍中将三浦梧楼、陸軍中将谷干城、陸軍少将曽我祐準と建白書を提出。これが容れられず、病を理由として陸軍を退いた。

明治17(1884)年子爵に列せられ、翌明治18(1885)年に元老院議官、明治21(1888)年に枢密顧問官、明治23(1890)年には貴族院議員などを務める一方、急激な欧化主義に反対し保守党中正派を組織し、日本国大道社を設立した。
書画もよくし、大日本茶道学会の初代会長でもある。

明治38(1905)年4月13日、静岡県熱海の別邸にて死去。墓は東京都文京区の護国寺、兵庫県加古川市の光念寺。

※2021/05/05 追記※
以前から稀にお問合せがあるのですが、現時点で萩の鳥尾生家跡には行ったことはないため、某博様へ問い合わせをしたのは管理人ではありません。

鳥尾家の家紋について


 

鳥尾家の家紋は二剣花菱の亜種のようであるが、正式名称不明。
華族大系には左の黒背景に白地抜きのものが、華族画報には白地に黒抜きのものが掲載されています。東京小石川にある鳥尾家の墓碑にもこの紋が彫られていました。

鳥尾家家系図


※華族画報、華族大系などの資料のほか、鳥尾文孝様のご教授(鳥尾家の家系図をまとめてみた)にて作成。
ありがとうございます。

*2016/2/28 追記*
冊子など出版物より作成できる家系図は下記の通りです。
廣子さんのお子さんは多数いるのですが、繁子さんが小弥太の日記によく出てくるので、とりあえず彼女だけ。

家族など


妻:鳥尾たえ

・山村吉兵衛長女 安政3年5月15日~昭和19年9月23日(華族大系)
・「大坂府平民山村吉兵衛長女」、「太以」「安政3年5月15日生」(華族名鑑 明治27年版)
・「たい」とも。昭和19年9月23日没。(私の足音が聞える)
・同じく『私の足音が聞える』内で、「考えてみれば、鳥尾小弥太の令室、つまり祖母上も、一説によれば祇園の舞妓さんであったそうである。まだ祖父が若い頃、舞妓だった祖母を落籍して一緒になったという人がいる」との記述があるが、詳細不明。
・こんな紹介をされています。

枢密顧問官子爵鳥尾小弥太氏の夫人を泰子といふ。生れは大坂の人で明治十四年子爵と共に上京したが、子爵は有名の奉佛家であるから、常に其の傍に在る女史もまたいつの間にか感化せられて、道念堅固の信佛者となつた、女史が佛教界の事業の中で今日まで最も力を盡くしたは福田會育児院で、明治十五年であつたか、福田行誠、今川貞山、新井日薩、唯我紹舜などいふ各宗の高僧が福田會を興した、それから間もなく女史は毛利公爵夫人や原禮子なぞと共に同會の中に敬愛部といふ女子の団体を設けて、育児事業を助けるの傍ら、毎月一回づゝ育児院内に法話會を開き初めて、爾来今日迄継続して居る、女史はまた目白の雲照律師に帰依して夫人正法會にも率先して力を盡くし、その他諸所の法席に列りて佛法聴聞を楽みとせらる、年は未だ人生の定命には達せぬらしく、極めて温和の性質にて立居振舞凡て肅かな教界の婦人として恥しからぬ女性である、

安藤鉄膓『教界の婦人』- 国立国会図書館デジタルライブラリー

妾:千原りき

・「かつて芸者たりし大坂北の新地貸席千原治兵衛長女りき(四十三)を十数年前より妾とす」(弊風一斑畜妾の実例)

子世代


日野西廣子

鳥尾の娘。母は鳥尾たえ。
・日野西資博に嫁ぐ。明治6年1月~昭和31年4月(華族大系)
・女官をしてたらしい
・樋口一葉などと中島歌子の「萩の舎」で同門だったそうです。
・「笑いをこらえるのに必死だった」とかユーモアのある記事を書いてくださる(関連記事:娘の語る鳥尾小弥太

鳥尾光

鳥尾の息子。母は鳥尾たえ。嫡男。読み方は「みつ」のようです。(関連記事:娘の語る鳥尾小弥太
・従四位。子爵。統一学会副社長、談話会員。
・生没年:明治9(1876)年10月4日~明治44(1911)年6月1日
・家督相続:明治38(1905)年4月

祖父の死後は一人息子の光が襲爵した。子爵鳥尾光となったわけだ。祖父の肺結核の体質を受けついで彼はすごく弱かった。ひどい関節炎を患い、いつもびっこをひいていたそうだ。写真や肖像画によると、大変な美男子である。光は病弱なため、何も仕事をしなかった。貴族員(ママ、院カ)議員を務めただけで、父親、小弥太の栄光の中で、考えられない贅沢をして亡くなったという。

(鳥尾多江『私の足音が聞える』(1985) p89-90)

という感じで、マダム鳥尾さんは光氏を美青年と言っておられましたが、以下の書籍に、光氏のお写真が載っています。
輪郭や全体の顔のバランスなどは鳥尾小弥太にそっくりなのですが、目元は完全に泰さんで、ギラッとした感じがないですね。確かにイケメン…。

統一学社寄宿舎年報. 第2回(明治39年度) ※p3-
国立国会図書館デジタルコレクション(近代デジタルライブラリー)
*2020/11/28追記:現在はインターネット上では非公開になっているようです*

・こんな紹介をされています。

元統一學會副社長従四位子爵東京華族
古樞密顧問官陸軍中将正二位勲一等子爵鳥尾小彌太の長子にして明治九年十月四日生る蒲柳の質を以て謡曲、能楽、鼓に長じ讀書に耽り交際社會に出でず一時談話會員、統一學會副社長と為る後神経痛並に股關節炎に罹り四十四年五月廿日従四位に■叙六月一日東京市小石川区關口臺町の自邸に卒す年丗六夫人を知勢といひ一男二女あり嗣子敬光襲ぐ

大植四郎『明治過去帳 物故人名辞典』(1935) p1218-1219

鳥尾知勢

鳥尾光の妻。
・酒巻敬之助の娘 明治16年10月27日生まれ。昭和15年(華族大系)
・埼玉の豪農の娘だそうです(私の足音が聞える)
・跡見女学校の出身で、副校長と呼ばれるほどの秀才だったそうな(私の足音が聞える)
・呉服屋が来ると凝りに凝ってシャバ更紗の下着に茶縞の大島の二枚重ねとか青大島の対とか高価なものを普段着にしていた(私の足音が聞こえる)
・なんか色々濃い人ですが、私はこの人結構好きです。
・「明治16年10月27日生」(華族名鑑 明治40年版))

伊藤千代子

鳥尾の養女。
・「汝は予が姉君の不幸中の子なり」(鳥尾→千代子書簡/花園日誌)
・どちらの姉かは不明。が、多分次姉ではないかなと。
・小さい頃から鳥尾が育ててきたらしい。伊藤家に嫁ぐ。
・華族画報に敬孝氏の叔母として記載されています(過去記事:鳥尾家の備忘録色々

伊藤柳太郎

千代子の夫
・日露戦争関連でちょっとひっかかったのですが、あとはよく分かりません。

孫世代


鳥尾敬光

鳥尾の孫。父は鳥尾光、母は鳥尾知勢。
・明治43年7月~昭和24年6月(家督相続:明治44年6月)(華族大系)
・結構な地黒。クラスでも有名だった地黒。プレイボーイで大酒のみと学習院で評判だった(私の足音が聞える)
・背は高かったが、特別ハンサムでもなく、でも魅力的な人だった(私の足音が聞える)
・背が高いのは鳥尾の血かもしれない。
・4歳で子爵正五位という、まさに超セレブ。車を乗りまわし夜遊びする。
・でも体がやっぱり弱かったらしい。「それを心配して御医者の勧めで買ったのが、軽井沢の別荘だった。
軽井沢に行くのに、一列車買い切って行っていたとか聞かされた時には、本当に驚いてしまった」とはまさにセレブ。(私の足音が聞こえる)
・脳溢血で死亡。詳しい話はマダム回顧録で。(私の足音が聞える)

鳥尾多江

敬光の妻。鶴代とも。
・下條小四郎の長女。画家下條桂谷の孫。明治45年5月生まれ。
・超美人。マダム鳥尾とは彼女のことです。
・色々ありすぎるので詳細は回顧録を見てください(丸投げ)

井原孝子

鳥尾の孫。父は鳥尾光、母は鳥尾知勢。
・三井系の井原高親に嫁ぐ。 明治35年7月~昭和28年1月
・詳しいことは不明ですが、彼女の息子とマダムの息子(イトコ)は音楽界では有名らしい。

鳥尾照子

鳥尾の孫。父は鳥尾光、母は鳥尾知勢。
・幼少期に亡くなる。華族画報に写真あり。
・東京都護国寺の鳥尾家墓所の碑文に名前がみえる。

曾孫世代


鳥尾敬孝

鳥尾曾孫・昭和8年9月生まれ。父は鳥尾敬光、母は鳥尾多江。
・マダムと敬光の息子なだけあってセンスよさそう。
・曾祖母にあたるたいさんが溺愛していた(私の足音が聞える)
・今上天皇のご学友(私の足音が聞える)
・自伝が面白いので詳細は自伝を見てください(丸投げ)

その他


寺島大造
・鳥尾家家扶(家内の会計や事務を行う人)
・明治20年、明治27年の華族名鑑に名前が載っている。(過去記事:鳥尾家の備忘録色々

 

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鳥尾小弥太botについて 鳥尾小弥太botは、彼にまつわるあれこれを、奇兵隊日記や得庵全書などを元に小弥太自身が喋っているふうに呟いているbotです。 2021年7月26日時点では週に1回、水曜日(12時)に自動で呟き、時々手動でお喋り[…]