一時期は鳥尾の書生でもあった、川合清丸という人がいます。
この人が中心になって結成した、日本国教大道社より発行された『大道』(昭和13年6月号)という雑誌に、小弥太の娘、廣子さんが寄せている思い出話をご紹介します。
なお、今回は書籍通りにルビもふってみました。ruby要素に対応したブラウザでご覧いただくと、ルビがふられた状態で見ることが出来ます。(対応していないブラウザですと、()書きで表示されます)
父の思ひ出
鳥尾得庵居士長女 日野西廣子
一、思ひ出の教訓
私共は兄弟二人であつたが、弟光は性来病身で學校も休ませてあると言ふような具合であつた。しかし、私は幸ひに頗る丈夫だつたので、始終父の側に居て厳格な教育を受けた。
父は裏表の無い人で、家庭の者にも人様にお逢ひするのと同じような態度で、私共子供としては、まことにこわい父であつた、と言つても別に小言を云はれるのではなかつた。たゞ冗談一つ言ふではなく、何かと云ふと、言つて聞かせるばかりだつたので、父の前に出ると何時も戦々恟々としてゐたものである。
十七、八歳の頃、よく母と説教を聴きに参りました。して夜分就寝前機嫌伺ひに行くと、父は、きまつて型の如く
「今日はどう云ふお話しを聞いたか、何か判らない所はなかつたか?」
と聞かれるのであつた。
「ハイ、かう言ふ所がどう考へても判りませんでした。」
と答へると、
「そうか、それは何々のところにかう書いてある。誰々がかう説明してゐる。」
と云つて、一々、例を引きながら、十分に判るまで、諄々と説明してくださるのであつた。
子供の為めに熱心に教へて下さる―その父の面影は今でも目の前に見えるようである。
今日、何かにぶつかると、私はすぐ、
『あの時、父はかう教へて下さつたから、これはかうするのが正しいのである。」
と、父の教訓を憶ひ出して、その方針を定めることが始終である。それ丈け、父がこひしく、父の事が忘れられず父の在世中のことを思ひ出し、
『よくも父が慈愛を以つて言つて下さつた、よく教訓してくださつた。』
と、今更ら感謝してゐるやうな次第である。
父は私共子供にまで、非常に厳格であつたが、子供の為め随分心配して下さつたのである。
私が日野西家へ嫁し、京都の方へ参つてからは、父からよく手紙を頂いた。その頂いた手紙は、現在も尚大切に全部保存して居り、よく取り出して讀みかへして見るのですが、それには何時も教訓の書いて無いことはなかつた。必ず何か書いてあつた、これが本當の父の愛といふものだらうと、私は幾度眼頭を熱くさせたことか!
二、父と川合清丸先生
これは誰にも話したことのない逸話であるが、父の性行の一班と、また、父と川合清丸先生との関係が、これだけでもよく判ることゝ思ふから、思ひ出すまゝにお話しいたしたい。
私がまだ十二か、三の頃の、ある夏の夕のことであつた。伊豆山の別荘から熱海へ散歩に行つた。父と母と私と、川合清丸先生、それに男衆が一人伴をしてゐた。伊豆山から熱海までは約半里位ある。四方やまの話をしながらしばらく行つて、ふと振りかへると、伊豆山の方に火の手があがつてゐる。
「どうも火事らしいね。」
「本當に火事のようでございます。」
私共は留守にして来た別荘の事を心配してゐると、やがて、父は、はつきりと、
「しかし、あれは伊豆山ではあるまい、稲村だらう。」
と言はれた。よく方角を見きはめると、慥かに火事は伊豆山といふよりは稲村寄りだつたので、私共はそのまゝ熱海へ向つて歩き出した。
すると、向ふから慌わたゞしくかけて来た一人の男、
「あなた方は伊豆山からお出でですか?」
「ハイ、そうです。」
「私共は伊豆山に親戚があるのですが、火事は伊豆山でせうね?」
すると父は、親切な口調で、説明された。
『(※管理人注:原文ママ)私共は伊豆山から出て来ましたが、伊豆山を出る時にはまだ火の手があがつて居なかつたから、火事は伊豆山ではない、稲村でせう。」
「そうですか、それを聞いて安心いたしました。」
男は胸をなでおろした。それから、少し行くと、またあわたゞしく一人の男が駈けて来た。
「火事は伊豆山でせうか。」
父は又親切に教へるのだつた。
「私共は伊豆山から出て来ましたが、伊豆山を出る時にはまだ火の手があがつて居なかつたから、火事は伊豆山ではない、稲村でせう。」
また少し行くと、また一人の男がかけて来た。熱海から火事場へかけて行く途中で、一番最初に逢ふたのが私共だつたのであらう、その男も亦、
「火事は伊豆山でせうか」
と訪ねる。すると、父は又、先きと同じことを繰りかへして親切に教へるのだつた。
私は子供心に、父が何時も同じ返事をし、同じことばかり繰りかへすのが、おかしくてたまらず、
「お父さん、火事は伊豆山と違ひます、と云へばよいのに何故一つことばかり繰りかへすのですか、随分免倒ぢやありませんか。」
と申した。すると、父が言はれるには、
『(※管理人注:原文ママ)言ふものは同じだが、心配して訪る者は一人々々違ふ。だから、それに對して教へる時には親切に言つてやらねばならん。何人来ようと、最初と同じように教へてやるのが本當の人に對する眞實といふものである。」
と、さとされた。そこで、私は黙ると、私の手を引いてゐられた川合清丸先生がすぐに應へるが如くに言はれた。
「先生の言はれることは本當にそうです。かういふことは先生でなければ、到底出来ないことであります。しかし、先生が一々御返事なされるのは大變ですから、私が一足先きに参つて、先生のおつしやつたとほり、皆の者に説明してやりませう。」
それから、少し行くと、又一人の男があわたゞしく駈けつけた。
「火事は伊豆山でせうか?」
すると、今度は川合清丸先生が、父の代理になつて言はれた。
「私共は伊豆山から出て来ましたが、伊豆山を出る時にはまだ火の手があがつて居なかつたから、火事は伊豆山ではない、稲村でせう。」
その口調が餘りにも父の口調そつくりなので、子供の私はおかしくてたまらず、今にも笑ひ出しそうであつた。しかし、笑へば叱られるので、笑ふこともならず、苦しい思ひで笑ひを押へ、やつとの思ひで熱海へたどりついた。
父がどういふ人であつたか、また、川合清丸先生が父の気持ちをどれ程迄よく受けついでゐられたか―この一事でよく分ると思ふ。
三、父と統一學舎
父は人が見て居ようが居まいが、また、人が聞いて居ようが、とにかく、眞實の事を言つて居れば気持ちがよい、といふ風な性格だつた。
それ丈け一本調子で、思つたことは押し通す、考へた通りに何事も為し果たすといふのが常だつた。
統一學舎が發展し、更に躍進と見ようとしてゐた日露戦争直前のこと、ある日、父は母と私を呼んで言はれた。
「統一學舎で男の子は教育してゐるが、今日の状態を見ると、女の子も教育仕直さなければ駄目だ。就いては女子の學舎をこしらへるから、お前達、面倒を見て貰ひたい。」
すると母が、
「まだ統一學舎がどうなるか分らないのに、また女子の學舎をこしらへては、大變なことになりませう、廣子も子供を抱へてゐますし、まあ、四五年先きのことにしてはどうでございませう。」
と申されますと、父は大におこられた。
「四五年は待たれんぞ、それまで待つてゐると、曲るものは曲つてしまふ。家の事を言つて國家のことを考へぬものにはもう何も頼まぬ。」
それきり何も言はれない。そこで、私も心配になり、あらためて、熱海の別荘へ出かけて、お詫を申上げると、父も気嫌を直されて、
「そうか、やつてくれるか、それでは今に頼むぞ。」
とニッコリ微笑された。
やがて日露戦争となり、國事はまことに多事となつたので統一學舎女子部の計劃はそのまゝとなつてゐたのだが、ああ、三十八年四月十四日、遂ひに長逝されてしまつた。
四、盡きぬ思ひ出
父の憶ひ出は盡きる所がない、こひしい、なつかしいことばかりである。
それにつけても、父の思つてゐられた萬分の一でも、人の為め、世の為めに盡くすことが出来るならと、自分の気持ちの上丈けでも満足であると思ひ、今日、私はあちら、こちらに関係してゐる。併し女と生まれた悲しさで、何も出来ぬが、たゞ、父の教訓にそむかないで、身體の續くかぎり務めたいと思つてゐるやうな次第である。(完)
鳥尾の熱海の別荘は、熱海の来宮駅を降りた西山町のものが有名。
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この話で出てきている別荘は、もしかしたら鳥尾の没したと言われるその別荘ではないかもしれません。
グーグルマップさんを使わせていただきます。
現在、稲村という名前のバス停がある位置にマップピンを置きました。
左下の「第一小」の文字あたりが西山町と呼ばれるところで、鳥尾の別荘があった場所です。
熱海を目指して振り返るときに、伊豆山と稲村を見間違えそうになるためには、西山町の別荘だとありえないかなーと思いました。
どうなのかな…。
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