明治中期以降歴史ネタ

鳥尾小弥太と四将軍1ー谷干城遺稿(1)ー

概要

四将軍とは

鳥尾小弥太は、長州藩出身であったことから明治初期はいわゆる「長州閥」というグループに分類されます。
長州の中で倒幕の中心戦力となった奇兵隊員として戊辰戦争後も存命していた彼は、このために明治9年、28歳という若さで陸軍中将となりました。
しかし、内乱が終息し、明治政府がいざ国政へと歩み始めたあたりから、政治的見解の相違のためか徐々に陸軍主流派との溝を深めていってしまいます。戊辰戦争を経て、士族反乱の最後にして最大の西南戦争を終えたことで、ある種、新政府のなかで幕末から続いた一定の目標が達成されてしまい、彼らにとっての『共通の敵』がいなくなってしまったことで、それがより顕在化してきたのかもしれません。

こうした変化は鳥尾に限ったことではなく、同じように政府へ疑念を抱く人達が陸軍内には少なくありませんでした。
特に、鳥尾と同じ奇兵隊の出身である「三浦梧楼」、土佐藩出身で、西南の役で熊本鎮台司令長官を務め、熊本城での籠城戦を繰り広げた「谷干城」、現在の福岡県にあたる柳河藩出身で、西南の役では征討第四旅団長を務めた「曾我祐準」の三人と鳥尾を合わせた四人は、そうした人々の中心として捉えられ、俗に陸軍主流派に反対する勢力としての「四将軍」と呼ばれています。

この四将軍で実際に行動を起こしたのは、歴史の教科書でも登場する、明治十四年の政変のきっかけともなった黒田清隆(第二代総理大臣)の『開拓使官有物払下げ事件』に起因する、議会開設及び憲法制定を訴える建白書を出したくらいなのですが、その後も彼らの交流は続いていたようです。
というわけで、この四将軍にまつわる逸話やお話を取り上げていきたいと思います。

 

四将軍の簡単な紹介

少し先述しましたが、四将軍というのは鳥尾と三浦以外の谷さん、曾我さま(私は曾我さまと呼んでいるのでこのまま進めさせてもらいます…)と出身地も年齢層も実はバラバラなのです。
ここが少し面白いポイントなので、彼らが共同戦線をはった、明治十四年をベースとしてざっくり整理してみましょう。

こんな感じで、最年長の谷さんと、最年少の鳥尾は10歳以上も歳の差があるのですね。

谷さんは本当に「谷さん」と呼びたくなる人柄を感じる逸話が多々あり、曾我様はほんとに「曾我様…」としか言えない逸話が多々あるので、これもまたどこかで紹介できればと思います。
いやほんとに曾我さまの、幼少期の大正天皇とのお馬遊びエピは尊くて無理なのでおすすめです…。探したら公開されていたので貼っておきます。学生の頃に図書館で読んで声にならない気持ちでいました…。
(なのに遠泳指導で海に突き落としたりしている(と思われる)話があるのがまた…曾我さま…)

嗚呼大正天皇(杉謙二 編/四海社出版部) ー 国立国会図書館デジタルライブラリー
※p46~

谷干城遺稿 附録第一編 逸事及逸話

脱線しましたが、第一回目は、谷さんが亡くなった時に編纂された『谷干城遺稿』に収録されている、関係者が語った逸事および逸話をご紹介します。
原文は以下で公開されています。飛び飛びで抜粋して紹介するので、気になった方は国デジさんへどうぞ。

谷干城遺稿 下(島内登志衛 編/靖献社) ー 国立国会図書館デジタルライブラリー

上記に、附録資料として『逸事及逸話』が収録されています。
目次は以下の通り。
谷さんが亡くなったあとに新聞記事などで各関係者が述べたものを載録しており、初出が各逸話の最後に記されています。このため、同一人物が何度も語り手として登場し、肩書も微妙に違ったりしています。

第一 商人の勘違ひ(東郷英義)
第二 私は能く叱られた(竹馬の友 某将軍)
第三 嗚呼谷将軍(子爵曾我祐準)
第四 最後の訣別(伯爵樺山資紀)
第五 砲烟を見ざる前(大将樺山資紀)
第六 谷将軍の半面(平原海軍中佐)
第七 古武士の風あり(石黒男爵)
第八 清廉潔白の人(貴族院議員富田鐵之助)
第九 谷将軍の温情(興倉大佐夫人)
第十 友人としての谷子(曾我子爵)
第十一 粥を啜りて馬を屠る(中岡少将)
第十二 宛然古名将の風(大隈伯爵)
第十三 莫逆四十餘年(曾我子爵)
第十四 谷将軍の生涯(某談)
第十五 古い莫逆の友(三浦観樹将軍)
第十六 籠城の昔が偲ばれる(興倉未亡人)
第十七 惜しむべき人(枢密顧問官男爵 細川潤次郎)
第十八 謹厳なる谷将軍(貴族院議員 千頭清臣)
第十九 内助の功(医学博士弘田長)
第二十 精力無二の人(衆議院議員 柴四郎)
第二十一 清廉寡慾の人(柴四郎)
第二十二 至誠憂國の士(柏堂)
第二十三 将軍と暗中の明珠(編者) ※島内登志衛

このなかで、曾我さまと三浦のものを取り上げますが、曾我様の文量がかなり多かったため、別途記事を分け、後日あげたいと思います。
今回は、三浦と、そのほかの方の記事で一部気になったものを抜粋して紹介します。

 

第十五 古い莫逆の友(三浦観樹将軍)

谷将軍の莫逆の友三浦観樹将軍は、毎日谷邸に在りて、枕頭を離れず看護に盡し居れり、将軍は語るらく『谷と吾輩は回顧してみると随分縁が深いよ、始めお互ひに肝膽相照したのは彼の名高い黒田開拓使拂下事件ぢや、彼麼不正な事を黙過するといふのは奇怪ぢやといふので、死んだ鳥尾(得庵中将)に谷と曾我(子爵)それに吾輩の四人組が、大に侃諤の議論をやつて天下を驚かしたのぢや、之がまア民論の始めとでも言はるゝだらうよ、其後十年の西南の役で愈々縁が深くなつたね、鳥尾は中将で運輸總監といふ役目、谷は熊本鎮臺司令官で彼の苦戦をやつたし、吾輩は大阪鎮臺司令官で馬關に出張し、賊軍を衝いて谷と内外相呼應したという譯ぢや、开して大阪にゐた鳥尾と吾輩との間は死んだ三好(重臣中将)が聯絡をとつてゐたので、矢張谷と斯う三角に陣取りながら縁があつたのぢや、兎に角、谷とは古い間柄で开して一人が節を變じたといふ事もなく、今日までやつて来たのは、よく/\縁ガ深かつたと見える、其縁の深い男が若し亡くなつて了へば、片腕が飛んだやうな氣がするわい』と将軍の眼底涙あり。
(明治四四、四、一六東京日々)
(p1098)

「縁があつたのぢや、兎に角、谷とは古い間柄で开して一人が節を變じたといふ事もなく、今日までやつて来たのは、よく/\縁ガ深かつたと見える」は、昨今話題の 進次郎構文かな… と思いました。
(なお、時事だと46%が話題ですが、某所で、意味わからんけど意味わからんゆえに46%という数字を誰もが覚えたので、策略では…というのを見かけて、そうであっても無くても怖いと思いましたとさ。お父さんもインパクト大だったのであそこは代々専属コピーライターがいるのではないか…)

三浦が語り部だとわかりやすいので意訳の必要が無くてすごい助かる~!と思っているのですが、今回読み方が分からない感じが頻出してちょっと焦りました。「开」が「其」の異体字だと知った。前にどこかで出てきたかもしれないけどそうであっても忘れているのでもぅボロボロです。

谷さんと縁が深いアピールをめちゃめちゃしていて微笑ましいのですが、破天荒にみえる三浦も鳥尾が存命の頃は鳥尾にかなり振り回されていて、谷さんと険悪なムードになった鳥尾との間を取りもったりしているので(過去記事)、その辺の二人にしか分からない気苦労の歴史がそこはかとなく感じられます。
三好重臣は、この人も奇兵隊出身の1840年生まれなので、三浦や鳥尾よりも5つ以上年上の方ですね。西南の役では征討第二旅団司令長官を務めており、この関係の話だろうと思います。鳥尾はこの時京都・大阪を行き来して武器弾薬などの調整を一手に担っていましたが、熊本城の硬直する戦況に、「桶狭間をやっつけよう」の作戦をたてて却下になってしまった逸話が好きです。(岡本柳之助 「風雲回顧録」に収録されています)
※2021/05/05 追記:岡本氏の名前を田中光顕氏と誤って記載していたので修正。

風雲回顧録(岡本柳之助/武侠世界社) ー 国立国会図書館デジタルライブラリー
※27/177 あたりから

その他の気になった部分

読んでいて面白かった二か所を抜粋。

第五 砲烟を見ざる前(大将樺山資紀)
卽ち何うしても、西郷が足を擧げねばならぬだらうと思うた、私が二十五日に、陸軍省に出てゐると、山縣から、熊本に何か事變があつた様だから、直に立てと言はれて、行つて見ると、大山も軍艦で先に着いてゐたが、熊本には未だ何事もない、久留米の電信局から、熊本に事變があつた様だと、言つて来たから出懸けたのである。
神風連は熊本鎮臺の司令長官、参謀長等を殺し、火を放けて退却し、自ら腹を切つて死し、一時の暴動に止まつたが、大山や私は、その鎮定後に着いたのである。其處へ谷は、愈々熊本の司令長官を命ぜられ、私は参謀長を命ぜられたが、熊本の兵は士氣全く沮喪し、恰も富士川の千鳥の如きものであつた、夜間には犬でも通ると、神風連が發銃したのぢやないかと畏れる。かく人心洶々たる處に、熊本の人民は、又鎮臺を軽蔑して、クソチンクソチンと云ふ、提灯を見ると、クソチンの提灯と云ひ囃し、子供迄か乗馬の尻を青竹で打つ始末で、全く糞鎮臺と誹られてゐた。
(p1077)

樺山資紀は、薩摩出身で、西南の役では谷さんの下で熊本鎮台の参謀長として勤めていた人物です。
のちに、長州が陸軍、薩摩は海軍へと別れていくことから、晩年は海軍大将にまで登りつめた人物ですが、回想では「クソチン」と熊本の人に罵られるほど士気の下がっていた鎮台だったのに、あれだけの籠城戦を行ったということで谷さんを非常に労っているのが読み取れます。
あんまりこういう話をしたがらない人が多いと思うのですが、それでもこうやっていうあたり、誇張じゃなくてほんとにひどかったんだろうな…と思いました…クソチン(糞鎮台)て…。
すごいどうでもいいのですが、私の中で樺山さんと伊地知(正治)がいつも混在しがちです。なんか取り違えてしまう…。

 

第六 谷将軍の半面(平原海軍中佐)
明治十一年陸軍中将に陞進された時の如き、當時中将になつたのは他に山田顕義氏があつた計り位の事とて、其名勢は素晴らしいものであつたが、将軍は謙抑身を持し、市ヶ谷のお麁末な邸宅に起臥して、後進子弟の為めに漢學を講じられて居られた
(p1082)

これ見て、「うぉーい!!三浦もなってるよーーー!!」とちょっと笑ったので抜いておきます。
熊本鎮台そうだね別働第二だね、と思うので、たぶん熊本城関連の若手(?)の方々の戦勝後の印象としては山田のほうがインパクト大きかったのでしょう。。。

関連書籍

曾我様の本は買ってから積読になってしまっているので今年こそ読みたい。
谷さんのほうはまだ買えていないのですが、電子書籍になっているので手軽に読めてよさそう(現物は本屋でみたら結構分厚い新書だったので)。でも紙媒体が欲しいな…。

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