鳥尾小弥太と三浦梧楼は、長州藩奇兵隊出身で、年も近く当時から晩年まで交友がありました。そんな二人に関する逸話などをご紹介。今回は「名流百話」より、「鳥尾将軍、遺子を三浦中将に託す」を。
名流百話は、国立国会図書館の「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧できます。
鳥尾将軍、遺子を三浦中将に託す
○鳥尾将軍、遺子を三浦中将に託す
陸軍中将鳥尾小弥太、三浦梧樓と共に同輩の間に鳴る、而も各その気質の相異なる所あるを以て、互いに相反目して嘗て親交をなさず、恰も犬と猿の如し、鳥尾臨終に際し、使を派して三浦に面會を求む、三浦往く、鳥尾病床に跪坐して曰く、『天下の廣き、兄を措きて我が子孫を託すべきの人なし、希くは兄夫れ我が子孫の為めに計れ』と、三浦其意を領し、看護丁寧、鳥尾の没後其遺言を守り、子孫の為めに盡すこと少からず。
p87-88鳥尾将軍、遺子を三浦中将に託す – 国立国会図書館デジタルコレクション
意訳
陸軍中将の鳥尾小弥太は、三浦梧楼と共に同輩の間では名を知られていた。しかもその気質が異なっているところがあり、互いに反目して今まで親しくなく、あたかも犬と猿のようであった。
鳥尾はその臨終に際し、使いを出して三浦に面会を求めた。
三浦がやって来て、鳥尾の病床に座ると鳥尾は言った。
「世の中は広いが、貴方以外に私の子孫を託すべき人はいない。どうか私の子孫のために計らってほしい」
三浦はその言葉を聴きいれ、鳥尾の没後その遺言を守り、彼の子孫のために尽くすことは少なくなかった。
三浦と鳥尾家
「嘗て親交をなさず」は解釈の度合いにもよるのでしょうが、若干盛っている部分があるのではないかなぁ、と思いました。
奇兵隊からの付き合いの二人は、明治陸軍でも、陸軍主流派に反対する勢力の筆頭「四将軍」としても活動を共にしていました。が、その後意見の相違から長い間交流が途絶えてます。この時代のことを指しているのでしょう。
独自の道を歩み始める鳥尾に対し、三浦は「彼の男は旧来の友人なれ共兎角独智に任せ熟談の出来ぬ性来」(谷干城遺稿)と、四将軍の一人谷干城に述べるほどでした。(観樹将軍回顧録でも、鳥尾に話を聞かせるために色々やってましたねそういえば…)
年を経るにつけ、全く違う人脈を築いていった二人ですが、鳥尾が最後に頼ったのは、そんな旧友の三浦でした。遺言を守る、とあるように事実三浦は鳥尾家を自分が亡くなるまで影で支えていたようです。
鳥尾の孫にあたる鳥尾敬光の妻である、マダム鳥尾こと鳥尾多江氏の回顧録で、こんな話が出てきます。
実は鳥尾家には後見人のような人物がいたのだ。私が嫁ぐ少し前に亡くなったらしい。その人が鳥尾家を守っていたというか、牛耳っていたといったほうがいいのか―すべてをまかせていたらしい。おじ様という言葉を何回も聞いたが、どういうおじ様か、今だに私にはわからない。その人は皆に贅沢三昧させた上に、自分も事業に手を出し、失敗に失敗を重ね、勧業銀行から大枚のお金を借りていた。
鳥尾多江『私の足音が聞える』 p90
この後見人というのが、おそらく三浦だろうと思われます。
マダムが結婚したのが昭和7年(1932)で、三浦が亡くなったのが大正15年(1926年)。マダムの「少し」がどのくらい少しなのか分からないですが、これを見た当時、三浦好きの近代史専攻の方から、「鳥尾に援助をしていたかは分からないけど、(三浦が事業をしたような)そういう話がある」とのこと。詳細はナイーブな感じなので公開資料出てくるか、もういいだろう…ってなった時まで伏せておきますが、色々伺った結果、私のなかでは完全に「おじ様」=三浦だと思っています。
別に三浦が事業に失敗したわけではないようなんですが、逆に三浦が没したことで、鳥尾家の家計をコントロールする人がいなくなってしまったんじゃないかなぁと個人的に思います。それはさておき、三浦は鳥尾との約束を守っていたわけですね。
かつて鳥尾も、同じ奇兵隊の出身である山城屋和助が亡くなったときに、その家族を助けている話があります。奇兵隊のよしみなのか長州藩人の気質なのか、同郷の人にはとにかく義理深い。(過去記事:【逸話】鳥尾小弥太と山城屋事件)
三浦と山縣
三浦は他にも、奇兵隊時代の知り合いの子どもを引き取って寄宿させていたり、色々お世話焼いてる話があるのですが、鳥尾と同系列でいくならこれ。
山県有朋の遺嘱
我輩と山縣とは、政事上の意見は、氷炭相容れざるものがあつたが、私交上の関係は、膠漆も啻ならぬものがあつた。
山県の死んだのは、大正十一年二月一日であつたが、我輩はその前々日此熱海から大雪を冒して、見舞に出かけた。其時、丁度松方も往つて居られた。固より誰にも會はせぬ。我輩も何うせ会はれはせぬと思つて居つたが、取次のものが、
「アナタがお出でになつたことを申上げたら、チョッと呼んで呉れと申されました。どうぞコチラへ」
と言うのだ。
「左様か、往つても好いかイ、」
と言ひながら、病床へ通ると、山縣はズッと手を出して、
「後を頼む」
と言ひながら、シッカリ手を握つた、我輩は
「随分若い、六十二になるぜ、君を知つてから。」
と言うと、ハッハと笑つたが、又
「後の事を。」
と言ふから、
「屹度引受けたよ。」
と答へた、ソレから何か言はうとするが、痰が引つ掛つて、聲が能く出ぬ。女中の通辯で、何やら言い掛けたが、引き切りなしに痰が引つ掛つて、如何にもその容子が苦しさうだ、我輩は、
「止めた方が好からう、餘り苦しさうだから。」
と言つて、止めた、見受ける所、其容體も思つた程、悪くはないやうだ。
「外向きは中々好いやうだ。一種強い所があるから、時候も段々好くなつて來ると、一陽来復の時があるだらうぜ、ソレは以前の通りと云ふことは出来まいが、ナニ、病床の人でも好いからナ」
と言ふと、またハッハと笑つて居た、長居は好くあるまいと思つて、病室を辞したが、此れが永訣であつたのだ、松方も會つたと見えて、
「大層丈夫だナ。」
と言つて居つたが、終に一陽来復の期も来なかつたのは、甚だ遺憾だ。
我輩に後事を委託する積りと見えて、我輩を病床に延くのみならず、手を出して、シッカリ握りながら、後を頼むと言つたものだ、我輩が老躯を提げて国家に盡さんと欲するものも、亦た故人の遺嘱に答ふる所以の道である。熊田葦城 編『観樹将軍縦横談』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
鳥尾と山県、この二人が最後に選んだのが三浦だったあたり、彼がどんな人であったかを示していると思うのですが、個人的に鳥尾が託したのが「家族」で、山県が託したのが「後事」であったことが面白いなぁと思いました。
ここの三人はなんだかんだで腐れ縁的な感じで、明治初期頃は、山県が要職につくと必ず手足になるところにこの二人が配置されたりしていたのが印象深いです。
ある本では、明治時代の変人は鳥尾、大正時代の変人は三浦なんて言われていましたが、そんなの二人が聞いたらあの世で押し付け合いしそうだなぁ…。
*2015/01/12 追記*
東京朝日新聞の明治44年6月3日版で、7面に鳥尾光氏の葬儀の知らせがでています。ここに親戚として三浦の名前が出ているので、これはもう、叔父様確定でいいでしょう。
従四位子爵鳥尾光儀
永々病気の處療養不相叶昨一日卒去致候間此段辱知諸君へ勤告候也
追て来四日午後一時自邸出棺音羽護国寺に於て佛葬式執行仕候
明治四十四年六月二日
嗣子 鳥尾敬光
親戚 日野西資博
酒巻敬之助
中村 凞静
三輪 清吉
河原 丑輔
子爵 三浦 梧楼
日野西は光氏の姉、廣子さんの夫。酒巻は光氏の妻、知勢さんの父。
中村は、多分地図測量でヒットする農務省地質局地形課の中村凞静氏だと思うのですが、関係不明。おそらく小弥太の元本姓である中村家の方だと思います。三輪は、光の父、鳥尾小弥太の長姉の嫁ぎ先の三輪家と思われます。
河原は不明…。この流れだと、小弥太の次姉の嫁ぎ先?同姓同名で同時代の人物として、「浮塵子駆除予防速記」なるものを出版されている方がいましたが…。
中村凞静氏が個人的に気になるので機会があったら調べてみます。迅速図のドイツ式VSフランス式の話が大学時代に講義で聞いていて、「山縣VS山田…!!!」とテンションがあがりました。なつかしいなー。
*2016/12/17 追記*
三輪さんについて、王法論(明治16年版)の校正者として奥付に名前が載っているものをみました。これによれば、「甥」と書かれているので、長姉の子どもとみられます。
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