【新潟】胞姫神社はロマンがいっぱい(新潟県柏崎市)

気づけばもう10年近く前になりますが、大学の入試(AO)でレポート提出があり、その頃は中世史に興味があったので、中世史テーマを色々考えて最終的に「新潟県内に残る義経伝承」をまとめました。その後勉強するにつれ、見返すとなんて自由研究みたいなレポートだよ…!とこっ恥ずかしいばかりなのですが、調べている最中はすごく楽しかったし、入試ということもあってすごく思い出深く、今でもその時調べたことに関するネタを見かけると気になってしまいます。

というわけで、今回はそんな思い出の一つ「胞姫神社」について、今までちょこちょこ調べてきたことなどの備忘録。

*2014/9/28 追記*
本ブログにこの記事目当てで来られている方が多いようなので、先頭に「胞姫神社について」と、末尾に「おまけ」を追加しました。写真はすべて当時(10年ほど前)のものになります。今もそんなに変わってません。

胞姫神社(よなひめ)について



胞姫神社拝殿

胞姫神社(よなひめじんじゃ)は、新潟県の中央よりちょっと南、柏崎市にある神社です。
安産の神様として地元には知られ、今でも月次祭(毎月1日、15日)等、安産を願う妊婦さん等が訪れます。ちなみに私もこちらで安産祈願して産まれました。
宮司さんなどは常駐していません。私が訪れた当時は、お隣上越市柿崎区の円田神社の宮司さんが兼任しておられまして、当日は区長さんがたまたま中にいらっしゃいました。


入口の案内板。


雨上がりに行ったらすごく汚くなってました…(笑)クリックで大きくなります。


入口


演技


クリックで拡大できます。


入口の左に進むと、こんな道。ガードレールとかが無いので、ちょっと怖い。

階段を上りおえると、もうちょっと歩きます。(1分かからない)

右手に階段がみえるので、ここを登ればすぐ拝殿が見えます。階段は急なのでご注意。

入ってすぐ左手に手水舎。行った日はお水出ていませんでした。

手水舎の右手にある摂社様たち。

右手にあるご神木。

 

胞姫神社と義経


この神社が安産の神様として信仰されているのは、以下のような義経の伝承が残されているためです。

文治二年、義経一行は直江津から海路奥州へ下向の際、嵐にあってやむなく当地へ上陸。この時、義経の奥方である北の方が産気づき、仮の産所を設けて亀若丸を出産した。同行の弁慶は、無事出産の礼に当地鎮主境内に亀若丸の胞衣を納め、あわせて源氏の氏神である諏訪・八幡の両神を祭った。産所跡の亀割坂、弁慶が金剛杖で突いて湧き出させた弁慶の産清水などが残る。国道八号線ができるまでは坂も使用され、坂近くには「弁慶の力餅」を売る茶屋が建ち並んでいた。茶屋では旅人に胞姫伝承の書かれた巻物を読み聞かせていたという。
※入試の私のレポートより…

明治以降~昭和初期と思われる古写真が、柏崎市立図書館(ソフィアセンター)の「小竹コレクション絵葉書」に収蔵されています。

柏崎市立図書館(ソフィアセンター)
※郷土資料 > 郷土のことを調べる > 小竹コレクション絵はがき > 柏崎 >
[町並み] ・(北越名所)亀若丸誕生屋敷及ビ上輪ヲ望ム [図書館整理番号 5540] [哲学・宗教] ・(北越名所)胞姫神社全景 [図書館整理番号 5533] ・(北越名所)胞姫神社拝殿 [図書館整理番号 5535] ・(北越名所)胞姫神社々殿内 [図書館整理番号 5536] ・(北越名所)胞姫神社一之鳥居 [図書館整理番号 5537] [交通] ・(北越名勝)胞衣姫神社麓の茶屋  TEA-HOUSE AT YONAHIME SHRINE. [図書館整理番号 5541] ※柏崎の情報「陽だまり」 では、2004年当時の「弁慶茶屋」の写真が載っています。

当時地元の方に伺ったら、国道八号線ができるまでは、旧な坂道や階段を上って参拝する必要があったため、かなり大変だったということ。神社の縁起では、お産に苦しむ北の方に弁慶が力餅をあげたところ、無事出産できたということで、神社の沿道ではこれにあやかった「力餅」を売ったりする茶屋が軒を連ねていたそうです。
しかしお産の最中に餅なんぞ食べたら詰まっちゃうんじゃないかと思うんですが…弁慶…。

 

これが伝・弁慶の産清水。
明治天皇が北陸巡幸の際立寄ったため、立派な碑ができています。
写真の右上端に映ってる山が、胞姫神社のある山です。遠い!

当時は、「水は沸いてるけど全く使ってない」(by地元の方)ということでした。
産清水は、現在の胞姫神社からはちょっと離れたところ(国道の反対側の集落内)にあります。
最初分からなくて、胞姫側の山の下をウロウロしてました…。

ウロウロしていた地点から撮った、胞姫大橋。

ウロウロしていた地点から撮った、胞姫神社。(横から見た図)
胞姫神社の裏手は採石場(砂?)になっているので、神社のところだけ植生が違うのがよく分かります。

もう一人の「亀若丸」


ところで、義経記という物語本を読んだことがある方はご存知だと思いますが、義経一行が奥州平泉へ落ち延びていく途中、奥方が出産したとされる場所が胞姫神社以外にもあります。
場所は、山形県最上町の瀬見温泉

最上町
※>トップページ > 施設・まち案内 > 歴史・自然・観光 > 瀬見温泉

上記観光案内でもあるように、義経記で登場するのは、こちらです。このため、「亀若丸」といえば、最上のほうがメジャーというか、一般的。
でもそもそも義経記とは、義経が生きた時代より後、室町時代になってから作られた、今でいうあくまで「小説」であり100%史実ではないわけで、一概に胞姫神社の伝承が作り話ともいえません。
また、当時の記録書、『吾妻鏡』によれば、文治3(1187)年2月には義経が奥州へ落ち延びたらしい、という情報が京都へ伝わってきているので、少なくともこれより前の時期に奥州には入っていたと考えられます。

しかしそうすると、亀若丸の出生時期が、

・義経記(最上):文治3年旧4月8日
・胞姫:不明(縁起では文治二年弥生の末に義経一行の落ち延びが開始された、とある)
※胞姫は縁起自体が江戸時代末の作成のため、吾妻鏡等歴史書を参照して記述されたっぽい

となっており、最上は遅いし、胞姫は不明…。
ちなみに現在はどちらも場所も安産の神様となっていますが、産まれた「亀若丸」の名前の由来が異なります。

・義経記(最上):当初から亀割山 ⇒ 亀割山で出産したため、子は亀若丸と命名
・胞姫神社:出産した子どもを亀若丸と命名 ⇒ そこから亀割山とこの山を呼ぶ

義経記の亀割山から亀若丸は「割」より「若」のほうが縁起が良いからわかるけど、胞姫の場合、亀若丸にちなむなら「亀若山」でよくないか?と思っちゃいます。

また、「亀割山」は、胞姫神社のある上輪新田地区で、レポート作成当時、区長さん(当時)にお話を伺ったところ、区長さんの知る限りでそのようにこの山を呼んでいた事は無い、とのことでした。胞姫神社の背後にある山は「旗持山(城山)」と呼ばれる山で、慶長二年越後国郡絵図にもその名前が見えますが、この史料にも亀割山の呼称はありません。
縁起の作成された江戸後期から、昭和前期頃までの史料を確認していないので断定はできませんが、仮に亀割山と呼称されていた期間があるとしたら、天保3年前後から昭和初期と推測しています。

一方、神社入り口に設置されている案内板には、縁起には出てこない「亀割坂」という名前が登場しますが、この坂は、レポート作成時に現地を訪れた際地元の方にお聞きしたところ、存在が確認できました。

当時撮影した亀割坂の旧登り口。

現在は国道八号線と上輪大橋、胞姫大橋がかかっていますが、橋が整備される昭和40年以前は、そこにあった「亀割坂」を使って神社の方へあがっていった、ということでした。神社へ向かう途中に田圃や畑が坂沿いにあったため、この坂は地元の方にとっては参道兼農道だったようです。このため、「亀割坂」という呼称は、近年(現在も一応)まで確かに存在していた、ということになるでしょう。
伝承や縁起に沿うならば、この坂も「亀割山」と呼ばれるようになった以降に名づけられた、と考えられますが、坂のみ呼称が残ったのは(昔は亀割山も呼ばれていたという前提で)、こうした日常的に住民が利用する場所であったことが関係しているのかもしれません。

しかし、なんだか釈然としない…。そもそも、「亀若丸」(男)なのに、胞「姫」神社…。
ここで一旦、義経の伝承を切り離し、「胞姫神社」自体のことを、少し考察してみましょう。

神様からみる胞姫神社


胞姫神社の御祭神は、

・主神:息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)※神功皇后
・配神:誉田別命(ほんだわきのみこと)※応神天皇
・高龗神(たかおかみのかみ)
・建御名方命(たけみなかたのみこと)

の四柱であらせられます。
神功皇后は、第15代応神天皇のお母さんにあたり、応神天皇をお腹に宿したまま三韓征伐を行い、その凱旋後に無事出産したことから、安産祈願の神様として祀られています。
高龗神は、最近パワースポットとしても有名な京都貴船神社のご祭神で、古来雨乞いの神様として信仰されてきました。正式には、「クラオカミノカミ」という神様とセット(同一視)されているのですが、

神名から判断すれば、タカオカミ神の「高」は、高い山の峰にあって雨をつかさどる神霊。つまり高い天空で発生して雨をもたらす神として山神・雷神の性格を基本としている
『八百万の神々~日本の神霊たちのプロフィール~』戸部民夫 p174

といわれます。
胞姫神社の立地を考えると、高龗神は納得です。また入浴等、水に絡む祭神でもあるため、出産に必要な産湯にも関係あるのだろうな、と推測しています。
最後の建御名方命は、長野県諏訪大社のご祭神。元は狩猟神(山の神の一種)、諏訪湖に宿る竜神(水の神)でしたが、鎌倉時代以降西の八幡神と並び、軍神として信仰されるようになります。
前者の性格は、高龗神と同じ、胞姫神社の立地的なものを感じますが、後者は源氏との繋がりを感じさせます。そもそも、応神天皇が八幡神と捉えられており、応神天皇については神功皇后との親子関係というよりも、こちらの関係で祀られているような気がします(一説に、八幡神の紋(巴紋)は渦巻き=水で、水の神としての属性も持つともいわれる)。

なんだか神様をみただけでも、やっぱりちょっと源氏と関係あるのかしら?と思っちゃいますね。
おそらく最初は高龗神を中心として、取水源でもあり、山の神としての性格をもつ地主神が祀られており、その後義経の影響があったかは分かりませんが、安産の神様が合祀され、義経の伝承もあいまって誉田別命(応神天皇)も祀られるようになった、のではないかなと思います。

でもまだ「亀若丸」から「亀割山」、男の子なのに「胞'姫'」の謎が解けませんね。今度は、「胞姫」というこの社名自体を考えてみたいと思います。

胞姫の意味から考える


「胞姫」は、縁起では

是より南に當り胞(へそ)を納めたてまつる胞姫大明神とそんたい致し當所の鎮守となし奉る

とあり、つまり「胞衣」(えな)のことだということが分かります。広辞苑によれば「胎児を包んだ膜と胎盤」。分娩の第三期(後産)に、子宮を離れた胎盤が卵膜とともに娩出されますが、昔はこれを、生まれてきたもう一人の子どもとも考えて、丁重に埋葬(奉納)する儀式が行われていました。

とはいうものの、「それがなんじゃい!」と分からぬまま数年が経ってこのことをすっかり忘れかけていたあるとき、偶然に『心意と信仰の民俗学』という本を見て、突破口が開けました。

通常は分娩後しばらくすると胞衣が娩出されるのだが、胞衣がなかなか下りて来ないときは古くからさまざまな呪法が行われてきた。屋根の棟から甑を落として割る呪法もその一つで、平安時代から鎌倉時代にかけてよく行われたものらしい。

『心意と信仰の民俗学』「胞衣のフォークロア―胞衣の境界線―」飯島吉晴 p241

甑(こしき)とは、米などを蒸すための土器で、これを難産のときに落として割る、という呪法があったということです。これについては、「胞衣のフォークロア」も引用している『胞衣の生命』(中村禎里)という書籍に詳しく載っています。
中村氏によれば、義経たちと時代が近い崇徳帝の出生時などもこうした呪法が用いられ、甑あるいは壺や甕といった土器を屋根から落として、安産を願うことが貴族(のち庶民)の間で行われていたとされています。

これをみて、もしかして「亀割」の「亀」は「甕割り」からきているんではなかろうか?というのが私の今の段階での推測です。
出産時に行われていた呪法にちなむ「亀割(甕割り)」、中世~近世に広く行われていた「胞衣」の埋葬(奉納)と胞衣信仰、今に繋がる安産の神様としてのルーツが見えてきたような気がします。
おそらく、最上のほうの「亀割山」も、同じ語源になるのではないかと思います。

そして、アイヌ語地名を以前ググっていた際に、「亀割坂」はアイヌ語で「神々の産所」(kamuy uwary)、または神々産所の丘(山)(kamuy・uwary・san・ke)という解釈をお見かけして、アイヌでもこの言葉に対しては出産に対する意味合いがあるなんて…と感慨深くなりました。

*2016/12/17*
アイヌ語地名でリンクを貼っていたサイト様が閉鎖されていたため、こちらのお話しは出典元不明です。

結局胞姫って?


というわけで、おそらく胞姫神社の由来というのは、「元々自然神(水・山)の性格を持つ地主神だったものが、なんらかの要因で出産に関わる神となり、義経の奥州落ちの伝承を受けて、北の方のお産の伝承の地、となっていった」のではないかと。

もちろん、義経がここを本当に訪れて、北の方が出産した可能性も私はゼロじゃないんじゃないかなーと思っています。「亀割」の語源が「甕割り」だとした場合、「甕」(土器)を割る風習というのは平安時代頃、貴族層に多かったもので、それがもしかしたら奥州くだりの際、義経(都の人)が持ち込んだものなんじゃないかなーとか考えてしまいます。(京都には義経自身の胞衣塚といわれるものもあったりします)

あと結局「姫」の意味合いが分からずじまいなのですが、出産した方が姫(高貴な方)なのか、産まれた赤子が「姫」(女の子)だったのか、そういうのに関係しているのでしょうかね…。義経が奥州で最期を迎えた際、つれていた子どもは女の子(4歳程)といわれていますので、もしかしたら本当にこの姫なのではないかなぁとか妄想が止まりません。その場合はきっと「亀若丸」は義経記を参照して名前をだしたのでしょうね。

出産時の呪法をもうちょっと詳しく調べたり、新潟県内の胞衣埋葬の風習を調べてみたいですね!
ちなみに胞姫神社の縁起、「胞姫神社社記(義経公北御産所伝記)」は、胞姫神社で頂けます。
歴史ロマンを感じつつ、参拝するのもおすすめです。

2021/08/26 追記
高龗神ですが、越後佐渡デジタルライブラリーで公開されている神社明細帳を確認したところ、元は独立した貴船神社があったようです。それを胞姫神社に合祀したと、明治41(1908)年12月14日に明細帳を更新した方の元に情報がきたようです。
このため、胞姫神社の元々のご祭神は下記の三柱でありました。

・主神:息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)※神功皇后
・配神:誉田別命(ほんだわきのみこと)※応神天皇
・建御名方命(たけみなかたのみこと)

土地条件に沿った神さまが分離されたことで、スッキリしました!
さらに、由来としてはいつのころかは不明ですが、筑前国筥崎より勧進したとのこと。
筑前国とは、現在の福岡県のあたりです。
そしてそして、筥崎の神社といえば…そう、日本三大八幡宮の一つ、「筥崎八幡宮」ですね!

福岡の神社 日本三大八幡 筥崎宮では厄祓い、必勝祈願、初宮参り、七五三など各種ご祈願、神前結婚式を行っております。四季を…

こちらのご祭神は、下記の三柱。
これは勧進されたとみて間違いないでしょう。

・主神:応神天皇
・配神:神功皇后
・玉依姫

玉依姫は、京都の貴船神社の由緒をみると創建に関わる神さまですが、龍神を束ねる役割を持っていたりそのほか色々神社をみていくとよくお見掛けする興味深い方なので、また別途。

方言周圏説よろしく、九州と新潟や東北にはよく似た言葉や地名が散見されます。
こうして追ってきてみると、やはり京都から、または九州から、平安時代よりも前にこの地にやってきた人々が、胞姫神社を建てたのでしょう。
まだまだ考察しなければいけないところはたくさんあるのですが、二十年近く頭の隅にあったこの神社の形がようやくつかめたような気がします。
明細帳めちゃめちゃ面白いので、幕末維新の仕掛っている記事の作業が終わったら、これも翻刻したいと思います。付箋になっちゃっているやつは原本見に行かないと気になってしまってしょうがないけど、本当に図書館と公文書の方デジタル化してくださってありがとうございます。

※胞姫の明細帳は下記です。

資料種別:明細帳
請求番号:25-1
( 現市町村名 ) 柏崎市 上越市 ( 旧市町村名 ) 柏崎市 大潟町 柿崎
整理番号:371

参考書籍


おまけ

当時のレポートの資料。
義経記に出てくる奥州下りのルートと、県内に残る伝承地を並べました。義経記に出てこない伝承地(胞姫神社、奥只見など)の伝承は「いったいどうして?」という感じでとても面白いものばかりです。
※クリックで大きくなります。


 

当時ワープロで作っていたのですが、「21以降、囲ってる○が変換しても出てこない!どうすればいいの!?」と中身と全然違うところで焦り、結局手書きで「○」を付け足して提出したのがいい思い出です。
しかし…提出物だというのに10年経っても変わらないこの雑さ加減…。

*2012/08/15 追記*
上越寺町の一角にある「妙国寺」も、安産のご利益があるとかで「よなひめさん」と呼ばれているそうな。こちらはひらがな表記のみなのか・・・と思って調べたら、なんとここも「義経」伝承を謳っているらしい。年中行事として6月1日に「胞姫尊天祭」があるそうな。なにそれちょっと見てみたい。
でもどうやら、柏崎の妙泉寺も日蓮宗なので、妙国寺が祭っているのはこの関係っぽいなぁとか。妙泉寺には「胞姫尊天像」が祭られており、のちに新潟市内の妙泰寺(日蓮宗)にも分霊されているんですよね。上で、神社の「胞姫」という名前について、義経の奥方の「姫」か、生まれた子(女の子)の「姫」にちなんでるんではないか的な見方をしてますが、これだけみると、「胞姫」というのは神様の名称にちなんでいるということですよね。ただ、まだちょっと胞姫神社と日蓮宗との関係がよく分かっていないのでなんとも…。こうやって史料がないときはどんどん歴史というより民俗学・宗教学っぽいところへ脱線していくんですな…。ところで、柏崎市立博物館館報の2010年度号に、「亀割坂「弁慶茶屋」考 ―安産・胞姫信仰を普及した茶屋の盛衰―」(渡邉三四一)が収録されているのだそうな。読みたい。柏崎市立博物館てどこよと思ってぐぐったら、赤坂山のところなんですね!名前全然知らなかった。