上越新潟ネタ

【旅行記】楞厳寺に行ってきました。~2014年5月~

概要

GWは新潟県上越市にある、「楞厳寺」に行ってきました!楞厳寺は上杉円謙信の四天王の一人、柿崎景家の菩提寺でもあります。

*2014/7/13 追記*
本文中、右と左を間違えている箇所があったので修正しました。お茶碗持つ方が左だと教えられてきたはずなのに、四半世紀経ってもよく間違えます…。

楞厳寺について

新潟県上越市柿崎区芋島にある楞厳寺(りょうごんじ)は曹洞宗の寺院。山号は「大佛山」。
戦国時代にこの地域を治めていた柿崎景家が、上杉謙信の教育係であった名僧「天室光育」(てんしつこういく)を初代の住職に招いて1534(天文3)年開山しました。しかし、光育は「相州小田原最乗寺住職林泉寺中興二世龍室元光老師を開山とし、恩師傳芝老師を二世とし自ら三世となった」(柿崎町史(昭和13年))ということなので、楞厳寺三世となっています。

柿崎景家の寄進による10町余りの山林は一時官有となりましたが、明治23年に寺領に復しているそうです。
楞厳寺の山門は、楞厳寺建立時の柿崎城(柿崎景家の居城)の搦手門を移築したと伝えられており、2011(平成23)年、本堂と合わせて国の登録有形文化財(建造物)として登録されています。このデータをみると、現在の山門の建立年代は江戸時代中期で、1736(元文1)年に改修がなされたようです。本堂も同じく江戸時代中期で、1957(昭和32)年、2008(平成20)年に改修が行われています。

国指定文化財データベース - 文化庁

BSN新潟放送の「新潟名刹紀行」によれば、寺宝は「厨子入り十三仏」。柿崎景家の妻が所有していたといわれます。(ただ1770(明和7)年制作らしいので、そうすると夫人が所有していた可能性はないでしょう・・・)

その他の文化財としては、1957(昭和32)年に新潟県の有形文化財(書跡典籍)に指定されている「楞厳寺禅林記録」があり、内訳は下記の通り。

・林泉寺開祖 曇英慧応の「仏祖正伝菩薩戒作法」1巻
・天室光育書入の「禅林類聚」20巻中15巻
・天室光育筆「出家略作法文」1巻
・天室光育筆写「永平清規」3巻
(「中学生用副読本 郷土柿崎のはぐぐんだ人物」(2004) p118)

新潟県公式HP
新潟県ホーム >教育・文化 > 文化・芸術 で、「新潟県の文化財一覧」を検索すると、平成26年度版が閲覧できます。

■参考にさせていただいたサイト
新潟名刹紀行 楞厳寺 - BSN新潟放送
楞厳寺 - 新潟県WEB観光案内所

 

写真


入り口より。

 


案内版


登録プレート。


階段ですが、楽です。


国登録有形文化財の山門

 


山門より本堂をみる

 


山門をくぐって振り返る

 


境内にはたくさんお地蔵様が…。水子供養のようです。

 


本堂

 


鐘楼

 


本堂向かって左に、景家公と天室光育のお墓のある、墓地が広がります。
多分幼木を保護するための、甕ひっくり返したようなものがぽつぽつと…。
緑がきれいでしたー。

 
観音像もたくさん。

 


ちょっと笑ってしまった観音様。矢印が…もうこれ以上上には…。

 

柿崎景家と北越軍記

楞厳寺の景家のお墓。最近囲いができました。
お墓の写真はいつも撮らないのですが、撮れました。戦国までいくとお墓もお墓というより史跡に近い感覚…(私のなかで)。

柿崎景家(かきざきかげいえ)は、上杉二十五将、また上杉謙信の四天王の一人で、通称は弥次郎、官職は和泉守のため、「柿崎和泉守景家」と呼ばれます。管理人は地元の刷り込みにより「謙信公」同様、「景家公」と呼んでしまいます。
田舎から出ていったのに大学では「その地名知ってるよ!!」と言われることが多々あり、いつもなんでだろうと思って聞くと、90%「信長の野望」プレイ者でした。恐るべし信長の野望…。

30人に取りあげられる殿。
信長の野望・創造 - コーエーテクモ

ゲームにも反映されているのですが、景家公は大河ドラマ「天と地と」をはじめとして、ちょっとおバカな猛将的な描かれ方をすることが多かったのです。(信長の野望では、戦闘能力異常に高いのに、知力が低いとか…)
その背景としては、謙信公が「柿崎に分別あったら越後で最強なんだけどなあ…」とつぶやいたとか、信長と密通したから暗殺されたとかという説があるのですが、景家公は上杉家の外交役を担ったり、奉行職についていたりするので、近年、そうした評価も見直されているそうで。

というわけで、せっかくなので「柿崎に分別あらば…」の原本、新潟県立図書館が所蔵している北越軍記(宝永8(1711)年)をみてみました。「■」は文字打てなかった箇所。

 

本文

越後佐渡デジタルライブラリー -  新潟県立図書館、新潟県立文書館

柿崎和泉守景家ハ剛強ナル者ニテ。度々ノ手柄有之候。雖然謙信如何被存候乎。斎藤下野守程ニハ不被存候由。謙信モ柿崎和泉守ニ分別アラバ。越後七郡ニ手ニ合者ハ有間敷ト被申■トナリ。向所ハ鐵ヲモ可通ト存ル程ノ者ニ候由摠テ奇妙ナル者ニテ或時善光寺門前ヲ過トテ読経者ニ行逢タルニ柿崎ガ馬彼者ノ長柄ノ傘ニ驚コト(*1)度々ナリ。和泉守被者ガ姦人タルコト(*1)ヲ察テ馬ノ前ニテ誅戮■。説教者ノ傘ノ柄ヲ破廿テ見ニ信玄ヨリ數通ノ謀計ノ書アリ。上杉家中村山美作守隠謀■テ。信玄ニ内通ノコト(*1)露顕スルユヘ。謙信ヨリ村山ヲ被誅柿崎ガ功者ヲ世間ニテ褒タル由。謙信卒去ノ前年ニ。信長ヘ内通仕リ顕テ和泉守男子三人成敗ニ被行候此放討ノ時モ人數多討父子トモニ働キ被討申由只今柿崎源右衛門ハ。和泉ガ弟ノ末ト承及候
北越軍記 巻之7 (画像で23~24枚目)
*1 合略仮名

 


意訳

柿崎和泉守景家は勇猛な武将で、度々戦で手柄をあげていた。しかし謙信公は、斎藤下野守朝信程ではないと思われており、「和泉守に分別があれば、越後国内に適うものはいない」とおっしゃられていた。向かうところは鉄砲であっても押し通る程の者であったとのこと。総じて奇妙な人物で、あるとき、善光寺(上越)の門前を過ぎる付近で読経者とすれ違いそうになったとき、柿崎の馬が読経者の長柄の傘に驚くことがたびたびあった。柿崎は読経者が間者であることを察し、その場で誅戮した。読経者のから傘の柄を破壊してみると、数通の信玄からの密書が出てきた。密書は上杉家中村山美作守の陰謀であり、村山が信玄に内通していることが露見したため、謙信より村山を誅すことができたのは柿崎のおかげだと褒めたということである。謙信が亡くなる前年に、織田信長に内通していることが発覚して、柿崎家の男子三人が成敗された。このときも息子晴家共々多数の敵を討ち、働いたという。現在の柿崎源右衛門は、景家の弟の子孫と聞き及んでいる。

 

村山美作守って誰よ、本庄?と思いましたが、誰なのでしょう…。

なにはともあれ、私個人としても「分別あらば…」の部分は、これをみると「もうちょっと思慮深かったらなぁ…」くらいのニュアンスで、「あいつはまったく分別無いんです」っていう意味で言っているのではないんじゃないかなぁと感じました。景家公は、熱くなると周りが見えなくなる(例:川中島)ところがあるので、そういうことをいっているのじゃないかなぁと。

天室光育を招き、楞厳寺を建立した景家公は、そんなご自分の気性を戒めたいとお思いになっていたのではないかなぁ…(できなかったけど)、と、新緑の楞厳寺を散策しながら思ったGWでした。

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