幕末維新鳥尾小弥太

【逸話】鳥尾小弥太と山城屋事件

山城屋和助(天保7(1836年~明治5(1872)年11月29日)は、奇兵隊出身の明治初期の陸軍省御用商人です。
彼と鳥尾の逸話をご紹介。

鳥尾小弥太の義侠

義侠と題して云く、山城屋和助初め奇兵隊にあり野村光三と云ひ得庵と相知る。商権の外国人の手に落つるを憤慨し、終に身を商業界に投じ、田中平八、高島嘉右衛門と並称し、横浜の三豪商といふ。明治五、六年の頃、和助、官債を負ひ割腹す。和助の盛なるや車馬常に門に満つ。其の死するに及び、一人の問弔するものなし。獨り得庵其の死を聞き、直に東京支店に至り、之を弔し且つ曰く、難事あれば一臂の力を添ゆべし。主管某曰く、棺を横浜に送らんとするも其の費を辨ずる能はず、と。得庵曰く、幾何金を要するや、主管曰く、二百金あれば足らん。得庵曰く、易々たるのみと。乃ち主管を従へ邸に帰り、家人を呼ひ現金を問ふ。家人曰、五百金計り。得庵曰く、今月の費幾何あれば可なりや。家人曰く、百金。得庵乃ち四百金を主管に与へ曰く、是れを以て主人の棺を送り、葬式を営み、長門人の体面を汚すこと勿れ

鳥尾小弥太の義俠(近世偉人百話) - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

意訳

義侠と題して曰く、山城屋和助という男は初め奇兵隊におり、野村光三という名であった頃、得庵(鳥尾小弥太)と知り合った。
商売の権利が外国人の手に落ちていくのに憤慨し、ついにその身を商業界に投げ、田中平八(生糸・為替・洋銀・米相場で巨利を得た横浜商人)、高島嘉右衛門(横浜の高級旅館高島屋を運営した横浜商人)と並んで横浜の三豪商とも呼ばれた。
明治5、6年の頃、和助は官債を負って割腹した。和助が商売で上手くいっていた頃は、彼を訪れる人々の馬車などでその屋敷の門はいっぱいであったが、その死に際しては一人も問ひ弔ひを行う者はいなかった。
ひとり、得庵はその死をきき、すぐに山城屋の東京支店に行ってこれを弔うと、「何か困っていることがあれば力をお貸ししたいが」と言った。主管の者が言うには、「(東京の陸軍省内で割腹したので)横浜に棺を送りたいのですが、その費用を工面することができません」ということである。得庵が「いくら必要なのだ」と言えば、主管は「145万ほどあれば足りると思います」と言い、得庵は「容易いことだ」と、その主管を連れて屋敷へ帰ると家の者を呼んで現金がいくらあるか問うた。家の者がいうには、約360万ほどあるという。「今月はいくらあれば足りる」と得庵が言えば、「72万ほどです」と答えた。
すると得庵は今月必要な分を除いた280万ほどを主管に与え、「これを使って主人の棺を送り、葬式を営み、長州人の体面を汚すことはするな」と言ったのだった。

※1金=1円金貨という解釈で、明治5年発行の1円金貨が純金重量1.5gということで、現時点(2017/01/15)の金価格(1g=約4800円)より算出

 

雑感

山城屋事件は、山城屋が陸軍の金を無担保で借りたあげくそれで豪遊したものの、返せなくなり割腹した…というやつです。
元々山城屋はここで出てくる鳥尾や、山縣有朋と同じく奇兵隊の出身であり、そのツテで明治以降は陸軍の御用商人となっていました。年齢としては、鳥尾より11歳年上、山縣より2つほど年上の人物です。
彼が無担保で金を借りれたのも、元はといえばこの山縣との関係ゆえですが、政府の資金を使うとはどういうことだ、と当時山縣(長州)と陸軍の勢力を二分していた桐野利秋を初めとする薩摩出身の将校に詰め寄られ、山縣は山城屋へ「即刻返せ!」というわけです。

当然返済の余地などない山城屋。割腹した場所が陸軍省、というのは、山縣へのせめてもの抵抗だったんでしょう。
「其の死するに及び、一人の問弔するものなし。」というのも、「棺を横浜に送らんとするも其の費を辨ずる能はず」というのも、この関係です。

まぁ、当時の鳥尾は山縣とまだ仲は険悪ではなく、むしろ結構山縣にとっては良い手足というかなんというかだったので、歴史のIFでもしかすると山縣となにか打ち合わせて鳥尾がこの行動に出た…という可能性もなきにしもあらずだと思うんですが、この逸話好きだなぁと思うし、これが逸話として残っているあたり、当時の人々の考えというか思いもこんなだったんだろうなぁと思うと、やっぱり鳥尾いいなぁと思ってしまうわけです。

*2016/02/28 追記*
以下の書籍に、この逸話を意訳している内容が載っています。
命を棄てて ― 原田指月 国立国会図書館デジタルコレクション

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