幕末維新歴史ネタ著作鳥尾小弥太

【鳥尾小弥太】恵の露04~鳥尾小弥太と陸奥宗光2~

1901(明治34)年5月に出版された、鳥尾小弥太が自ら記した小伝である『恵の露』を紹介しています。
今回は最後、第四回です。

全文の文字起こしした記事は以下です。
恵の露~鳥尾小弥太の回顧録~

なお、恵の露は現在国立国会図書館デジタルライブラリーで公開されている『得庵全書』に収録されています。

得庵全書 ー 国立国会図書館デジタルライブラリー

本文

余の朋友中、陸奥との交りは、誠に面白い味がある。
明治二年健武隊の参謀に任じ、京都より東京へ出張す。其年の四月頃、脱走した事がある。其仔細は、當時余は廢藩藩論を主持して居たり、今春東京へ行幸ありて、諸侯を召させられ、制度を定めらる、従前の藩主を、藩知事にする事となりし。當時いづれに決するか、頗る粉論のありし時、余は爲すあらんとし、隊を脱走して、伊藤の所に居たり。従前より陸奥と、伊藤とは、親交の間がらにて、屡々陸奥が來て國事を論ず、其時始めて陸奥と交りを結び、一見舊知己の如く、極めて親しくせり。

是年の六月頃でありしか、山田顕義、品川彌二郎抔が、函館の賊を平定して、整武隊を師ゐて、東京に歸る。余が脱走せし時、共に脱せしもの七八人あり。在東京の先輩が心配して、品川山田と相談し、余輩を一旦歸國することゝなる。歸國の後、三十日ばかり、蟄居閉門を命ぜられ、極めて寛典の御沙汰で済んだ。
其の頃陸奥は、兵庫縣の知事に轉じ、余に手紙を寄せて、身上の一段落が付いたら、是非上て來い、直に神戸に來るやうにと、言つてよこした。其後陸奥は辭職して、大阪の紀州邸に在り。
是の歳の十一月頃、余は獨行にて、國を出て大阪に來り、陸奥の處に暫く居やり。明年の二月頃、共に東京へ來る。遂に陸奥の關係からして、紀州戌營の顧問として、和歌山に行きし事あり。
陸奥との交りは斯様な譯で、一時は兄弟同様に、親しく交つた。併し意見は、其時から往々衝突した。

元來陸奥は、劇しい改革家であつた。
其の一つを云へば、内地を開放して、西洋人を入れることは、急には出來ぬから。北海道だけは、丸で雑居地として開拓するが宜しい、と云ふ説を主張した。随分過激の議論をする人でありし故に、余と往々議論は衝突したが、交りは何時も變わなかつた。
又元老院の創立の時は、余と陸奥と頗る劇しく争ふた、それは明治八年の事である。

其後十年西南の役の頃は、陸奥は元老院の幹事でありし。餘程不平のあつたものと見えて、遂に國事犯を仕出した。當時大阪で謀反連中が、大久保木戸伊藤を斃すべしと云ふ評議をした、所謂暗殺を企てた。
其時陸奥が其處に居て、鳥尾も除かないと、頗る後の害になると云ふた。是事は信偽は知らぬが、探偵に上つて、余も當時聞取て居た。
其明くる年明治十一年、余が東京に歸ると、三月頃でありしか、四月頃でありしか、陸奥が來て言ふには、さて變な事がある、今日有栖川の宮より、御用があると云ふ事で伺候した、宮の仰せに、其の方に嫌疑がかゝり、不日裁判所より召喚されるかも知れぬ。それは大江抔の國事犯である。其方は覺えは無かろうが、此事を心得の爲に通じ置く、との事であるが、此際いかゞ處分したらよからうか。萬々覺えは無いが、君に相談すると、折入て相談をした。
其時陸奥は、兼て覺悟して居りしか、随分平穏に話して、決して狼狽した様子はなかりし。
余が曰く、貴公は十分此の難關を切り抜ける考があるかと。陸奥曰く、それは大概ある積りだ。大江抔と、少しは話した事もあるけれど、我等が其の連類になつて、刑法に關るやうな事はない積りじやと。
余が曰く、そんなら此事は、君の才智を盡して免るゝことに覺悟するがよい。併し證據攻にせられて、已むを得ない場合に、押移つて來たら。其時は此事件は、自身が主としてやつたのである、おのづから大江抔の趣向と違ふと云ふことにするがよろしい。元來此事件は、國事犯の未遂と云ふものならむ。何年間か禁獄位の事なるべし、君も再び世に出て來るだらう。出て來たときに、大江抔の御供をした國事犯では仕方がない。一向ら免るゝが爲に、男らしくない事は、しない方が宜いと、余は斯く氣附を云へり。
陸奥曰く、それならそれに決心しやうと、斯う云うて別れた。
それより二三日ばかり経つて、裁判所に拘留せられ、事實の如き處分になつた。
世間では、當時陸奥が狼狽して、自身から色々の事を饒舌り出して、刑期が三年で済むものを、遂に五年になるやうにしたと云ふ者もあれど、其内實は、余が忠言を納れて、彼れはみづから是とする所を行ふたのである。
其後とても、何か困難を感ずると、必ず余に相談した。余も相談されると、自分の流儀は外にして、全く陸奥の流儀になりて、彼れが爲に圖つた。其中には、隠微に渉る事もあるから、此の話しは略して置かう。

明治二十五年の内閣更迭に、陸奥は外務大臣に任ぜられた。
其時余は熱海より歸京して、井上に用事があつて、内務大臣の官舎へ往きし所へ、陸奥と今一人大臣が来訪した。
余は陸奥に對して曰く、君と余は、二十餘年の交友である故に余は頗る君の流儀を知悉す。君の流儀は、第一みづから用ふるの位置を得て、一向ら國家に功を立てやうと云ふ希望である。従前の擧動は、一に此の希望より割出して、進退されたに相違無い。然るに今日外務大臣の任は、即ち君の才力を用ひて、功を立つべき位置である。若し此位置を得て、功を立つる事が出來ぬなら、従前の君の抱負は、一向價値がない。されば是迄の如く、一退一進を輕くぜず、十分に腹を据ゑて、此内閣と共に倒れ、共に功を立てる決心が、尤も肝要だと思ふと。
陸奥曰く、それは無論の事であると、余が曰く、余は今日君に對して、一言云ふべき事がある、君等が明治十年、大阪に於て暗殺を企てた時、君は余をも殺すべし、と主張した、余は此事を聞きて以爲らく、陸奥は陸奥流の事をしやうと思ふから、殺すべしと言たであらうと。其後君が捕へられる時、余の所に來て相談をした、余は朋友の義として、君の爲に忠實に圖つたことは、記憶して居るだらうと。陸奥曰く、それは記憶して居る、我等が君を殺すべしと主張した所以は、君を知るの深きによる。若し君にして在る時は、必ず我等の大害になる故に、主張したに相違ないと、共に大笑した事がある。此れは明治二十五年十月頃の事と思ふ。

終に陸奥は外交の人に當つて、奇功を立て、立派に末路を終へた。
即ち余と陸奥との交際の全たかつた事は是で能く分かる。其議論は、根本から違ふ。而して或時は殺す殺さぬの云ふ事の有りしに關らず、終始交りを變ぜざりしは、余が交友中、一つ有りて二ない友でありし。

意訳

私の友人のなかで、陸奥との交友はまことに面白みがある。

明治二(1872)年、私は健武隊の参謀を任じられ、京都から東京へ出張した、その年の四月頃、脱走したことがある。
その詳細は、当時私は廃藩論を主論としており、その春東京へ行幸があって帝は諸侯をお召しになられ、制度を定められた。これまでの藩主を、藩知事とするということである。当時どのように決するかすこぶる議論が紛糾していた時で、私はこれを成し遂げねばならぬと、隊を脱走して伊藤のところにいた。この前から陸奥と伊藤は親交があって、たびたび陸奥がきて国事を論じていた。
そのときに初めて陸奥と交情を結んで、一見すると知己の友人のように親しくなったのである。

この年の六月頃であったか、山田顕義、品川弥二郎が、函館の賊を平定して整武隊を率いて東京に帰ってきた。私が脱走したとき、共についてきたものが七、八人あったが、東京にいた先輩が心配して、品川、山田と相談し、われらをいったん帰国するさせることにした。帰国のあと、三十日ばかり蟄居閉門を命ぜられ、極めて寛大な処分で済んだ。
その頃陸奥は兵庫県の知事に転じ、私に手紙を寄せて、身の上が一段落したらすぐ神戸へ来るようにと言ってくれた。
その後、陸奥は辞職して大阪の紀州邸にあった。
この年の十一月頃、私はひとり国許を出て大阪にいき、陸奥のところにしばらくいた。あくる年(1873)の二月頃、共に東京へ行ったが、ついに陸奥の関係から紀州陣営の顧問として、和歌山に行ったことがある。陸奥との交友はこういうようなわけで、一時は兄弟同様に、親しく交わった。ただし、意見はこの時からよく衝突した。

元来、陸奥は激しい改革家であった。
その一つをいえば、内地を開放して西洋人を入れることは急にはできないから、北海道だけは雑居地として開拓するのが良いという説を主張した。随分過激な議論をする人であったゆえに、私とよく議論は衝突したが交友はいつも変わらなかった。
また元老院の創立の時は、私と陸奥はすこぶる激しく争った。明治八年(1875)のことである。
その後明治十年(1877)の西南戦争の頃は、陸奥は元老院の幹事であった。よほど不平のあったものとみえて、ついに国事犯をしだした。当時大阪で謀反側の連中が、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文を倒すべしという評議、いわゆる暗殺を企てた。そのとき陸奥がそこにいて、「鳥尾も除かないとすこぶる後々の害になる」と言ったそうだ。本当かどうかは知らないが、探偵のほうにその情報があがって、私も当時きいていた。

その翌年、明治十一年(1878)に私が東京へ帰ると、三月頃であったか、四月頃であったか、陸奥が来て言うには、さて変なことがある。今日有栖川宮より御用があるということで伺った。宮の仰有られるに、そのほう(陸奥)に嫌疑がかかり、近く裁判所に召喚されるかもしれない。それは大江などに対する国事犯のことでである。そのほうには覚えはなかろうが、このことを心得えておいて貰うために言っておく、ということであったが、これはいかがしたら良いだろうか。一切覚えはないが君に相談する、と折り入って相談をした。
そのとき陸奥は、かねて覚悟していたのか、ずいぶん平穏に話して、決して狼狽した様子はなかった。

あなたは十分なこの難関を切り抜ける考えがあるかと問うたら、陸奥は、「それはだいたいあるつもりだ。大江などと少しは話したこともあるけれど、われらがその関係者になって刑法に違反するようなことはないつもりだ」と言った。私は、それならこのことは君の才知に任して免れることを覚悟するとよい。しかし証拠攻めにされてやむを得ない場合になってきた時には、この事件は自分が主としてやったのである、と、自ら大江達とは趣向が違うということを主張したほうが良い。元来この事件は国事犯の未遂というものになるのだろう。何年か拘禁されるくらいのことであるに違いない。君も再び世に出てくるだろう。出てきたときに、大江などの御供をした国事犯では仕方がない。ただ禁を免れるために男らしくないことはしない方が良い、と私はこのように言ったのだった。
陸奥は、それならそのように決心しよう、とこう言って別れた。
それより二、三日ばかり経って、裁判所に拘留されすでに知られている通りの処分になった。世間では、当時陸奥が狼狽して自ら色々のことを喋りだし、刑期が三年で済むものをついに五年になるようにした、という者もあったけれど、その内実は私の忠言を聞き入れて、彼は自らよしとするところを行ったのである。
その後も、なにか困難を感じると陸奥は必ず私に相談した。私も相談されると、自分の流儀はおいて置き、陸奥の立場になって、彼のために図った。そのなかには、些細なことや分かりにくいこともあるから、この話の仔細はおいて置こう。

明治二十五年(1892)の内閣更迭に際し、陸奥は外務大臣に任ぜられた。
そのとき私は熱海から帰京して、井上馨に用事があって内務大臣の官舎へ行ったところ、陸奥ともう一人大臣が来訪した。私は陸奥に対して、「君と私は二十余年の交友であるがゆえに、君の流儀はよく分かっている。君は、第一に自身の才を発揮できる立場を得て、ただ国家のために功をたてようということを望んでいる。これまでの挙動は、ひとえにこの望みより割り出して決めてきたに違いない。しかるに、今回の外務大臣の任は、まさに君のその才能を用いて功を立てるべきポジションである。もしこれで功をたてることが出来ないなら、これまでの君の抱負はまったく価値がない。だからこそ、これまでのように一進一退を軽んじず、十分に腹をすえてこの内閣と共に倒れ、ともに功を立てるのだという決心が最も大事なことだと思う」と述べた。
陸奥は、無論だと言うので私は、「今日君に対して一言いうべきことがある。きみらが明治十年、大阪において暗殺を企てた時、君は私も殺すべきだと主張した。私はこのことを聞いたとき、おそらく陸奥は陸奥流のことをしようと思うから、殺すべきだと言ったのであろうと理解した。その後、君が捕らえられる前に私のところにきて相談をしただろう。私は友人としての義を通して、君のために忠実に図ったことは覚えているだろう」といった。
陸奥は、「それは覚えている。我らが君を殺すべきだと主張したのは、君を深く知っているからだ。もし君がいれば、必ず我々の大きな妨げになるので主張したことに相違ない」というので、共に大笑いしたことがある。これは明治二十五年の十月の頃だったかと思う。

最後まで陸奥は外交の人であって、素晴らしい功績をあげ、立派にその人生を終えた。
すなわち、私と陸奥の交際のすべてのことは、このことでよくわかると思う。
私と陸奥の主張するところは根本から違う。しかし、あるときは殺す、殺さないということもあったにも関わらず、終始関係を変えなかったということは、私の交友中、唯一無二の友であった。

 

雑感

関連記事を先に。
脱走の件はこちらの松村源一さんの話が関連しています。鳥尾が脱走したときにくっついてきたのが、松村さんはじめ数人いたようで、結果的に山田とヤジになだめられて(引っ張られて)帰国していった様子。
関係者の語る鳥尾小弥太と戊辰戦争(『維新戦役実歴談』から)

陸奥との全体的な交友と世間(?)の見方はこちらを。
【鳥尾小弥太】鳥谷部春汀による鳥尾評02ー太陽4巻22号(1898) 居士の性格ー

陸奥は鳥尾のこと好きじゃないかもしれない…的な感想を以前書きました。
陸奥の資料は外交や原敬など関連史料も含めると膨大なので、全然目を通せていないのですが、それでも陸奥を扱っている評伝など、いわゆる陸奥サイドからの書籍で鳥尾のことに触れているのほぼ皆無なので、多分出てきていないのだろうな…と思っています。
でも鳥尾としては陸奥のことかなり好きだったんだろうな…とこの内容を見ていても感じる。
4歳差という年齢もまたいいですね。谷さんは歳が離れすぎているからどうしても友達感は薄いけど、陸奥は歳が近いからライバル感がある気がします。

「君と余は、二十餘年の交友である故に余は頗る君の流儀を知悉す。君の流儀は、第一みづから用ふるの位置を得て、一向ら國家に功を立てやうと云ふ希望である。」のところは本当に文字起こししているときウルウルしてしまったのだけれど、時間が大分空いてしまったこともあり、意訳を書いていた時は「同郷の後輩が自分の執務室かなにかで、突然こんな熱いこと言い始めて世界作り始めちゃったのをみている聞多(井上馨)の気持ち考えると辛い…」となりました。少年漫画なら廊下に出たあとくらいに二人だけでこの会話していてほしいけど、コメディの世界なら気をきかせて空気になっている井上馨を見てみたい。

 

大江卓(おおえ たく)(1847年11月2日 〜 1921年9月12日)は、土佐藩(現在の高知県)出身の社会運動家。鳥尾と同い年ですね。
陸奥の所属していた海援隊と対になる、中岡慎太郎率いる陸援隊に入隊し、討幕活動を行った志士の一人です。
宿毛市史の「挙兵計画」編では、この件についてこのような記載があります。

大江卓は、後藤、林と別れて京都から大阪にでた。その目的は「大阪には大久保内務卿をはじめ西南征討軍を統率するため鳥尾中将がいたので、大久保、鳥尾は勿論伊藤博文、木戸孝允等、おもだった人々を暗殺して征討軍の気勢をそぎ、時局の大革新を遂げようとし、川村僑一郎や岩神昂の両氏と話し、林等の挙兵と同時にこの計画を実行に移すべくその画策をしていた。(『大江天也伝』)のである。

宿毛市史 挙兵計画 - 宿毛市

これをそのまま採るならば、陸奥が大江に進言し、大江はそれを受け入れたということでしょうか。
鳥尾は西南戦争当時、大阪の陸軍行在所というところに詰めており、鹿児島へ送る新政府の武器弾薬の調整を担っていました。兵糧はいつの時代も戦争の要ですので、ここを潰せば戦況が混乱するのは間違いないことでした。
詳細な意味合いは陸奥側の鳥尾に関する記録がないのでわかりませんが、それこそ、紀州和歌山に陸奥が鳥尾を連れて行ったとき、和歌山の新兵団の設立に鳥尾も噛み、結果的にそれが明治陸軍の土台になっていったことを思うと、この西南戦争での両者の立場は皮肉だなと思います。
この政府転覆計画は明るみになり、結果、大江は禁固十年で岩手監獄に、陸奥は禁固五年で山形監獄(のちに宮城監獄)へ収監されることになりました。

参考:
近代日本の肖像 大江卓 - 国立国会図書館
宿毛市史 - 宿毛市

 

鳥尾は恵の露の幼年期の章でも出たように、幼少期に父を亡くしていますので、陸奥の父である伊達自得翁への懐き方というか慕い方には色々感じるものがあります。
そういったこともあったので、鳥尾の寝ている枕を陸奥が蹴って起こしたみたいな逸話もあるくらいですから「一時は兄弟同様に、親しく交つた。」というのは、鳥尾にとってはそれだけ気の置けないというか、彼が本当にここに書いたままの気持ちだったのだろうと思います。

陸奥は明治三十年(1897)8月24日、肺結核によりこの世を去ります。53歳でした。
このため、鳥尾が恵の露を書く発端となった雑誌『太陽』の発刊時には、すでにこの世にいなかったことになります。
『太陽』の件の全文は別途文字お越しをしましたが、全文を読めばなおさら、彼が両親に対する誤解を解くためのものと同列に、大久保・木戸という維新二傑との関係の説明よりも、まだ存命だった大隈保重信への意見よりも、陸奥との関係を取り上げたことの重さを感じることでしょう。
「余が交友中、一つ有りて二ない友でありし。」という言葉がまさしく指すように、鳥尾にとって彼はそういった存在だったのです。

原文と順序を入れ替えてしまったので、意訳をいれた『恵の露』自体はこれでお終いですが、意訳版の最後がこの言葉になったことに自分で満足してしまいました。

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