【鳥尾小弥太】恵の露01ー概要ー

『恵の露』とは

『恵の露』は、1901(明治34)年5月に出版された、鳥尾小弥太が自ら記した小伝です。
これに先立つ1898(明治31)年に博文館より出版された雑誌『太陽』にて、自身について記載された内容が、過去に誤った情報を流していた書の情報によっていたことから、「さすれば誤りも正して置かぬ時は、事實として何處までも傳はると云ふ事に心付き、余が實歴を講話して置かうと思ふ」ということで、執筆に到ったとのことでした。

得庵全書にも収録されているこの小伝は、大きく3つの構成になっています。

1.生い立ちから明治維新を迎えるまで
2.明治維新後の陸奥宗光との交友
3.「鳥尾小弥太」という姓名を使うことになった経緯

この3つをちょっとだけ順序を入れ替えて、以下の3つで意訳をいれて紹介していきたいと思います。

1.概要(執筆の経緯)
2.鳥尾小弥太と奇兵隊 (上述の1と3)
3.鳥尾小弥太と陸奥宗光(上述の2)

なお、入れ替えをしていない『恵の露』の全文を文字起こししたものは下記で公開しております。

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また、恵の露は現在国立国会図書館デジタルライブラリーで公開されている『得庵全書』に収録されています。

国立国会図書館デジタルコレクションは、国立国会図書館で収集・保存しているデジタル資料を検索・閲覧できるサービスです。…

本文

曾て余が小傳を著はしたる者あり。其の書に、余の壮年の時、甚だ疎暴者で、兩親より勘當を受けしと云う事が書てありし。當時中川克一氏の云はるゝには、是の事は正して置かぬと、遂に誤りを傳へ。後人これを信じ、又子孫もさうで有つたかと思ふやうになる。外の事なら宜いけれど、親より勘當を受けたと云へば、極めて不孝の子である。兩親もかゝる子を持つは、名譽でも無い。宜しく正して置くべき事である、と云ふ忠告であつた。余は當時頓着せず、少壮の時の朋友も、猶ほ澤山ある。余が勘當を受けたなど云ふ事の無い事は、皆々承知して居る、之を辯ずるにも及ぶまいと云ふて、等閑にして置いた。玆に太陽第四巻の二十ニ號に、余の性行を論じて有るのを見るに、彼の誤りを傳へたるものを引て書てある。さすれば誤りも正して置かぬ時は、事實として何處までも傳はると云ふ事に心付き、余が實歴を講話して置かうと思ふ。其の順序は、初めに余が幼少の時より、生立ちの事歴を、大略講話致す。次に太陽に、余と陸奥との交際を論じてある。陸奥は余と親友であつて、終始交際の變ら無い人でありし、因て陸奥との交際の始末を語るべし。其王道辯論に關しては、人道要論に、余が見解を譯述せり。先輩木戸大久保兩氏に對しての事杯も、誤りあれど、些末に渉れば、敢えて辯ぜず。

意訳


かつて私の小伝を著した者がいた。
その本に、私が若い時、ひどく乱暴者で両親より勘当をうけたということが書いてあった。当時、中川克一氏が、「このことは正しておかないと、ついに誤りが後世に伝わって信じられてしまい、子孫もそのようであったかと思うようになってしまう。ほかの事なら良いが、親より勘当を受けたとなれば極めて親不孝である。両親もそのような子を持つのは名誉でもない。正しておくべきだ」という忠告をしてくれた。

私は当時頓着せず、その頃の友人も多くまだ存命であったし、私が勘当を受けたなどということが無いことはみな分かっていたから、これを別に変えなくても良いだろうとそのままにしておいた。
ところが、太陽第四巻の二十二号で私のことを論じているものを見たところ、この誤った情報を引いて書いてあったのである。そうであれば中川氏の言われた通り、誤りも正しておかないと事実としてどこまでも伝わってしまうということに気付き、私の実歴を話しておこうと思った。

その順序は、初めに私が幼少の時から生い立ちのことを、おおまかにお話する。
次に、太陽に私と陸奥宗光の交際を論じてあったが、彼と私は親友であって、終始付き合いの変わらない人であったので、そのことを語る。
また、私の王道論については、著書である『人道要論』に私の見解を論述した。
先輩である木戸、大久保についての事なども誤りがあるが、ささいなことであるのであえて訂正はしないでおく。

雑感


この恵の露を見た時から、「この太陽ってどういうことが書いてあったのだろうか」とずっと気になっていたのですが、数年越しに購入できて実際目を通したら想像以上に言われていて逆に笑ってしまいました。(特に「居士の性格」の、木戸さんに大久保さんちに連れていかれる話)
太陽の当該記事については下記に3つに分けて起こしています。

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中川克一(1862-1913)は、兵庫県出身の漢詩人で、東京で私塾日新学舎を開いた人物です。
鳥尾にとっては、保守中正派の機関紙で、1890年に創刊した中正日報の主筆をこの中川氏が務めていたこともあり、親交が深かったようです。

雑誌『太陽』は、明治28(1895)年1月から昭和3(1928)年2月まで発行されていた博文館の総合雑誌で、件の記事を書いたのは人物評に定評のあった鳥谷部春汀というジャーナリストでした。
この方が鳥尾に対しどういう風な評価をしていたかというと、

余は彼れの思想を説明する前に、先づ彼れの性格を觀察せざる可からず。彼れの原姓は中村と稱して長州藩士の家に生る。其鳥尾と稱するは、實に彼れの自ら選みたるに由れり。而して此自選姓氏は、少なくとも彼れが性格の一半を説明するに足るものあるを知らざる可からず。蓋し彼れが會て長藩の奇兵隊に在るや、亂暴無状、慓悍太甚だし、父母其累の一家には及ばむことを懼れ、籍を除て之れを放逐す、此に於て彼れ自ら鳥尾と名乗りて京攝の間に流浪し、盛んに勤王討幕の説を唱へて意氣軒昂たり。以て其生来の不覊不屈なるを見る可し。

という感じで、予約投稿しようとしているので、この記事を書いている2021/09/27現在でもwikipediaの鳥尾の項で紹介されている通りの内容です。
(Wikiの脚注が、この太陽の内容を再収録した鳥谷部さんの記事なので、なるほどなという感じ)
衝撃の事実なのですが、鳥尾の実父は鳥尾が14歳の時に亡くなっているので、少なくとも父は勘当のしようがないうえに、鳥尾が京都に行く頃にはお母さんも亡くなってしまうので、どういうことでありましょうかという。
おそらく、こういう経緯で話が間違って伝聞していったのでは…というのが、恵の露を見ると推測できるのですが、とりあえず次以降で意訳したものも出して行くので、いつの日にかwikipediaの記事も直るといいなぁ…と思っています。