幕末維新歴史ネタ鳥尾小弥太

【鳥尾小弥太】鳥谷部春汀による鳥尾評03ー太陽4巻22号(1898) 居士の思想ー

博文館から発行された太陽4巻22号に掲載された、鳥谷部春汀の鳥尾評について三回に分けて紹介してきましたが、その最後になります。
其の3が鳥谷部さんの主張したかったことのメインになるのですが、いやはや凄いです。このブログ始めてから初めてくらいに、どどどと感情をぶつけてくる文章を読んだ気持ちです。(ブログ始める前は主に討幕派VS佐幕派と、久坂好きな人VS久坂嫌いな人の冷戦をネットでみていてカルチャーショックを受けていました)

1回目と2回目はこちら。

 

今回紹介する人物評は『春汀全集 第2巻』に収録されており、国デジさんで公開されています。

 

本文

其三 居士の思想
『世界之日本』記者、彼れに關する記事を掲げて曰く

鳥尾小彌太氏は樞密顧問也、此人、板垣内務大臣の下にある巣鴨監獄の眞宗説教師が辭職したりとて。本願寺を教唆して内務大臣に反抗せしめむとす。此人は會て伊藤侯が戸田夫人を辱めたりといふ無根の流言を作為して。伊藤侯を攻撃し、且つは歐化主義を傷けたる人也、兎角に陰險の性質と見ゆ、禪宗などとは以ての外といふべし、

巣鴨監獄の問題起るや、本願寺僧侶石川舜台、現内閣大臣に一篇の辦難書を呈して、國体を論じ、以て暗に政黨内閣を批譏するの言を為す。此れより前、得庵居士の『王道辦論』と題する長文日々新聞に出づ。其論旨亦政黨内閣を以て國体を破壊するものと為し、現内閣大臣を罵つて殆と不忠不臣の亂賊といふ。偶々巣鴨監獄問題の起るに於て、居士が平生佛教家に深縁あるの故を以て、石川舜台の運動が居士の教唆に由れりと推測せらるゝは亦謂れなきに非ず。されど巣鴨問題は末なり。以て彼が政治運動の主因と為す可からず。彼れを起たしめるものは政黨内閣にして、『王道辦論』の一篇實に彼れの心事を悉くせり。彼が最初の『王法論』も、保守中正派の『立黨趣意』も、國家學會に於ける『國家起原論』も、總べて遺憾なく最近の『王道辦論』に於て發揮せり。以て彼れの思想を知る可く、以て彼れの人物を知る可し。
余は詳細に王道辦論を點検するの根氣を有せず。故に唯だ其要點を擧げて、彼れが思想の大体を觀むとす。『王道辦論』に曰く、

其他王政を不満とする者各々黨を樹てゝ自ら民黨と稱し、民權自由の説を以て大義名分の教に易へ、著書に新聞に演説に、天下の少壮を鼓動して暗に勤王の迂濶を罵り、即ち曰く謂はゆる維新なるものは、藩閥人士の功業のみ、更に政黨を以て天下の權を執る可し、之を名けて第二維新と曰ふ、遂に今夏六月に至りて諸黨相合し、政權争奪の義を天下に宣言す、黨の領袖大隈板垣二伯の如きも、亦公然口を極めて此非學を慫慂す、而るに輔弼其の器に非ず、啻に之を制する能はざるのみならず、却て此輩を引きて朝に進め、今や再び大權下に移るの端を啓く、是れ皆大義上下に透徹せず、臣道人心に顯明ならざるの禍なり

と。居士以為らく、現内閣は國家の主權を移動するものなり、皇上の天職を侵犯するものなりと。其論旨を一見すれば、君權を認めて民權を認めざる極端の専制論者に似たりと雖も、余は此點に於て窃に彼れの思想に疑ひなき能はず。彼曰く、

夫れ堯舜禹湯文武周公なるものは、古の所謂聖主王佐なり、而して唐虞の天下多事、四凶朝を亂り、鯀事を恣にして民を傷く、大舜位を攝して惡を除き奸を去り、賢を用ひ能を進め、果欠敢爲、允に中を執りて行ひ、堯をして堯たらしめ、禹をして禹たらしむるものは、蓋し大舜一人の功なり、湯王は桀を逐ひ、伊尹は太甲を放ち、武王は紂を伐ち、周公は管叔を放てり、是皆大權を把持して、天下を成敗する者、其心術を言へば則ち無偏無黨、而して其天下の亂階を芟除するに於ては、斷々乎として人の是非を顧みず、豈王道無黨の意を稱説して止まむや、

と案ずるに湯王の桀と逐ひ武王の紂を伐ちたるは、我君主國体と決して相容る可からざるの擧たり、然るに居士は此擧を稱説して天下を成敗したるの王道と為す。是れ支那の如き民主國家に在ては、或は成立し得るの眞理たらむ、我一系萬世の君主國に在て斯くの如きの王道を稱説す。是れ過激なる民權論者も未だ言ふ能はざるもの、顧みて大義名分を唱ふる居士の口に出づるは何ぞや。
居士の思想は由来儒教を以て涌養せられ、儒教を以て國家學なりとまで斷言したるものなり。されど儒教は寧ろ個人を本位とし、國家を以て客体とせるものなり。故に儒教の所謂る國家は、唯だ是れ民主的國家のみ。故に又主權は屢々移動して天下の亂階會て絶へざるに非ずや。居士此義を誤解して支那の王道を主張する乎。将た知つて尚ほ之れを主張する乎。其孰れに出てたるを問はず、居士の王道論は、啻に我君主國体と相容れざるのみならず。是れ尚可なり、其論旨の危険にして、用語の矯激不諱なる、宛然是れ勘當少年の面影なり。陸奥と絶交したる時の餘音なり。余も亦世界之日本記者と同じく彼れが禅宗なるや否やを怪む。
されど彼れは世界之日本記者の想像するが如き、陰険の人物に非ず。余を以て是を觀るに、彼は一種の讀心術向者なり。彼をして若し裁判官たらしめば、彼は法律と證據に據て判決せずして、恐らくは心術に由て判決せむ。是れ重きを心術に置きて理論に置くかざればなり。故に彼れの人を争ふや、其意見の當否を撿ずるよりも寧ろ其心術の正邪忠奸を是れ觀る。随つて其言動往々世と相逆ふ。嗚呼是れ其人に容れられざる所以なり。

 

意訳

其三 居士の思想

『世界之日本』の記者が彼に関するこのような記事を掲載した。

鳥尾小弥太氏は枢密顧問である。
この人は、板垣内務大臣のもとにあった巣鴨監獄の浄土真宗説教師が辞職したとして、本願寺をそそのかして内務大臣に反抗させようとした。彼はかつて伊藤侯が戸田夫人を辱めたという事実無根の流言を流して伊藤侯を攻撃し、かつ欧化主義を傷つけた人であり、とにかく陰険な性質であるとみえる。そんな人が禅宗などというのはもってのほかであるといえるだろう。

巣鴨監獄の問題が起こると本願寺僧侶石川舜台は、現内閣大臣に一通の問題提議書を呈して国体を論じ、もって暗に政党内閣を批難した。
これより前、得庵居士の『王道弁論』と題する長文が日々新聞に出ていた。その論旨はまた政党内閣は国体を破壊するものであるとし、現内閣を罵ってほとんど不忠不臣の乱賊であるというふうであった。
たまたま巣鴨監獄問題が起こり、居士が仏教家に人脈があるので石川舜台の運動が居士にそそのかされてと噂されるのはいわれが無いわけではない。
しかし巣鴨監獄の問題は世も末である。これを彼の政治運動の主因とするべきではない。彼が政治運動へ走ったのは政党内閣が起因であって、『王道弁論』の一篇は実に彼の考えを著している。
彼の最初の著作である『王法論』も、保守中正派の『立党趣意』も、国家学会における『国起原論』の内容も、すべて遺憾なく最近の『王道弁論』に集約されている。これをもって彼の人物を知るべきだ。

私は詳細に王道弁論を点検する根気がなかったので、ただその要点をあげて彼の思想の大体を述べる。
『王道弁論』で彼はこのように語っている。

その他王政を不満とする者は各々の党を樹立して自ら民党と称し、民権自由の説をもって大義名分とし、著書に新聞に演説に、世の中の若者を鼓舞して暗に勤王の迂闊さを罵っている。
すなわち、いわゆる維新なるものは藩閥で地位のあった者の功業だけを言っていて、我等も政党をもって世の中の権力を掌握するべきだ、と、第二維新と言い出した。ついにこの夏六月にいたって諸党は手を組み、政権争奪する意思を天下に宣言した。党のトップである大隈、板垣の両伯爵のごときも、また公然とこれを進めているのである。そうであるならば天皇を補佐する器ではない。第二維新を叫ぶ者たちを制することもできず、かえってこれらを率いて進めてしまい、いまや再び天皇の大権が下へ移るきっかけを作ってしまった。これはすべて大義が世の中に透徹せず、臣下としてあるべき道はどのようなものであるのかを明確にしなかった禍である。

居士はおそらく、現内閣は国家の主権を天皇から政党へ移動するもので、天皇の天職を侵犯するものである、と考えていたのであろう。
その論旨を一見すれば、君権を認めて民権を認めないという極端な専制論者に似ているといえど、私はこの点においては密かに彼の思想を疑わないことができない。彼は、

それ堯舜、禹湯文武周公といった者は、古のいわゆる名君主、王佐である。
堯、舜の時代には天下に災いが多かった。四凶が国を乱し、禹の父である鯀は事を欲しいままにして民を傷つけたが、舜は自ら手を下し悪を除いて奸を断ち、才を用いて政をすすめ、これをやり通した。まことに中道をもって進めたので、尭を尭たらしめ、禹を禹たらしめたものは実に舜の功であったのだ。
殷の湯王は夏の桀王を倒し、その宰相であった伊尹も湯王の子である太甲を追放し、周の武王は殷の紂を討ち、その息子の管叔は、武王の弟である周公旦によって倒された。
この者たちはみな大権を握って君主を成敗した者であるが、その心の内をいえばすなわち無辺無党、かたよりもなく党派もなく、悪弊を取り除くにあたっては断固として人の是非を顧みなかった。
だから私は、王道とは私利私欲ではないと言わずにいれないのだ。

と心配しているが、湯王が桀を倒し、武王が紂王を討ったことは、我が国の国体としてけっして相容れないものである。
であるのに、居士はこれを挙げて、君主を成敗するのは王道であるという。これは支那のような民主国家においてはあるいは成立する真理であるかもしれないが、我が国の万世一系をもってなる場合にこのようなことを言うとは。
このようなことは過激な民権論者もいまだ言っている者はない。であるのに、大義名分を唱える居士の口から出てくるとはどういうことであろうか。

居士の思想は儒教をもって育まれ、儒教をもって国家学である、とまで断言するようなものである。
しかし儒教はむしろ個人を本位とし、国家を客体とするものであるので、それがいう国家というのは民主国家なのである。ゆえに主権はたびたび移動するので、天下の争乱が絶えないのではないか。居士はこの義を誤解して支那の王道を主張するのか。それとも知っていて主張しているのか。

そのいずれかであるに関わらず、居士の王道論は我が君主国体と相容れない。
仮にまだその説を良しとしても、その論旨は危険であって、用いる言葉の過激で遠慮のないさまは、かつての勘当少年の面影がみえる。陸奥と絶交したときの名残である。私もまた『世界之日本』の記者と同じく、彼が自己の内観に重きを置く禅宗であるのかどうかを怪しく思う。

しかし、彼は『世界之日本』の記者の想像するような陰険な人物ではない。
私が思うに、彼は一種の心情論的論者である。彼がもし裁判官であったならば、彼は法律や証拠によって判決をせずに、おそらくは心情によって判決を下すだろう。これは心情に重きを置いて、理論を軽んじているからである。
ゆえに彼が他人と争うとき、その意見の当否を検討するよりも、むしろ気持ちの面での正邪であるとか天皇にとっての忠臣であるか奸臣であるかとかをみているのだ。
だからその言動はよく世の中と逆行している。ああ、これが世の中に彼が受け入れられない理由なのだ。

 

雑感

相変わらずディスり炸裂していていて、クライマックスにお腹抱えて笑った。
私はスラスラ古語が読める学力がないので最初に原文見たときは「はぁ…なんかきっついツッコミをされているなぁ…」と思っていたのですが、読んでいったらそうでもなくてちょっと安心しました。
いやディスっているのだけど、でも内容が論点ずらしていて鳥尾の言いたかったことを何かグゥの音も出ないほどぶっ潰されているのかと思っていたので、なんだこの程度かぁ~良かった~、と。(久坂を経てきているのでショック耐性は強い)

今回は鳥谷部さんのディスり議論が頂点に達していて色々時代背景整理しないと「ディスられて終わってしまった」になるので、一個ずつみていきたいと思います。

 

1.巣鴨監獄の問題について

ここで出てくる『巣鴨監獄』とは、明治31(1898)年8月に起きた『巣鴨監獄教誨師事件』と呼ばれるものです。
教誨師(きょうかいし)とは、服役中の囚人に対して過ちを悔い改め特性を養うための道を説く者のことをいい、日本では浄土真宗の僧侶が就くことが多かったのだそう。
全国教誨師連盟のHPによると、令和2年1月時点で活動する教誨師の大まかな内訳は以下になっています。真宗は浄土系に分類されているので、これだとちょっと実値は分からないですね。ただ仏教系の中でも圧倒的に数が多いということは確かなようです。
なお私は、実家は西本願寺系の浄土真宗です。毎月お寺さんが実家の御仏壇にお経をあげにくる文化。

神社系:217人(神社本庁、金光教、その他)
キリスト系:252人(カトリック系、プロテスタント系)
諸教:160人(天理教、その他)
仏教系:1191人
天台系:41人
真言系:158人
浄土系:662人
禅宗系:179人
日連系:151人

明治元(1868)年に出された神仏分離令は廃仏毀釈の流れを生み、仏教界にとって明治は非常に厳しい時代となっていきます。
そんななかで、真宗では明治5(1872)年に、刑務所で受刑者を諭し道を説く監獄教誨を始めました。監獄にある教誨堂は、東本願寺、西本願寺の両本願寺が寄付したのが始まりといわれており、教誨師の派遣に宗派予算をつけていたこともあって活動は非常に盛んで、少なくとも明治31年頃の巣鴨監獄では、本願寺が監獄教誨を独占していたのです。
なかでも、巣鴨監獄は真宗大谷派にとって監獄教誨の拠点であり、明治31年には4名の教誨師が活動を行っていました。

ここに、北海道の網走分監にいた有馬四郎助(1864-1934)という男が典獄(巣鴨監獄の所長)としてやってきます。
彼はプロテスタント系の洗礼を受けたクリスチャンであって、キリスト教の教誨を広めたいという思いがあったようで、着任してからこの大谷派の教誨3人を辞任させ、キリスト教教誨師と交代させようとしました。
一応手順は踏んだようで、大谷派浅草別院に申し出をするのですが、そんなこと言われてしまった寺院側としては寝耳に水のことで、どんどんエスカレーションされていき、ついには真宗大谷派の本山である東本願寺の上席参務石川舜台(1842-1931)にまで伝わってしまいます。この石川さんは天保13(1842)年生まれの、当時56歳。なんと維新間もない明治5年に欧米視察にも行っていて、宗派内に絶大な影響力を持っていた方でした。
その石川さんが、当時組閣したばかりの大隈内閣の内務大臣であった板垣退助に対し、「国が公認した神道や仏教のような宗教ではなく、黙認されているキリスト教に任せるってどういうことですか」的な、事件の説明を求める書面を出してしまったので、サ ァ 仏 教 界 の 団 結 だ (三浦梧楼節)、議論は国会にまでいってしまいます。
結果、「真宗大谷派が仏教界の大同団結を得て失地回復」(ともしび 第819号)し、有馬は市ヶ谷の監獄に配置転換されてしまいました。

なお、禅宗禅宗と持ち出されているので意訳に補完しましたが、鳥尾は明治初期に陸奥の父である伊達自得翁に学んだことをきっかけとして禅の道に傾倒します。
禅宗は臨済宗の禅問答、曹洞宗の坐禅のように己を内観することに重きをおく宗派です。
私は上述の通り浄土真宗育ちなので、当初禅宗を知った時は「なんかストイックなアスリートみたいでかっけぇ」という印象を持ったのですが(でも民衆なのでやっぱり真宗が一番実生活になじみますよ…)、どうも鳥谷部さんたちも似たような印象もっているような気がしています。
なので、「ほんとに禅宗名乗るほどなのか?」って嫌味言われちゃうんでしょうね。
鳥尾は家族ぐるみで築地本願寺などの説法を聞きにいくなど、本願寺とは付き合いが確かにあるのです。でも西だよな築地は。(大谷派というのが東本願寺系で、本願寺派というのが西本願寺系です)
まぁ、だからこそ、そそのかしたのではないか、という記事が出たのでしょう。

 

2.鹿鳴館のスキャンダルの話

此人は會て伊藤侯が戸田夫人を辱めたりといふ無根の流言を作為して。伊藤侯を攻撃し、且つは歐化主義を傷けたる人也

この部分の件です。
戸田極子さんという岩倉具視の三女で、陸奥宗光の妻・亮子と並んで鹿鳴館の華であった女性に対し、伊藤が関係を迫った…という、明治20(1887)年のスキャンダル的な話なのですが、これに鳥尾が絡んでいるという話はちょっと今まで全く見ていなかったので、ここでは保留にします。明治20年て鳥尾、欧州いってるんでは?もう帰ってきているのかな。
とりあえず、今年の6月に戸田さんの評伝が出たとこの記事を書くにあたって調べていて知ったので、なんとタイムリーなと注文してみました。届いたら読んでみます。
個人的に、鳥尾は嫌いだったら直接嫌がらせや文句を言うけど、こういう系の噂を進んで流すような人じゃないと思うんだけどなぁ…などと。(嫌がらせをする例:過去記事

 

3.王道弁論

王道弁論は、これまた明治31年10月に出版された、鳥尾の著書です。
この太陽のほんとすぐ前ですね。
これについては私もまだ読んだことがないのですが、国文学研究資料館さんで所蔵されている写真がちょっとだけ見れます。(王道弁論 - 近代書誌・近代画像データベース(国文学研究資料館))
ただ、発行された時期をみても、鳥谷部さんの感想をみてもこれまでの鳥尾の主張の集大成的なものだったんでしょう。抜粋されている部分を読んでも、王法論や無神論などで鳥尾が述べてきている思想と同じことを言っているなと思いました。

 

4.私の妄想の話

なお、鳥谷部さんがガンガン批難している王道弁論の抜いている箇所については、私は意訳に記載した訳し方をしたのですけれど、「豈王道無黨の意を稱説して止まむや」まで引用してくれているのにそういう批難の仕方をするのか…とちょっと驚いた。
ここで鳥尾が言いたかったことと言うのは、「古の聖人たちというのは私利私欲で天下を治めるということは決してなかった(むしろ、私利私欲でことにあたったならば誅される)」ということであって、政党内閣を叫ぶ者たちがやっているのは民権を勝ち取るということではなく、「薩長藩閥に負け現政府のやり方が気に入らないから、自分たちが政権をとるために」やっているのではないか、それではだめだ、っていうことなんじゃないかと思ったので…。
おそらく鳥尾にとっては『政党』というものが理解できなかったのでしょう。
『政党』は各派の主張があり、目指す道がある。鳥尾にとっては目指す道というのは一つのはずなので、『党』はいらないはずなのです。

だって江戸幕府を倒して新政府を作り、藩を潰してきたのですよ、明治新政府は。
藩閥といえど、明確に境が引かれていたものを無くして無くして、なんなら「朝廷」という枠組みすら取っ払って、すべてを天皇の名のもとに『明治新政府』に集約したのが、彼らが西南戦争を経て作り上げた日本国なので、『党』という境が新しくできるということは「なんで取っ払ったもんが新しくできるんだ???」状態だと思うのですよ。
じゃあなんで自分も保守中正派作ってるんだという話ですが、党が出来てしまった以上、彼が思う「ほんとは党なんかなくたってよくて、こういう思想で政府はできた」っていう領域を作っておかないと、その思想自体が消えてしまうからではないかと。かと、私は今まで追いかけてきていて思ったのですけれども…。
正直鳥尾にとっては保守中正派は手段なので、目的でもないので、執着はないのだろうと。

だから、鳥尾は民権を抑えたいわけでもなく、易姓革命を容認しているわけでもなく(どうみても例でしょコレは)、『新政府=天皇』が進める政策に対し政党政治を第二維新と叫ぶ輩が出てきてしまったから、ふざけんなよってなっているのでは無いか。
維新で鳥尾達がやり遂げたのは、幕府を倒し天皇を据えることです。
欧州で民権派が唱えた結果起こった(当時の政府側にとって)最悪だった出来事は、フランス革命だったことを考えると、私が当時を生きていたら、普通に、「王政廃されちゃうんじゃないか?」って感じたと思います。
そんなわけねぇだろ、っていうのが最後の鳥谷部さんの畳みかけるような言葉でありますが、「幕府が倒れる?そんなわけねぇだろ」をやってしまった張本人たちからしたら、藩というものすらも無くしてしまった側からしたら、そんな保証は絶対にないし、信用できないと思う。

岡本柳之助の回顧録で、西南戦争時に「もし西郷に負けたらどうする」的な話になったとき、鳥尾が「負けたっていいじゃないか。西郷がやるだろ」と言ったのは、あながち岡柳が盛った話では無いのではないかと思っているのです。
西郷は『倒幕』の側だったので、仮に新政府側が敗れたとしても、戦功をあげた人々の意を汲んで士族の特権を増やすくらいはするかもしれませんが、天皇を廃するということは絶対にしないと思ったのではないかと。どちらかというと新政府のトップが大久保ではなく西郷にすり替わるくらいの違いしかない、と考えていた気がします。
ところが、政党政治を唱えている層というのは、板垣大隈はさておき、明治新政府の掲げていた国体を護持する思想があったかといえば、そんなことはないと思うのです。
変な話、だからこそ鳥谷部さんはここで最終章にその話をあえて持ってきたのではないかと。
鳥谷部さん自身がどうこうというわけではないですが、彼は島田三郎の意を経てジャーナリストとして育った人物で、創刊間もない太陽で彼が明治31年11月までに書き上げた人物たちをみても、彼の『心術』的には政党政治を疑うことなく善とする思想側であったのではないかと思うのです。

没後100年 鳥谷部春汀と「太陽」 - 青森近代文学館記念展示室
https://www.plib.pref.aomori.lg.jp/top/museum/syuntei.html
※2023/12/09 追記※ リンク切れのためリンク解除

板垣退助について、維新を未だに生きているという表現がありましたが、板垣は「明治」を生きていたと思います。
明治維新で掲げられていた一部の思想を彼は確かに持ったまま生きていったでしょうが、だからといって鳥尾がそれをもっていなかったかと言ったら、私はやはりそうだとは思えないのです。
しみじみ、0か1かの議論ばかりで、片方を善とすると片方が悪になり、一方を認めると一方を不可にするってことかみたいな話の連続だったのだなと。(それに関しては鳥尾もですが)

ぶつかって削りあって「良い感じに角が取れて研ぎ澄まされたものが残った」のが人類ではありますが、そろそろその無駄にぶつかるの止めないか…と、明治の代をみても、現代をみても、ただそればかりです。

 

5.雑感の結び

『されど彼れは世界之日本記者の想像するが如き、陰険の人物に非ず』以降の部分は、鳥尾をやっていて正直過去一で腹がたった下りでありました。なんやそのフォローして落とす書き方。
いや、鳥谷部さんは悪くないですよ、この方はジャーナリストとして仕事をしたまでであって、時には厳しい批判をすることも必要でしょう。

 

しかし、自ら足を運び自らの目と耳で得た情報を精査し世に送り出すことがジャーナリズムの本来の姿であるならば、本人存命にも関わらず、噂話と他人の記事の引用で「勘当少年」と結んでしまうこの記事に対しては、私は一生好きになれないと思います、心情的に。

 

参考文献・サイトさま

今回記事のなかで主に巣鴨監獄系のことを記載するにあたって下記を参考・参照させていただきました。

・江連崇「監獄関係雑誌上における監獄教誨と宗教の関係性についての議論:1888年から1898年までを中心に」『道北福祉』(2015)
⇒科研費研究のため、KAKENにて参照できます。

・碧海寿広「近代真宗とキリスト教ー近角常観の布教戦略ー」(2011)
⇒J-STAGEで公開されています。

※「ともしび」は東本願寺が発行する月刊聞法紙です。
819号(2021年1月1日発行号)は現在インターネット上でも公開しているサイトさまがあったのですが、著作権的に許可をとっているのか判別がつきませんでした。
購読する際は東本願寺出版さまから購入されることを推奨いたします。

 

 

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