【鳥尾小弥太】鳥谷部春汀による鳥尾評02ー太陽4巻22号(1898) 居士の性格ー

博文館から発行された太陽4巻22号に掲載された、鳥谷部春汀の鳥尾評について三回に分けて紹介します。
今回は第二回です。
前回はこちら。

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今回紹介する人物評は『春汀全集 第2巻』に収録されており、国デジさんで公開されています。

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本文

其二 居士の性格

余は彼れの思想を説明する前に、先づ彼れの性格を觀察せざる可からず。彼れの原姓は中村と稱して長州藩士の家に生る。其鳥尾と稱するは、實に彼れの自ら選みたるに由れり。而して此自選姓氏は、少なくとも彼れが性格の一半を説明するに足るものあるを知らざる可からず。蓋し彼れが會て長藩の奇兵隊に在るや、亂暴無状、慓悍太甚だし、父母其累の一家には及ばむことを懼れ、籍を除て之れを放逐す、此に於て彼れ自ら鳥尾と名乗りて京攝の間に流浪し、盛んに勤王討幕の説を唱へて意氣軒昂たり。以て其生来の不覊不屈なるを見る可し。
彼れ未だ三十に満たずして旣に陸軍中将に任ぜられ、先輩山縣有朋と其位地を侔うす。十年西南の役起るに及で、行在所陸軍事務取扱を命ぜられて作戰計畫の機務に當る。即ち今の参謀本部長の職權なり。官軍の敗報頻りに到るや、彼れ近衛兵を派遣して、鎮定の功を速かならしめむとす。大久保甲東其牙営を空虚にするの危険なるを慮りて之れに反對したれども、彼れ固く自家の方針を主張し、論争終日にして決せず。甲東及ち之れを木戸松菊に諮る。松菊亦之を不可として論辦甚だ勉めたるも、彼れ尚ほ肯むせずして遂に近衛兵を派遣す。何ぞ其れ傲岸なるや。
『日本人』の候鯖録記者彼れの逸事を記して曰く

十年の亂、木戸松菊京都に在り、山縣含雪に謂て曰く、吾固より南洲今年の事あるを慮かり、數々公等と之れを斫らむことを言ふ、公等従はず、今竟に如何、且つ南洲九國の健兒を從かひ率ひて東上す、是れ足利尊氏西海の兵を擧げて京師に入るの勢なり、吾寧ろ先一番に敵彈に中りて、楠公と地下に遊ばんのみと、中将鳥尾得庵坐にあり晒りて曰く、閫外勝を策するは、武将の任なり、公は大臣留て、天子を輔弼し、以て四海の重望を繋ぐべし、是れ其職にあらずや、松菊方に醉を被り赫怒して曰く、豎子敢て爾るかと、直に起ち其の手を拉ち、忽に門外に出て車を命じ、共に大久保甲東の舎館に至る、時方に夜半、甲東之を聞き、遽かに起て之を迎かへて曰く、二君俄に来る、天下果して何事を生ぜしか、得庵乃ち具さに之を陳ず。松菊益々怒て曰く、豎子尚ほ喋々、乃公の事を敗るかと、直に席を蹴り辭して去る、得庵乃ち留りて徐に計を述べ、固く松菊を留めむことを請ふ、甲東亦以て然りとなす、松菊旣に甲東の館を出て寓に歸る、明日詔あり之を召す、時に大久保甲東亦入朝す、天皇親ら二人に勅して曰く、今や西陲擾亂、國家多事、汝等皆共に朕の股肱腹心なり、其れ留りて輔弼し、以て速かに平定の功を帷幄に奏せよ、其出征大将の如きは、朕旣に別に人を欽差し、以て事を處せしめむと欲す、汝等謹で朕の意を體せよ。二人感激恩を謝して退く、是の日得庵亦命を奉じて、御前に伺候し、奉對する所あり、旣に退き将に呼ぶ者あり、顧みれば則ち孝允なり、顔色沸然懌ばず曰く、昨夜吾歸るの後、爾果して何事を以て大久保に語るかと、得庵具さに其言を述べ、且つ其の速かに奏請して松菊を留んことを嘱するを以てす、松菊聞き畢り笑ふて曰く、圖らざりき、吾竟に豎子に一籌を輸せんとは(日本人第七十四號)

余の記憶する所に據れば、當時木戸大久保の二人互ひに聖征西大将たるを争ふて休まず、天皇乃ち二人に勅して、留まりて輔弼の任を盡さしめ、事漸く定まるを得たりといふ、是れ『日本人』の記事と少しく相違するの點なれども、居士が實際の参謀本部長として、閫外の機務を總督するに於て、斷々乎して木戸大久保の戰地に臨むを拒みたるは。事實なりしが如し。
之を聞く大久保甲東の威權赫たる方ては、満朝悉く慴服して敢て仰ぎ視るものなし。唯だ得庵居士及び故陸奥伯のみ容易に膝を甲東に屈せず、特に居士の頑獷鷙悍最も甲東の忌む所たりきと。元来居士と陸奥伯とは、共に詭辦縦横の論客として久しく幷び稱せられたりと雖も、居士は陸奥伯に比して更に一倍の深刻と執拗とを有せり。會て陸奥伯の租税頭たるや、居士は兵學頭たり。日に往来來して機鋒を闘はす、一日居士陸奥伯に問ふて曰く、汝と我と優劣如何。陸奥伯聲に應じて曰く、我は優れり。曰く何を以て優れる。曰く我れ若し勉強せば兵學頭たるを得可し。汝、措大漢終に租税頭たるの理財的才能なしと。居士此侮辱に耐へずして、絶好書を贈りたりと云ふ。其反感に猛烈なる想ひ見る可し。
今の内閣總理大隈伯が、前年黒田内閣の外務大臣として條約改正の斷行を圖るや、居士大に改正案を非とし副嶋、海江田等の保守論者と相携へて外務省に抵り、大隈伯に面して難詰三時間餘、其の辛辣危激の語法頗る大隈伯を窘む。而も伯が居士等の提言を峻拒するや、居士言を改めて曰く、足元旣に我等の忠告を容れず、是れ政治的絶交なり。我等は更に運動の別手段を取る可きのみと。而して餘ます所のものは唯ら双方の惡感情のみ。居士の言動は大率此類なり。
居士は狷介にして獨斷的なり、故に其組織せる保守中正派は、少數の門下生を有するの外、毫も天下の同情を博する能わず。彗星の如く現れ、彗星の如く感して、政界復た其殘壘を留めず。國會開設せらるゝに及て、彼れ選まれて貴族院に出でたりしも、其の言動の偏狭なるを以て議場に信ぜられず。彼れも亦遂に意を得ずして、去つて樞密院に隠れ、随つて得庵の名殆と世間に忘れられたりき。何ぞ料らむ、彼今闇黒を破つて突然再度の政治運動を試みむとは。此に於て余は少しく彼に就て語らざる可からず。

 

意訳


其二 居士の性格

わたしは得庵居士の思想を説明する前に、まず彼の性格を観察しないといけない。
彼の本来の姓は「中村」といって、長州藩士の家に生まれた。それが鳥尾と称しているのは、実に彼が自ら選んだことによっている。そうしてこの姓を選ぶに至ったことは、少なくとも彼の性格の一片を説明するのに必要なものであることを知っておくべきだ。まさしく彼がかつて長州の奇兵隊にあった際、乱暴で無作法な粗暴者であったので、父母は一家に累が及ぶことを恐れて籍を除き勘当した。これによって、彼は自らを鳥尾と名乗って京大阪の間を流浪し、盛んに勤王倒幕の説を唱えて意気軒高であった。その生来の不羈奔放なさまをこれでみることができよう。

彼は三十歳を越える前にすでに陸軍中将に任ぜられ、先輩である山縣有朋とその地位を等しくしていた。明治10年の西南の役が起こるに及んで、行在所陸軍事務取扱を命じられ、作戦計画の政務にあたった。すなわち、現在の参謀本部長の職権である。
官軍の敗報がしきりに届くので、彼は近衛兵を派遣して鎮圧を早めるよう提案した。大久保利通は、政府の本拠地を空にしてしまうことの危険性を危惧しこれに反対したが、彼もこの自論を強く主張し、論争は終日決しなかった。大久保はこれを木戸孝允に相談し、木戸もまたこれを不可として説得に努めたが、居士は納得せず、ついに近衛兵を派遣した。なんと傲岸なことであろうか。
『日本人』のとある記者が彼の逸事を記していうには

明治十年の乱のとき、木戸孝允は京都にいた。彼は山縣有朋に対し、「わたしはもとより西郷隆盛が今年のようになることを用心しており、度々君たちと彼を斬ろうと言っていた。君たちは従わず、今遂にこの通り西郷は九州の者たちを従えて東上しようとしている。これは足利尊氏が西国の兵を挙げて京都に入ったような勢いである。わたしは先陣をきって敵弾にあたって、楠正成公とあの世で会うのみである」と言った。
陸軍中将鳥尾得庵もその場におり「戦場の外にあって勝利を得る方法を考えるのは、武将の役割です。あなたは大臣であるので、天皇を助け世の中の期待を繋ぐべきです。戦略を練るのはその職にある方の仕事ではありません」と言ったのだった。木戸は気分を害し激怒して「若造がそのように言うのか」と中将の手をつかんで立ち上がり、そのまま門外に出て車に命じて大久保利通の屋敷へ向かった。時刻は夜中であった。 

大久保はこれを聞きにわかに起きると彼らを迎えて、「急にお二人で来られて、天下に何事かあったのですか」というと、得庵はあったことを述べて訪問を詫びた。木戸はますます怒って「君はなお私に恥をかかせるのか」と席を蹴って辞し帰っていった。得庵はなおも留まって、大久保に自分の計画を述べ、固く木戸を留めてもらうように依頼し、大久保は承諾した。 

木戸はすでに大久保の屋敷を出て自宅に帰っており、翌日天皇からの呼び出しがあって大久保とともに参内した。天皇は二人に対し、「今や西は西郷の乱で乱れており、国家としてやるべきことは多い。汝らはみなともに私の最も頼りとする腹心である。ここに留まって、私を助け、もって速やかに平定できるよう本営に伝えよ。出征する大将は私がすでに別の者をやって任にあたるように言っている。汝らは私の意を組んで体現せよ」と述べた。二人はその言葉に感激し、その恩に謝して退席した。 

この日得庵もまた命をうけて御前に伺候し、天皇へ拝謁していた。それが済んで退席したところ彼を呼ぶ者があり、振り返ると木戸であった。いぶかしむような顔で、「昨日、私が帰ったあとに君はなにを大久保に言ったのか」と言う。得庵は、速やかに奏上して木戸を留めておいてほしいと言うことを託したということを述べたと詳細に伝えると、木戸は「君にしてやられた」と笑った。
(日本人第七十四号)

私の記憶するところによれば、当時木戸と大久保の二人は互いに西南の役を鎮圧する大将の座を争って休まず、天皇は二人に対しここに留まって輔弼の任務を尽くすようにいい、ようやく落ち着いたのだという。これは『日本人』の記事と少し違う点ではあるが、得庵居士が実際に参謀本部長として戦場外の政務を取り仕切っていたので、木戸と大久保の戦地に臨もうとするのを拒んだのは事実であったかもしれない。
これに登場した大久保利通の威厳あるさまについては、みなことごとくひれ伏しており逆らう者は当時いなかった。ただ、得庵居士と故陸奥宗光伯のみが容易に大久保に屈せず、特に居士の頑なで荒々しいところは大久保も嫌がっていた。

元々、居士と陸奥伯爵は共に詭弁縦横の論客として久しく並び称されたが、居士は陸奥伯爵と比べるとより深刻で執拗なところがあった。
かつて陸奥伯爵が地租改正局長であった時、居士は兵学寮頭であった。日に往来しては議論をしていたが、ある日居士は陸奥伯爵に「俺とお前とどちらが優れているか」と言い、陸奥伯爵が「私が優れている」と応じる。居士が「何をもって優れているのか」と言えば、「私がもし勉強すれば兵学寮頭になることをは可能だろう。君は貧乏書生なので地租改正局長たる経営手腕はない」と陸奥伯がいい、居士はこの侮辱に耐えられず、絶好書を送ったという。この反感に彼の猛烈な思いが見える。

今の内閣総理大臣である大隈伯爵が、前年黒田内閣の外務大臣として条約改正の断行を図ると、居士はこの改正案を非として副嶋種臣、海江田信義などの保守論者と共に外務省に抵抗し、大隈伯爵に面会して問い詰めること三時間余、その辛辣で過激な物言いに頗る大隈伯爵は辛苦した。しかも大久保伯爵が居士の提言を拒絶するや、彼は言葉を改めて「あなたは私たちの忠告を容れず、これは政治的な絶交である。私たちはさらに反対運動として別の手段を取るのみです」と言ったのだった。残ったのは双方とも嫌悪感だけであったが、居士の言動はだいたいこのようなものであった。

居士は狷介にして独断的であり、それゆえに組織した保守中正派は少数の門下生を有するのほか、ちっとも世の中から賛同されなかった。彗星の如く現れ、彗星の如くに、政界にその残塁を留めておくことは彼にはできなかったのだ。
国会が開設されるに及んで彼は選ばれて貴族院に出ていたが、その言動の偏狭なるために議場においても信じて貰えず、ついに彼も意を得ずに去って貴族院に隠れてしまったので、得庵の名はほとんど世間に忘れられてしまったのである。

そんな彼がいま暗黒の時を破って再度政治運動を試みるとは、どういうことであろうか。これについて私は少し彼について語るとしよう。

雑感


鳥谷部さんのディスり炸裂し過ぎてて爆笑してしまった。

最近意訳を本当にかなり意訳にしているのですが、それでも隠し切れないにじみ出る史上最高の鳥尾ディスりに声上げて笑ってしまった。面白過ぎではないか。
鳥尾が『恵の露』を執筆しようと思ったのはこの冒頭にある放逐話を、近世偉人百話などでおなじみの中川克一さんが「親不孝だから訂正しなさいよ」と常々忠告してくれていたのだけどそのままにしていて、でも太陽を見てだめだと思った(意訳)ということだったんですが、あのお母さんっ子で肝っ玉お姉さんを抱える中村くんちの一之助さんが真っ向正面から親不幸をする説を流されるほど明治期鳥尾は面倒くさかった荒れていたのだなと…としみじみ察しました。

『候鯖録記者』をなんて訳そうかな…と思ったのですが、儚いとかそういう感じの例えのようなので「とある記者」くらいにしておきました。
もうこのとある記者の残した木戸さんとの話にお腹抱えて笑ってしまったのだけど、このシーンをマンガか大河ドラマで観たいわ…。尊氏が西海から~の下りは、足利尊氏が後醍醐天皇を一回潰そうとしたけど敗走して西へ逃げて、九州で豪族味方につけて再度京へ上ってきて結果天皇を隠岐へ流して幕府作っちゃったところから西郷と重ねているのでしょうけど、幕末の志士たちほんとに南北朝(というか楠木正成)好きだよなと思います。

そんな激怒した木戸さんが夜中に大久保邸突撃するの最高ではないかと思うし、これ三傑死んでるとはいえ明治に書かれたと思うと笑うしかない。なんだかんだ言って、「国を憂いて幕末を掻い潜っていた俺に対する文句は大久保!お前も言われているようなもんだろ、えぇ!?どう思うお前からも何とか言ってやれ!!」感がすごいし「天下果して何事を生ぜしか」で塩対応する大久保さぁもまさに大久保さぁだし、「こういうことがあったんです」って素直に言っちゃう鳥尾も鳥尾で 最 高 
まぁこれに関しては創作色も強いのかなと思いつつ、鳥尾の恵の露での『先輩木戸大久保兩氏に對しての事杯も、誤りあれど、些末に渉れば、敢えて辯ぜず。』とかいう言い方もあれなので似たようなことはあったんだろう…というのでモデルになったのであろう話として頭をよぎるのは岡本柳之助の桶狭間のお話ですね。
知りたい時の頼れる国デジさんの 27/177コマからどうぞ。

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そして陸奥との話。これは元はこれですね。
なお陸奥が租税頭的な役職についていたのは明治5(1872)年6月の、大蔵省租税頭出仕の時期のことだと思います。鳥尾を始め四将軍がのちにブイブイやることになった地租改正(反対)運動のもとになった提言は、実は陸奥だったのですがこれはまたそのうちに。
この時期の鳥尾は兵学寮頭や陸軍の軍務局長を担っており、話としてはまぁ辻褄はあうのかなぁと思います。

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鳥尾に商才がないのは私も賛同する…のですが、陸奥も陸奥で軍職についたら光成的扱いを受けそうなのでみんな適材適所でよかったね。
当時の陸軍省が今の国立国会図書館あたりで、大蔵省が将門塚のあたりだったと思うと往来するの煙草休憩じゃ収まらない時間でしょ、と思うと、令和を生きるサラリーとしては雑談に収まらないおサボりに憤ってしまいますが、推しなので許します。
大隈の話から続いて最後に保守中正党の話でトドメを刺され、笑いも枯れてきて「もう勘弁してくれ…」というHP削られ具合なのですが、なんだかこういう文章を見ていると「鳥尾ほんとうに生きていたんだな…」と思ってしまう。
でももうちょっと手加減してくれても良いのではないか。