幕末維新歴史ネタ鳥尾小弥太

【鳥尾小弥太】鳥谷部春汀による鳥尾評01ー太陽4巻22号(1898) 居士の言動ー

概要

鳥谷部春汀と太陽

鳥谷部 春汀(とやべ しゅんてい)は、明治期に活躍した青森県出身のジャーナリストです。
人物評を得意とし、毎日新聞社や報知新聞社、そして今回紹介する博文館の『太陽』という雑誌で筆を取っており、維新期資料で国デジさんにお世話になっている方ならば、名前は知らなくても彼の書いた評伝や逸話を目にしているのではないかと思います。


※写真は管理人所蔵物

雑誌『太陽』は、明治28(1895)年1月から、昭和3(1928)年2月まで発行されていた、博文館の総合雑誌です。
巻数も多く発行年も古いことから紙媒体を入手することは容易ではありませんが、現在はジャパンナレッジ経由で電子媒体提供されています。

 

太陽4巻22号(1898)について

そんな太陽の第4巻22号で、鳥谷部が鳥尾に関する評伝をあげています。
これに対し、のちに鳥尾自身が『玆に太陽第四巻の二十ニ號に、余の性行を論じて有るのを見るに、彼の誤りを傳へたるものを引て書てある。さすれば誤りも正して置かぬ時は、事實として何處までも傳はると云ふ事に心付き、余が實歴を講話して置かうと思ふ。』として、『恵の露』という小伝を著しました。

この『誤り』というのが鳥尾に関しては通説化している来歴でもあるのですが、いったいどんな書かれ方をしているのだろうか…とずっと気になっていて、今年の初めにめでたく太陽を購入することができたので、本文の下記の章に併せて3回に分けてみていきます。

・其一 居士の言動
・其二 居士の性格
・其三 居士の思想

なお、この太陽収録の鳥尾評伝は、現在は下記に収録されていますので、興味のある方は国デジさんへどうぞ。(見た感じ、『太陽』から大きな改変はないようです)
82/339コマからです。『恵の露』が発行された後に書かれた「 得庵居士とポベドノスチエッフ」という評も、時系列を分かったうえで読むと面白いです。

なお、雑誌原本が購入できたので『太陽』の目次ページの写真も当初載せようかなと思ったのですが(曾我様や西村茂樹さんなど最近扱った方々の名前もみられるので)、上述のジャパンナレッジ版が「日本近代文学館」さんというところから刊行され直しており、版権がグレーかなと思ったのと、そもそも電子版が有償提供されていることから止めました。
日本近代文学館さんは友の会もあり維持会員になると税控除も受けられるようです。

 

本文

鳥尾得庵居士
鳥谷部春汀

其一 居士の言動
明治十五六年の頃と覺ゆ、或る一小冊子の中に、鳥尾得庵居士を日本民権家の一人に加へたる記事ありしを見たることあり。當時余は得庵居士の如何なる人物なるを知らず。唯だ彼は長州出身の陸軍中将にして、最も韜畧に長ずるの武人なるを耳にしたるに過ぎざりき。其後偶然彼の著書『王法論』を讀みて、略々其思想を窺ふことを得、以爲らく得庵居士は支那敵政論家の頭脳を有する剛直の士なり。是れ其の民権家と稱せらるゝ所以なるばえし。されど彼は決して西洋の所謂る民権家に非ざるのみならず、又立憲國の王法を解するものに非ず。其説く所は總べて是れ儒教の旨義を祖述したるに外ならずと。但だ余は彼の王法論に據りて彼が民権家たらざるを知ると共に、又彼れが決して單純の一武人に非るをも知り以て漸く彼れの言動に注目するに至りたりき。
旣にして二十一年彼れ自ら一政黨を組織し、稱して保守中正派といひ、又『保守新論』と題せる雑誌を刊行して、其主義政権を發表するの機関と爲し。始めて政治家としての得庵居士あるを一般に認識せしめたり。彼は立黨の趣意を宣言して曰く、

保守とは守成を主とし、結果を受用するを目的とす。今此義を明かならしめん爲に、之が反對を示す可し。我反對説を改進急進と爲す。此改進急進論者は、結果を棄て、偏に想像を目的とし、國家を改造せんと欲する者なり。此國家改造の設は、其底止する所を知らず。故に國家を常に構造中に置き、試験中に置く者なり。若し保守黨あつて之を制すんば、危険之より甚しきはなからん。

彼れの所謂る改進急進は、單に當時の在野黨が主張せる進歩主義に對して之を言ふのみに非らざりき。何となれば當時の在野黨に反對せられたる伊藤内閣は、其急激なる謳化政略を施したるに於て、亦彼れが爲に改進急進の所属と見做されたればなり。則ち彼は國家の体相を維持するを終極の目的と爲し。當時の進歩主義及び謳化政略を以て此目的と衝突するものとしたりしが如く。此思想の表面は頗る獨逸學派の國家論に似たりと雖も、其内容は寧ろ支那の儒教を細胞としたる一種の保守論なり。蓋し彼は東洋の學問を以て國家主義の進歩したるものと爲し、西洋の學問を以て社會主義の發達したるものと爲し、西洋に於ける國家學は、社會主義の國家學派たるに過ぎずとせり。彼れ會て國家學會に國家主義を演説し、東洋に於ける國家の起源に論及して曰く、

東洋の國家は、總べて一族より發達せり。此一族より發達せる國家に於て、主権とか王権とか云ふもの自然に生じ來り、其主義を握て、一般の人民を子の如く愛し、人民も亦之を仰て父と頼み、其権力の正當に施行せらるゝことを希望したるに相違なし、されば支那人が今日に於ても、我國は聖人の國なり。先王の國なりといふは、是れ皆古の主権者を嘆美賛稱しつゝ、其國家の観念を実現するものなり。此観念が則ち國家主義の土臺にして。此土臺に由りて學術も攻究せられ、利害損失も攻究せられ、漸く文化の進歩を爲し來れり。(廿六年十二月十五日發行國家學會雑誌)

彼は斯くの如き見解に據て支那の儒教を國家主義なりと斷定し、儒教を以て國家の体相を維持せむとし、其極動もすれば謳州文明の輸入を否定せざむとするの傾向ありき。知らず此見解は如何なる意義を含蓄する乎。

※少しフォントを小さくしている箇所は、引用文のため『太陽』にて実際にフォントが小さくなっています。

 

意訳

其一 居士の言動

明治15、6年頃だったと思う。ある冊子のなかに、鳥尾得庵居士を日本民権家の一人に加えている記事を見たことがある。
当時わたしは得庵居士がどんな人物であるかを知らず、ただ彼は長州出身の陸軍中将で、最も戦略に優れている武人であることを耳にしたに過ぎなかった。
その後、偶然彼の著書『王法論』を読んでほぼその思想を知ることができた。おそらく、得庵居士は清を敵国とみなす政論家の頭脳をもった剛直な人である。それが民権家と称せられる所以であろう。しかし彼は決して西洋の、いわゆる民権家ではなかったし、立憲国の王法を理解していたわけでもなかった。その説いているところは、すべて儒教の教えに基づいて述べているということにほかならない。
ただ私は彼の『王法論』によって、彼が民権家というには十分でないということを知るとともに、決して単純な一介の武人でもないのだということを知り、ようやく彼の言動に注目するに至った。
すでに明治21年には彼は自ら『保守中正派』という一政党を組織し、また『保守新論』という雑誌を刊行してその主義政権を発表する機関とした。始めて政治家としての得庵居士を一般に認識させたのだ。彼は立党の趣意を宣言していうには、

保守とは受け継いでそれを固め守ることを主とし、結果を受け入れることを目的とする。今この意味を明らかにするために、保守の反対を示しておく。
私の言に反対する説を唱えるものを改進急進とする。この改進急進論者は、結果を棄て、ひとえに想像を目的とし、国家を改造しようとする者である。この国家改造の設は、終わりはない。ゆえに国家は常に構造中であるとみなし、常に試験中と考えている者である。
もし保守党があって国家の形を意のままにしようということであれば、これ以上危険なことはない。

彼のいわゆる改進急進は、単に当時の野党が主張する進歩主義に対して言っただけではない。どういうことかというと、当時の野党に反対された伊藤内閣は急激な欧化政策をすすめたので、このために改進急進の所属と見なされたからである。
すなわち、得庵居士は国家のすがたを維持することを最終の目的とし、当時の進歩主義および欧化政策の目指すところとは衝突すると考えていたようであった。
この思想の表面は非常にドイツ学派の国家論に似ているといっても、その内容はむしろ支那の儒教を基盤とする一種の保守論であった。考えてみるに、彼は東洋の学問のことを国家主義の進歩したものとし、西洋の学問のことを社会主義の発達したものとし、西洋における国家学は、社会主義の国家学派に過ぎないとしていた。彼はかつて国家学会に国家主義を演説し、東洋における国家の起源に論及してこのように述べた。

東洋の国家は、すべて一族より発達した。
この一族より発達する国家において、主権とか王権とかいうものは自然に生じてきたのだろう。上に立った者はその主義を握って一般の人民を子のように愛し、人民もまたこれを仰ぎて父と頼み、その権力が正当にふるわれることを希望したに違いない。
されば、支那の者が今日においても、「我が国は聖人の国である、先王の国である」というのは、これみな古の主権者を賛美賞賛しつつ、その国家の観念を実現するものである。
この観念がすなわち国家主義の土台であって、この土台によって学術も研鑽され、利害損失も研鑽され、ようやく文化の進歩を成し遂げてきたのだ。
(明治26年2月25日発行 国家学会雑誌)

彼はこのような見解によって支那の儒教を国家主義と断定し、儒教をもって国家のすがたを維持しようとし、それを突き詰めれば欧州文明の輸入を否定しないとする傾向がある。さて、この見解はいかなる意味を含んでいるのであろうか。

 

雑感

後半の其の2、其の3になるにつれ「あれ、もしかしてディスられている…?」とじわじわ感じてくるのですが、だからこそ『唯だ彼は長州出身の陸軍中将にして、最も韜畧に長ずるの武人なるを耳にしたるに過ぎざりき。』が、いやこれもちょっとディスってるだろという気がしないでもないけど、最盛期に陸軍No.2になったことを感じるので勝手にドヤァってなります。

『保守とは守成を主とし、結果を受用するを目的とす。』から始まる鳥尾の掲げる思想を鳥谷部さんが「それって儒学(朱子学)じゃん」と言っているだけの其の1なのですが、維新で彼らが幕府の代わりに築こうとした「国家のかたち」が天皇を頂点としたものであったことを冷静に考えると、それに対しては忠実であることは間違いありません。

天皇を中心とした宮廷に受け継がれている文化を否定し打ち消していくならば、幕府を廃して天皇を頂点にする国家とする意味があったのでしょうか。
天皇親政を謳い、その土台として日の本は天皇の国であり天皇は臣民の父であるということを掲げて自らの正当性を掲げてきた人々が、「主権」や「王権」を否定するのであれば、戴いている神輿はいったい何なのでしょうか。

私は長州では久坂玄瑞が好きなので、久坂VS長井雅楽の流れと、結局は長井さまが描いていたことと同じことをしていった長州藩の流れにはなんともブルーな気持ちになってしまうのですが、会津もしかり徳川もしかり、そして明治初期のこれもしかり、過去から未来永劫変わらず確かなことは何もないのだとつくづく思います。
あれだけ正義だと思ったことが明日には悪とされているかもしれないし、どう考えても筋通っているでしょってことが、掲げている旗が変われば色物だと思われてしまうこともあるでしょう。
「ただ政見の異同によるのみ」と原敬が言っていましたが、これは忘れてはいけないことだと思うのです。
時代というのはイキモノで常に変わり続けるので、今日言ったことが明日もそのまま同じことを言って『ベスト』だということは、絶対にないのです。違っていることを責めるのは誤りでも間違いでもないでしょうか、最善でもない。
だからこそ、その言葉、その行動の根底に「いったい何があるのか」を知らなければ、変わっていくものの中でその本来の形に触れることはできないのだろうと思います。

そうして考えると、鳥尾の掲げていた『結果はどうであれ受け継いで守る』としたものは、明治維新で彼が所属していた組織の掲げていた『正義』と、全く反していないのだということに気付くのです。
鳥尾は「欧州に倣って近代化する日本」からは取り残されているのでしょう。
なぜならば彼は、奇兵隊時代から長州を始め倒幕勢力が掲げていた、「徳川将軍を廃して天皇を中心とした国家を目指した日本」を、明治末期になっても未だにみているのだと、今回改めて一文字一文字追いながら思いました。
そう思ってから改めて彼の著作を読み返すと、今までと全く違う色が見えるのです。
ものすごく雑な言い方をすると、鳥尾の著述のなかに、『幕末』の頃の勤皇がみえてきて、私はそこに高杉や鳥尾の会ったことのないであろう志士たちの熱を感じるのですが、それを思ったときになんだか堪らなくて涙が出てきてしまいました。
雑感という名の妄想がものすごく長くなってしまった…。

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