著作鳥尾小弥太

【鳥尾小弥太】兒戀草003

概要

本文

王侯も人なり。匹夫匹婦も人なり。福禄同じからずといへど。人の徳人の道に兩般なし。各其分限に應じて受用すれば。衣食おのづから餘あり。十善法語の不貪欲戒に。世の人暴飲過食して生を傷ひ命を失ふものは比々たり。飢餓凍餒して死するものは。萬人中に一二を數ふべからずといへり。これ誠に實語なり。偶々不幸にして乞食非人と成り果るものありと雖も。是等も大概は放恣無頼にして。職をつとめず。業を勉めざるものゝ果報なり。
王侯も自ら其徳を徳とせず。其福を福とせず。求めて厭かざれば。苦悶煩悩止むことなかるべし。古歌に。
樂しみは夕顔棚の下すゞみ。男はてゝれ女は二布して。
其體は賤しげなれど。其心に名聞を慕はず。區々容體を繕はず。己(*1)が廬を愛し。吾食を甘しとして。行其外を願はざる。匹夫匹婦にして。其樂しみ王侯に過ぎたり。論語に一箪食。一瓢飲。在陋巷人不堪其憂。回也不改其樂と。孔夫子も賛し給ふ。又衣敝蘊袍興衣狐貉者立。而不耻者。其由也興。又曰飯疏食。飲水。曲肱而枕之。樂亦在其中矣。不義而富且貴。於我如浮雲と。齊の晏子は。一狐裘三十年。若し疏衣疏食を以て耻となさば。聖人賢人斯く稱し給ふ謂れなし。孟子曰飽食暖衣逸居而無教近於禽獣と。されば人は徒に富貴に居るべからず。貴くして徳なく。富みて禮なくば。人にあらず。禽獣の類に近しとなり。

*1 [王]の変体仮名のようですが、前後文より「己」と解釈しました。

 

意訳

王や諸侯も人である。身分が低い者もまた人である。幸せや富は同じとはいえないが、人として徳をつむ道はどちらも変わりない。各自はその身の程に併せてきちんと生きていれば、衣食は自然と余裕がでるはずである。『十善法語』の「不貪欲」の戒めによれば、世の人の中には、暴飲過食して体をこわしたり、命を落とす者がしばしばある。飢えて死ぬ者は、万人に1、2人を数えるばかりだという。これは事実である。たまたま不幸にして乞食や非人となりはてる者があるといえども、こういった人々は大概は好き勝手して仕事に付かず、やるべきことに務めてこなかったためにそうなったといえる。
王や諸侯も自らの身分を徳とせず、その富を良しとせず、さらに満足できなければ、苦しみや悩みは止むことがない。古歌に、「楽しみは夕顔棚の下涼み 男はててれ 女は二布して」というものがある。
その身は賤しいようであっても、その心は名声を得ようとせず、ちいさな自らを繕わず、おのれの居場所を愛し、日々の食事を良しとして、それ以外を望まない。身分が低い人々であっても、その暮らしは王や諸侯をも越えている。
論語に、「一膳飯に一杯酒で、裏店住居といったような生活をしておれば、たいていの人は取りみだしてしまうところだが、回(*2)はいっこう平気で、ただ道を楽しみ、道にひたりきっている」とある。孔子もこのような生活を褒め讃えておられる。
また、「やぶれた綿入を着て、上等の毛皮を着ている者とならんでいても、平気でいられるのは由(*3)だろうか」、また、「玄米飯を冷水でかきこみ、ひじを枕にして寝るような貧しい境涯でも、そのなかに楽しみはあるものだ。不義によって得た富や位は、私にとっては浮雲のようなものだ」ともある。
斉の宰相であった晏子(*4)は、狐の毛皮を仕立てた服を三十年着続けた。もし、衣食が粗末なものをもって恥とすれば、聖人や賢人とされた人々はこのような暮らしを送ってこられたのであるから、褒め称える理由がなくなってしまう。
孟子は、「飽食暖衣してぶらぶら暮らし、何も教化しなければ、ケダモノと変わりがない」といっている。
それゆえ、人は富貴にいるべきではない。貴い身分であっても徳がなく、富があっても礼儀がなければ、それは人ではなく、禽獣の一種に近いといえよう。
*2:顔回。孔子の弟子。孔子の後継者とも目されていたが、孔子より先に没する。
*3:子路。孔子の弟子。『論語』のなかで登場回数が一番多い弟子である。
*4:中国春秋時代(BC770-403)の斉の政治家。倹約家で主君に憚ることなく諫言を行い、名宰相とされる。

 

解説・補足

「匹夫匹婦」は、身分が低い、また、教養がなく道理をわきまえない者のこと。
『十善法語』は江戸中後期の仏書。人として望ましい道を生きるための10の戒めである十善を説いた書物である。
十善は下記の通りで、ここでは八番目にあがる「不貪欲」について諭している。

1.不殺生(ころさず):いかなる生き物も、故意に殺傷しない。
2.不偸盗(ぬすまず):与えられていない物を、故意に我が物としない。
3.不邪淫(おかさず):不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない。
4.不妄語(いつわらず):嘘をつかない。
5.不綺語(かざらず):中身のない言葉を語らない。
6.不悪口(そしらず):他者を誹謗・中傷しない。
7.不両舌(たばからず):他者を仲違いさせることを言わない。粗暴な言葉を使わない。
8.不貧欲(むさぼらず):物惜しみせず、飽くことなくモノを欲しがらない。
9.不瞋恚(そねまず):どんな時であれ、事であれ、怒らない。
10.不邪見(あやまたず):善悪業報、輪廻等を否定する)誤った見解を持たない。

「楽しみは~」は、江戸時代初期の「醒睡笑」という笑話集に収録された古歌で、国宝となっている久隅守景の「納涼図屏風」(※参考2)には、まさに詠まれている情景が表現されている。ててれは当時の男性の標準的な作業着で、二布(ふたの)は女性が腰に巻く下着のことを指し、食後に開放的な格好でくつろぐ庶民の姿を詠んだこの歌に、小弥太は牧歌的な徳を見出しているようである。
清貧を良しとする小弥太の考えは、論語等で培ったものだけではなく、彼自身が幼少期に父が死去したことにより一家離散となるなど、貧しい暮らしを送っていたことが要因であろう。

富に溺れず、と再三説くのは、三百年続いた徳川幕府が倒れ、それまで雲の上であった人々が没落する様と、その功績により自身が一代で子爵に列せられた現実を、小弥太自身が冷静に認識しているようで興味深い。

引用されている論語は下記の通り。
訳は「Web漢文大系」様を参照させていただきました。

一箪食。一瓢飲。在陋巷人不堪其憂。回也不改其樂 ⇒ 雍也第六 9
衣敝蘊袍興衣狐貉者立。而不耻者。其由也興。 ⇒ 子罕第九 26
飯疏食。飲水。曲肱而枕之。樂亦在其中矣。不義而富且貴。於我如浮雲 ⇒ 述而第七 15

 

参考

参考1)十善法語 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考2)納涼図屏風(久隅守景筆) - e国宝

また、記事作成にあたり、下記のサイト、ブログを参照させていただきました。
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変体仮名(へんたいがな)の一覧= 明治・大正・昭和初期を中心とした文献からの引用 = - みんなの知識 ちょっと便利帳

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