ここ3、4年は新しい資料も買わず、図書館に探しに行くようなこともしていないのですが、今年はGW以降マツノ書店さんより久々に久坂の資料が出るので、ワクワクしています。
とはいっても、他人からいただいたり、昔コピーしたり収集してきた資料でまだまだ読んでいないものもあるのも事実…。今日は久しぶりに「鳥尾ファイル」と名付けている、紙媒体の鳥尾関連の資料をまとめているファイルを開いたのですが、そのなかからいくつか備忘録。
華族名鑑
明治20年版と、明治27年版のコピーがあったので見てみたら、たいさん(鳥尾の妻)の誕生日が日にちまで書いてあったので、記事のほうに補足しました。
ちなみにこの資料に載っている家紋は、華族画報や華族大系とはまた別の、よく見る花菱のようです。
また、鳥尾家は「家扶」と呼ばれる、家内の会計や事務を行う人を一人、おいています。名前は「寺島大造」。この方は明治20年、明治27年いずれにも出てきています。
(全然関係ないですが、三浦梧楼の三浦家は、20年は一人だったのが、27年には二人に増えています)
華族名鑑は国デジで現在公開されています!
華族名鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション
千代子さんの話
華族画報(大正2年発行)の鳥尾家のところに、こんな補足が。
叔母廣子の方は日野西子爵の嗣子侍従従四位勲四等資博君に、同千代子の方は山口県の人伊藤柳太郎君に嫁せり
千代子さんといえば、鳥尾の「花園日誌」で出てくる子でして、鳥尾のお姉さんの子どもだったはず。
鳥尾が養女にしていたのですけれど、「同」(叔母)というくらいだから、かなり正式な形だったのかなぁと。ただ、家系図のほうや、別の資料の鳥尾家の「親族」の欄にはこの「伊藤」さんはまったく出てこないので、千代子さん一代のお付き合いだったのかなぁ…と思います。
しかし、華族画報の写真…鳥尾の孫世代(光君の子どもと、廣子さんの子ども)が一堂に介しているのですが、改めて見ると光くんの子どもたちは完全に「知勢」さん似で、廣子さんの子どもは半分半分だなぁとよく分かる…。
ということは、敬光氏の甘いマスクは知勢さんなのか…。こうして見ると、鳥尾小弥太の血というのは、面長なのかなぁと思います。
そういえば先日、国デジをウロウロしていたときに!ついに!!光くんの写真を見つけたのです!!!
それがコチラ!!
統一学社寄宿舎年報. 第2回(明治39年度) ※p3- 国立国会図書館デジタルコレクション
鳥尾小弥太+太以さん だ …!!!
なんでしょう…輪郭はそっくりなんですが、晩年はクリクリになったとはいえ、ギラギラした鳥尾(小弥太)の目とはやっぱりちょっと違いますね!太以さんはたれ目ですから、そこを受け継いでいるのか、なんだか優しい目元だなぁと思いました。
しかし画像ではやはり細部が見えませんね…現物を見に行くしか…!!!
現在は上記の資料は館内公開のみとなっているようです。
すでに鳥尾じゃないですが、上の光くんのURLを張るために国デジを開いて、ついでにちょっとウロウロしたら、郷土物語がいつの間にかアップされているじゃありませんか…!!!!!
郷土物語 第16編 小倉戦争 - 国立国会図書館デジタルコレクション
これものすごく見たかったのです…!!!!あああありがとうさすが国立国会図書館!!!!
山田鵬輔のところだけとりあえず読みましたが、うーん…こうなると奇兵隊日記をちゃんと読みなおしたいですね!
コメント
興味深く読ませていただいております。先日、井原高忠氏の訃報が新聞に載りましたね。以前に、引いておられた鳥尾敬孝氏のインタビュー記事にあるように、井原氏は日本のウェスタンバンド草創期に従弟の敬孝氏とバンドを組んでおられました。井原氏はその後日テレに入られたわけですが、この頃の雰囲気は私の子供時代の思い出として懐かしいものがあります。
私自身は山縣家に興味があり、その関係で鳥尾にも興味を持っています。また引き続きブログを見せていただきます。
古川様、はじめまして。管理人の友です。
コメントありがとうございます。
井原氏の訃報、いただいたコメントで初めて知りまして、検索して新聞の記事をみて驚きました。当時をご存じの方のコメントをネット上で拝見しましたが、往時を偲んでおられる方が多く、氏の影響の大きさがうかがえました。
山縣有朋は、鳥尾を調べていると必ず出てきたり、北越戦線関係で私も興味を持っております。個人的には、山縣は女性関係の逸話も鳥尾より多く残っていて、人間味がより一層垣間見えて面白いなーと感じています。
またお越しいただけるよう、がんばります!
コメントありがとうございました―!