三浦梧楼の書(だと思っている)を一幅所有しているのですが、今日はそれについて徒然と。
三浦梧楼とは
はじめに、三浦梧楼(みうら ごろう)とは、幕末から大正時代の人物。高杉晋作が創設した長州藩の「奇兵隊」出身で、明治維新後は陸軍省に出仕。おもに山県有朋の下で鎮台司令長官などを務め陸軍中将となりましたが、西南戦争が終結したあたりから陸軍上層部と反発しはじめ、明治20年に軍を去ります。
その後、学習院4代目院長や宮中顧問官、貴族院議員を務め、大正政界の黒幕ともいわれています。
号を「観樹」(かんじゅ)と言い、その名も「観樹将軍回顧録」という回顧録が単行本で出ていたりして、意外と手軽に手に入り読めてしまうのですが、一般的な知名度は低いのではないでしょうか。
(最近では、「坂の上の雲」にちらっと一瞬登場したと聞いたのですが、その後出番はあったのかな…?)
観樹将軍回顧録 - 国立国会図書館デジタルコレクション
鳥尾もなかなかなのですが、三浦が表立って取りあげられないのは「乙未事変」が関わっているからなのでしょうが…それはここで話し始めるとどうにもならないので、今回はちょっと置いておきます。
ただ、この三浦というのはやっぱり魅力的だなぁと今も思うのです。
なんといっても、話が面白い(笑)
二言目には「吾輩が…」。
なんとなく「俺がやってやったんだぜ!」みたいな雰囲気なんだけれど、それでもとにかく話が面白い(笑)なんというんでしょうか、まさに大衆受けしそうな口調なのですね。江戸時代の変人は大久保彦左衛門、明治時代は鳥尾小弥太、大正時代は三浦梧楼…なんて言葉をどこかで見ましたが、ほんとにその通りだと思います。
ちなみに、回顧録の一部を含めた三浦の著書について、下記のサイトで公開されております!
三浦梧楼の大正の政界回顧 - 北山敏和の鉄道いまむかし
私が特に好きなのは、「脱隊騒擾余談」(三浦梧楼の長州藩の明治維新 9)と、「山県有朋の遺嘱(いしょく)」(三浦梧楼の人物評 8) です。
後者は下記でも取りあげています。
鳥尾小弥太と三浦梧楼 1 ― 鳥尾の遺子を、山県に後事を託された三浦梧楼―
前者は、三浦のおしゃべり(?)な性格が幸いして残っているのだと思うのですけれど、あの時代に生きて、でもその後の時代の表舞台に出ることができなかった人々を今に伝える、とても貴重な話だと思うのです。
明治に生きた長州人は、同門の人々の話はよく残しているのですが、こういう市井に沈んだ人々の話は残していない(残らなかったのかもしれませんが)ので、これは三浦の大きな功績だと思うのですねぇ。
ところで、昔四将軍好きのある女史さんから伺った話では、憲政記念館に残されている史料にはなんと三浦のフランス語のメモもあるとか…。私もいつか生で拝んでみたいものですが、社会人となった今ではこのあたりを公式に調査して開示をお願いする理由がなにも見つからない…。
三浦の書
そんな三浦の書を、多分もう5年以上前にオークションで購入しました。
残念ながらうちには床の間がないのでなかなか活躍の場がないのですが、数回、もっと大事にしてくれそうな方へお譲りしようとすると、不思議とそれがうまくいかないので、今日まで私が保持している次第です。
まぁ本物かどうかはわからないのですが…当時の価格は箱無しで5000円くらいだったかと。
その後桐箱を別途購入。
たまに眺めては、「百年近くまえに、三浦がこの書に向き合って、筆をとっていたんだなぁ…」と、その姿に想いを巡らせるのが幸せな瞬間です。
実は何が書かれているのか分かりません(笑)
学生時代に使っていた崩し字辞典は大学ゼミ室に寄贈してしまったり、元々崩し字読めないので、なんとか「要國」って書いてるくらいしか…。読める方がいたらぜひ教えていただきたい次第です。
年号部分はそこはかとなく読み解くと、おそらく庚申、大正9年の筆だと思われますが、そうすると三浦73歳なので、最晩年のものなのかなぁと。そこが合っていたので「多分本物!」と思い買ってみました。(鳥尾は茶道の関係もあってなかなか手が届かないのですが、三浦の贋物を作るメリットもないかと思っていたりもしました)
ただ、落款の部分がどうも時々出品される三浦のものと違ってみたこと無かったので、もしかして…とは思っていたり。でも同時期のものと思われる落款で全く同じものを使っているものがあったので、時代によって変えているのかな?とも思ったり…。あとは早稲田の典籍アーカイブで三浦の書と見比べてみたり。
オマケ 三浦梧楼年表
2006年に作った年表。若干加筆。
三浦梧楼年表
三浦梧楼 みうら ごろう
1846(弘化3)11月15日~1926(大正15)1月28日 山口県
幼名:五郎/名:一貫/号:観樹/変名:司馬之輔
長州藩(山口県)藩士・五十部(いおべ)吉平の五男。萩中津江で出生。
万延元年(1860)土屋蕭海(1829:文政12・12・15~1864:元治元年9・11)に師事し、
藩校明倫館へ入るため、三浦道庵(1717:享保2~1872:明治5)の養子(育み)となる。
文久3年(1860)、宮部彦八に伴われて奇兵隊(同年6月7日結成)に入隊。
総督高杉晋作に気に入られ、小隊長となり、鳥尾小弥太・堀潜太郎とともに奇兵隊の青年三隊長と称された。
慶応2年(1866)、6~8月第二回長州戦争に奇兵隊一部隊を率い、小倉方面に進軍。
田の浦夜襲、大里・赤坂攻防に活躍し、狸坂に至る。
明治元年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いに参加。禁衛隊の隊長となり、負傷。
5月10日、藩主毛利敬親より軍中状下賜。
6月、負傷全癒し、北越戦争に参加。海路越後柏崎に至り、当日夜直ちに長岡の山奥半蔵釜占領。
戦後長州帰還。
明治3年(1870)、脱退兵騒動。三浦は脱退兵から”斬首”を要求され、
藩庁から小隊司令を罷免され、自宅謹慎を命ぜられた。井上馨らとともに長府へ逃れ、後騒動を鎮圧。
4月24日、藩侯毛利元徳の薩摩訪問に随行。5月13日帰国。
10月頃、木戸の招きで上京。
閏10月兵部省出仕。兵部権少丞に任ぜられ、正七位に叙せられる。
明治4年(1871)2月15日、兵部少丞に任ぜられ、従六位に叙せられる。
7月28日、本官を免ぜられ、陸軍大佐に任ぜられ、兵部権少丞、正六位となる。
同日、軍務局分課御親兵掛となる。
9月20日、東京鎮台分課仰せつけられる。
12月14日、陸軍少将任ぜられ、東京鎮台司令長官となる。
明治5(1872)年4月15日、従五位に叙せられる。
明治6年(1873)2月25日~4月2日、上田・新潟・宇都宮営所に派遣される。
6月25日、正五位に叙される。
7月8日、第三局長兼造兵司分課仰せつけられる。
8月18日~9月4日、大阪製造所、宇治火薬蓄積所へ派遣。
12月8日~10日、小田原へ派遣。
明治7年(1874)4月27日~5月1日下志津出張。
5月、征台の役に反対して帰国を決意し、伊藤博文らに引き留められる。
8月13日第三局長兼造兵司分課を免ぜられる。
明治8年(1875)4月25日、元老院議官となる。
12月18日、従四位に叙せられる。
明治9年(1876)、6月17日、、元老院議官を免ぜられる。
10月16日、広島鎮台司令長官。
10月31日、萩の乱鎮圧に赴く。
11月28日、上京。
明治10年(1877)、2月25日、西南の役につき、第三旅団司令長官として出征。
10月21日出京。12月15日、功により勲二等旭日重光章。
明治11年(1878)11月10日、陸軍中将に任ぜられる。
12月14日、西部監部部長となる。この頃洋行を勧められ、長州の薩摩懐柔の付合であるとして拒絶。
明治12年(1879)、9月20日、西部検閲を仰せつけられる。(10月15日~12月18日)
明治13年(1880)、1月5日、陸軍始飾隊諸兵指揮官。
3月7日、御巡幸供奉を仰せつけられる。実地演習の師団長となる。
9月15日、東部検閲を仰せつけられる。
明治14年(1881)、4月6日~5月25日、第五、第六軍管内巡行。
7月5日、演習審判官。7月20日、中部検閲。
この年北海道開拓使官有物払い下げ事件が起こり、三条実美に反対諫言。
9月、鳥尾小弥太、谷干城、曽我祐準の三将軍とともに
「国憲創立議会開設」の建白書をつくり、事件の不当性を上奏した。
しかし、軍人の本分に背いて政治運動を起こしたと言うことで山縣有朋の憤慨にふれ、
翌明治15年(1882)、西部監軍部長を罷免、2月6日、陸軍士官学校長に左遷された。
明治16年(1883)、12月25日、大山陸軍卿欧州差遣に随行命ぜられる。
明治17年(1884)、2月16日、横浜出発、渡欧の途に上る。
7月7日、子爵となる。
明治18年、1月25日帰国。5月21日東京鎮台司令長官。
8月22日国防会議員。10月26日天長節観兵式諸兵指揮官を仰せつけられる。
明治19年(1886)1月26日、熾仁親王葬式儀指揮長官。
2月茨城、4月常陸地方、5月佐倉、6月高崎視察。
7月26日、検閲と進級の急激な陸軍改革を唱えたため、熊本鎮台司令官に左遷。
8月14日免職(左遷に不平のため軍職を去る)10月20日、従三位。
明治21年(1888)、11月5日、宮中顧問官。学習院長兼任。
12月25日、予備役編入。
明治22年(1889)2月11日、西野文太郎、森有礼を暗殺。
三浦は古島一雄に西野の屍を処置させ、その葬式を営む。
大隈の条約改正案問題化し、谷干城らと提携して反対運動を続け、
天皇に拝謁(10月15,16日か)、反対意見を上奏。
明治23年(1890)、6月30日、勲一等に叙せられ、瑞宝章授与。
7月11日、貴族院議員となる。
明治25年(1894)、この年より翌年にかけて曹洞宗問題紛糾し、三浦は井上馨の後を受けて解決。
明治38年(1895)7月19日、任命韓国全権公使、高等官一等。
7月29日、正三位。
8月17日、朝鮮国駐在を仰せつけられる。
このあと、閔妃殺害事件のため広島監獄に投獄、取り調べを受ける。
10月28日、公使を免ぜられる。
明治31年(1898)、地租増微反対運動で全国遊説。
明治32年(1899)、1月2日、6日、大隈別邸訪問。盟約を成す。
4月岐阜、仙台、北陸に地租反対遊説。23日、暴漢に襲われる。5~6月、京都滋賀方面遊説。
明治41年(1908)、4月1日、後備役編入。
晩年は山縣有朋とともに政界の黒幕として辛亥革命に関与したり、
大正13年の清浦内閣に反対して三党首会議を斡旋、護憲三派内閣の成立を促したりした。
明治42年(1909)、2~3月、憲政党の内紛解決に尽力。
明治43年(1910)、2月、伊藤遭難映画上映禁止を山県にすすめる。
5月、国民党結党に尽力。10月14日、枢密顧問官に任ぜられる。
大正5年(1916)、5~6月、三回にわたり三党首会談。その後、若干加藤と悶着有り。
大隈内閣の辞職問題につき、山県、原、寺内らと往復盛ん。
10月、寺内内閣成立。三浦尽力。
大正6年(1917)、6月、外交調査会設置に尽力。
大正13年(1924)、1月18日、第二次三党首会談。護憲運動を支援。このため枢密顧問官辞任。
大正15年(1926)、1月28日没。
墓は東京の青山霊園。
著作:観樹将軍回顧録(大正14年)/僧服改正論(明治30年)/三浦将軍縦横談(明治44年)等
肖像:
肖像1 - 近代日本人の肖像(国立国会図書館)
肖像2 - 学習院大学歴代院長(学習院大学)
参考文献
・三浦梧楼関係文書 明治史料第八集/山本四郎/明治史料研究連絡会/1960年10月25日/
・防長維新関係者要覧 復刻版/田村哲夫/マツノ書店/1995年8月1日/
・コンサイス人名辞典 日本編/上田正昭 他監/三省堂/1980年2月1日/
・観樹将軍回顧録 復刻版/小谷保太郎/大空社/昭和63年6月20日/
・観樹将軍回顧録 文庫版/小谷保太郎/中央公論社/昭和63年5月10日
オマケその2
年表と同じころに当時のブログに書いていた記事を転記。三浦に夢を見ていた頃の私の備忘録です。
軍人としての三浦梧楼 藩閥打破~陸軍改革案~
1886年の三浦の熊本鎮台司令官左遷について。7月26日、検閲と進級の急激な陸軍改革を唱えたため、三浦は熊本鎮台司令官に左遷となった。
この陸軍改革とはなにか。以下、書籍より抜粋。
それまでは天皇直属の監軍部長が学術も検閲し、将校から下士兵卒に至るまでの進級の順序を審かしていた。
しかし、1886年7月24日の監軍部廃止、陸軍検閲条例改正、陸軍武官進級条例改正は、
以上の進級に関わる監軍部長の学術システムを廃止した。
そして定期検閲の時期に進級・順序を定めるために学術を検査する陸海省の事務システムを作った。
これに対して参謀本部長有栖川宮と同次長曽我祐準らは反対した。
三浦も、本書の「陸軍改革意見」「陸軍改革衝突事情」にみられるように、薩長の情実人事打破を主張し、将校の進退黜陟(ちっちょく)と実力・人物本位の均衡をはかる独立機関を作る必要性を構想していたから、以上の改革には反対であった。
しかし、山縣有朋系のドイツ軍制派の桂太郎陸軍次官らに東京鎮台司令官から熊本鎮台司令官に左遷され、8月16日に免職になり、1888年に予備役になった。
(観樹将軍回顧録 復刻版/小谷保太郎/大空社/昭和63年6月20日/末の遠藤芳信氏による解説より)
三浦は長州閥出身でありながら、その藩閥打破に尽力した人物としてあげられるが、当時の陸軍はまさに薩長閥でしめられていた。
当時の陸軍は、まるで薩長の陸軍である。薩長の人間は一体に昇進も早い。要職をも占める。他府県のものとは非常の相違である。それはどうかと言えば、いやしくも薩長の肩書きのあるものは学術も何も出来ぬものでも、立派に書付けを拵(こしら)えて行くから、お上の方はそれでズンズン通るのである。
この情実本位、実力本位の陸軍となさねばらなぬ。
(観樹将軍回顧録「陸軍改革意見」より)
陸海省の事務システムとは、つまりは薩長の事務システムであり、当然ここを通るのは薩長出身ならば断然有利になる。陸海軍への他府県者への門を、更に縮めることになる。
藩閥は、徳川時代における世襲門閥政治と何ら相違ないことは明白で、そうではなく、相当の”実力”、”能力”があるものが、その能力に見合った役職に就くことこそが正道である、という考えである。しかしそれでは薩長閥としては都合が悪く、山縣有朋を中心とする陸軍閥により、三浦は東京から遠ざけられることになり、よって熊本鎮台への左遷となったのであった。
三浦はこれによって、全ての軍職を捨てている。
ここに関する回顧が「観樹将軍回顧録」の「陸軍改革衝突事情」に書かれている。
そこへいよいよわが輩の改革意見が持ち出された。
山県は表面でこそあれも同意、これも賛成とよい加減に調子を合わせているが、実は大反対である。
「陸軍には大山がいる。これが必ず僕の言う通りになるというわけにはいかぬ」
と言うものの、実はこれが山県の言うとおりになるのである。
裏面では山県がしきりに大山をつつく。
「我輩からは言いにくい。ここは君が一つ反対してくれ」
としきにり大山をつつく。そこで大山が表面に立って反対することとなった。
しかし我輩の意見は正理である。公平である。お上でも、
「どうもあれのやり方は違う」
と仰せられていることである。大分心配だ。
そこで大山はもし自分の意見が立たねば、責任上辞職すると言い出した。さあすぐ薩摩の団結だ。
「陸軍大臣が罷めるなら、薩摩出身の軍人は皆罷める」
と言いだし、高輪の東禅寺へ集まって、一同辞表を出すという大騒ぎが始まった。
そこで仕方がないから、三浦は東京に置いて置かれぬ。熊本へ左遷するということとなった。
伊藤も井上も、
「どうも止むを得ぬ」
ということで、ついにそれに決したと、後日山田から聞いたことである。
陸軍の改革は我輩の精神である。命である。この事ついに貫かずんば、何の面目あってかまた世人に見えん。
「もう一生陸軍は断念だ。断じて熊本へは行かぬ。免職を甘んじて受ける。もうこれに用はない」
サーベルを取って庭先の沓脱石に叩き付ける。
軍服を取ってビリビリと切り裂く。
サーベルは弓のごとくに曲がった。
「無念だ、残念だ。この改革が出来ぬとは実に遺憾だ。熊本へは断然行かぬ」
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