幕末維新歴史ネタ

【奇兵隊】ヒストリアを観ました。備忘録。

今年の10月8日に「奇兵隊”デビュー!~幕末 若者たち一発逆転の夢~」と題して、NHKの歴史秘話ヒストリアで奇兵隊の番組がありました。全然知らなくて当日教えてもらったのですが、ちょうど仕事から帰っている最中だったので本放送は見れず…。ツイッターで感想をみていたりしました。
この度ようやく観れましたので、自分用の備忘録。

奇兵隊”デビュー!~幕末 若者たち一発逆転の夢~ - 歴史秘話ヒストリア

歴史秘話ヒストリア、実は1回も観たことなかったのです。(どっちかというと楽曲提供が梶浦由記さんということのほうが興味が…)
ドキドキの番組視聴…。

 

オープニング

梶浦音楽にのると素晴らしい青春映画のような冒頭。
奇兵隊が残したと思われる、木箱の資料を持っているのはもしかしなくても一坂先生…?

山縣有朋記念館では、山縣有徳さんが「長藩奇兵隊名鑑」を持ってきてくれました。
山縣有朋は、松下村塾出身の奇兵隊第4代総官。第3、9代の総理大臣も務めました。
京都・無隣庵、東京・椿山荘などは彼の庭園跡で、晩年は軍事、政治方面にも多大な影響力を誇りつつ、こういった文化面にもこだわっていたようです。(そして嫌がらせを受ける…)

番組でも紹介された通り、奇兵隊士総計822名の名前が記された「長藩奇兵隊名鑑」。これは奇兵隊出身の「宇野友治(本多友一)」が編纂し、山縣有朋に謹呈したものだそうです。(一坂太郎『写真集奇兵隊(増補版)』奇兵隊士研究所(1994))
本多さんは慶應2(1866)年2月に奇兵隊に入隊し、北越戦争に参戦。明治後は灯台守りや通訳、あるいは警察庁抜刀隊の分隊長として西南戦争に従軍したのだそう。大正13年5月1日に74歳で没したということなので、三浦と同時期になりますね。
多感な時期を奇兵隊で過ごした青年たち…を、「架空の人物をたてて」お送りするそうです。
え、架 空 な の !!!?

 

エピソード1 誰でも武士に!?

季節は文久3年(1863)6月。
舞台は萩の農村。(ちゃんと6月らしく田んぼの除草中。ただ米が育ち過ぎな気がするんですが、西だから?(新潟以北しか見たこと無い))
モテるために侍になるために奇兵隊に入隊することにした虎之助と新兵衛。新さん(新兵衛)がえらいイケメンです。

虎之助:お調子もの。夢見る少年。
新兵衛:ちょっと冷静。虎之助の幼馴染。

おいおい、このキャラ設定…すでに死亡フラグ…
そうこうしている間に番組は奇兵隊結成とその背景の解説へ。
高杉晋作がちょろっと登場。リアルタイムでツイッターみてた時に感想でも言われていたけど、ほんとにここまで高杉がフューチャーされない奇兵隊番組って初めてですね。面白い。

そして一瞬映った土手?の集合写真が気になってしょうがない。
あれなに??あれなに???ああいう写真がいっぱい実は保存されていたりするのか??どこかに鳥尾もいたりするの??若い鳥尾がみたい…!(ミーハー)
虎之助と新兵衛は下関についたようで、奇兵隊の入隊説明?かなにかを受けている様子。
富永有隣(※イメージ)みたいなおじいさんに、奇兵隊は攘夷のために働く的な力説をうけるのですが、攘夷の意味が分からない二人。
そんな二人に「攘夷の意味も知らんのか」と、得意げにわって入ってきたのが、農家の三男、順蔵。
今の流行は攘夷だ、的な説明になってない説明をドヤ顔でするのですが、なんか、ものすごいこの時代っぽさを感じた…。

続いては岩国閑古館の松岡智訓さんが登場。どうやら冒頭の学芸員さんは一坂先生ではなく松岡さんだったようです。(高杉=一坂先生、奇兵隊=一坂先生みたいな公式になっていたけど、高杉(奇兵隊)=一坂先生が正しいようだ)
出て来たのは、隊士の弁当箱。
 
弁 当 箱 !!!!

こういう、日常品が残ってるのたまらん!!
しかし、弁当箱の側面にポエム(?)書いてたのか…。
入隊することで名字を名乗ることも黙認された奇兵隊士。
農家出身の三人は大喜びかつちょっと天狗状態に。

「赤心報国」(※番組イメージ)とか書いた特攻服みたいな派手な着物を着たり、刀を見せびらかして街を闊歩。
灯篭を勝手に持ち出して怒られたり、
お寺の池の鯉を盗んで食べたり、
温泉に刀を持ちこんで大騒ぎしたり、
国のためと偽って町人からお金をだまし取って遊びに使ったり…
町の人々から次第に疎まれるようになっていきました。

………………………………も の す ご く ど こ か で 聞 い た こ と の あ る …
…デジャブ感…。(主に幕末の京都の壬生あたりで)

と、ここで一坂先生登場!バックに松陰先生の座像がww
奇兵隊を「今でいうヤンキーの青年」と言い放つ一坂先生。(※ジョークです)

そんな調子にのってる奇兵隊。次第に正式に召し抱えられている武士たちと衝突するようになっていきます。
やがていざこざで藩士を切り殺してしまうことに…。
これは、世にいう「教法寺事件」です。

この頃の奇兵隊は人数が膨れ上がってきたため、結成当初に陣を置いていた下関の豪商、白石正一郎の宅を離れ、赤間神宮に本陣を置いていました。近くの教法寺には、藩お抱えの公式部隊、「先鋒隊」が陣を構えていました。
先鋒隊は、嘉永6(1853)年に、長州の八組士の子弟の中から選ばれて結成されたといわれ、攘夷先鋒の意味で「先鋒隊」と名付けられた、萩藩の正規兵でした。八組士といえば、士席班のなかでもかなり上位の身分にあたります。

この先鋒隊と、奇兵隊士の宮城彦助という人が下関界隈でトラブルを起こします。

宮城彦助も、八組士の出身であり、先鋒隊に身を置いたあと公卿・中山忠光の世話役などをしていましたが、どちらかというと文人気質な宮城は、高杉晋作と懇意だったこともあり、奇兵隊へ移りました。(あとで引用する中原氏をはじめ、元々文弱の徒であった宮城は、先鋒隊の八組士とそりが合わず、仲悪かった的な説が主流の様子)

では、この教法寺事件の様子を、歴史秘話ヒストリアで参考文献に掲げられていたものからみてみましょう。(※なお挙げられていた参考文献は、物語です
定広は、長州藩公・毛利敬親の養子。奇兵隊と先鋒隊の演習の視察に訪れましたが、奇兵隊の演習を熱心に見過ぎたために時間が押してしまい、予定していた先鋒隊の視察を延期にした、という件が起ったあとの話です。

先鋒隊士は、視察延期の知らせを聞いて大変失望し、定広の日程を狂わせたのは、日ごろ先鋒隊を馬鹿にし、奇兵隊をひいきにしている宮城彦助のたくらみであろうと邪推した。
そして、慰労の酒が出たことも手伝って、付和雷同した隊士たちは、当夜、宮城の宿舎を襲撃し、制裁を加えることにした。
ところが、先鋒隊の中にも宮城に同情する者がいて、先鋒隊の宿舎であった教法寺のすぐ前に宿泊している宮城に、このことを知らせてやった。
宮城は、こうなってはもはや戦って死ぬほかはないと考え、総督の高杉晋作に別れを告げ、後事を託しておきたいと思い、高杉の宿舎を訪れ、事情を説明し、善処を依頼した。
高杉は、ちょうどその時、奥座敷で奇兵隊幹部の赤根武人と碁を打っていたが、宮城の話を聞くや否や、碁石を叩きつけて立ち上がり、先鋒隊を説得するために教法寺に向かい、赤根は阿弥陀寺の奇兵隊に急を告げた。
隊士は昼間の演習で疲れ、床についていたが、飛び起き、剣や槍をとって教法寺に駆けつけた。
高杉は宮城とともに教法寺の小門から入り、本堂の前に立ちはだかって名を名乗り、「おれが宮城を使い番に推薦したのが気に入らないなら、おれを殺せ。おれの身には大事がかかっている。おれを倒すのは国家を倒すのと同じだぞ」と怒鳴った。
すると暗闇の中で先鋒隊士の「斬れ、斬れ」という声がし、小銃を発射してきた。それを聞いた奇兵隊は門を開いて突進し、闇の中で斬り合いが始まった。
先鋒隊はす早く逃走し、奇兵隊士たちは、病気で逃げ遅れた蔵田幾之進を斬殺し、先鋒隊が残していった甲冑、槍、銃をこわして引き揚げた。

(『物語 奇兵隊悲話』「宮城彦助―激しい内訌の責任を負って自刃した文人」中原郁生 p78-80)

この事件のあと、先鋒隊も応酬とばかりに奇兵隊に籍を置いていた奈良屋源兵衛を惨殺しています。宮城は責任をとって、藩より切腹を命ぜられ、河上弥市の介錯により腹を切りました。
結成3カ月で暗雲が立ち込める奇兵隊…。
教法寺事件の結果、給料も半分に、食事も白米から玄米になってしまったとか。

 

エピソード2 奇兵隊 生まれ変わる!

ところが、四国連合艦隊の報復が迫り、下関警備に呼び戻されます。
名誉挽回のチャンスに気合の入る奇兵隊士たち。
元治元(1864)年7月、連合艦隊が迫ります。
この事件をみると、あぁ…もう久坂が…_| ̄|○ となる…。

毛利博物館の紫原直樹さんが登場。幹部集が血判したあの「奇兵隊盟約書」を!
番組では、いつの間にか仲間に加わった「きさく」?が、戦を恐れる夢にうなされ、それをみて不安になる一同。
実際に戦いが始まると、連合艦隊の前に為すすべがありません。
向こうの大砲でドカドカ犠牲者がでるのに、こちらの玉は一向に敵艦隊に届かない…。

千葉の国立歴史民俗博物館の保谷徹さんが登場。
しかしヒストリアってこんな毎回取材してるの??ちょっとすごいな。
そしてライフル銃が、銃身がらせん状になっているのをはじめて知った。すごいな!!

上陸した連合艦隊軍に四方八方から銃弾を浴びせられる奇兵隊。
そして虎之助が銃弾に倒れます…。

惨敗したこの戦争。締めはまた高杉晋作が出てくるのですが、そこも今回はカット。連合艦隊を長州藩は交渉により終戦となり、これを契機として欧州から戦術、武器を輸入することに。でもそこもカット。
ともあれ、この負けを教訓として、長州藩は奇兵隊をはじめ、様々な改革を行っていくのですね。

 

エピソード3 そして若者たちは立ち上がった

連合艦隊に敗北し、同時期に裏で禁門の変が起っていた関係で、幕府からも長州征討の意見が出ていました。
幕府に恭順の姿勢をみせるため、時の藩上層部は、禁門の変の責をとり、国司信濃、福原越後、益田右衛門介の三家老に切腹を命じた他、奇兵隊などの諸隊にも解散の命を出し、給金や米の配給を停止。
貧困にあえぐ新兵衛たち…と、そこへ一個の握り飯が。
奇兵隊を忌み嫌っていたはずの町人たちが、連合艦隊と戦った奇兵隊の姿をみて、救いの手を差し伸べたのです。
これをきっかけに、町人、農民たちへの無礼を隊の規則として禁じることになった…というのが番組のストーリー。

番組の参考文献、『幕長戦争』の著者でもある三宅紹宣氏もここで満を持して登場。
弱き民の奇兵隊…
そうだったかはご想像にお任せしますが、この時期の長州はほんともう、外から中から血みどろで…(部分的には久坂の生きていた頃から内ゲバですけど…)見ていてきついですね。

こうして功山寺挙兵やら、VS俗論派との戦いに突入していくわけです。太田・絵堂もまだ行ったこと無いので、いつかは行ってみたいなぁ。
しかし、エピソード3、奇兵隊解散というからてっきり明治に入ってからの話かと思いましたが、それは流石にちょっとだけでしたね。ちょっとだけでも、やっぱり切ない…。

番組では、奇兵隊士の記念撮影時に、新さんが刀をみんなに見せるシーンが。
この愛刀の話、先述の宇野友治(本多友一)さんのものですね!

 

エピローグ

今年、東京の馬橋稲荷神で奇兵隊士の血染めの隊服が見つかったとかで、その紹介。
隊士の子孫としてインタビューに「元森」さんという方が出ていたのですが、元森熊次郎のご子孫ですよね多分!ということはこれって熊次郎さんの隊服ということなの??
元森熊次郎は北越戦争で戦死しており、墓は小千谷の船岡山官軍墓地(時山直八はじめ、朝日山の戦いで亡くなった奇兵隊士たちが多く眠るところ)にあるのです。なぜ東京に…。ご子孫が東京にいるということは、遺族が東京へ出て来たのかな?
き、気になる…!!

いやはや、面白かったです。

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