著作鳥尾小弥太

恵の露~鳥尾小弥太の回顧録~

恵の露とは

『恵の露』は、1901(明治34)年5月に出版された、鳥尾小弥太が自ら記した小伝です。
これに先立つ1898(明治31)年に博文館より出版された雑誌『太陽』にて、自身について記載された内容が、過去に誤った情報を流していた書の情報によっていたことから、「さすれば誤りも正して置かぬ時は、事實として何處までも傳はると云ふ事に心付き、余が實歴を講話して置かうと思ふ」ということで、執筆に到ったとのこと。

得庵全書にも収録されているこの小伝は、大きく三つの構成になっています。
1つめは、生い立ちから明治維新を迎えるまで
2つめは、明治維新後の陸奥宗光との交友
そして3つめが、「鳥尾小弥太」という姓名を使うことになった経緯

内容に対する意訳や補足は、別途記事を分けて起こしていこうと思っています。
そのため本記事は、得庵全書に収録された『恵の露』をなるべく原文のままの旧漢字などを用いながら文字お越しを行った本文のみとなります。

恵の露(本文)

恵の露

曾て余が小傳を著はしたる者あり。其の書に、余の壮年の時、甚だ疎暴者で、兩親より勘當を受けしと云う事が書てありし。當時中川克一氏の云はるゝには、是の事は正して置かぬと、遂に誤りを傳へ。後人これを信じ、又子孫もさうで有つたかと思ふやうになる。外の事なら宜いけれど、親より勘當を受けたと云へば、極めて不孝の子である。兩親もかゝる子を持つは、名譽でも無い。宜しく正して置くべき事である、と云ふ忠告であつた。余は當時頓着せず、少壮の時の朋友も、猶ほ澤山ある。余が勘當を受けたなど云ふ事の無い事は、皆々承知して居る、之を辯ずるにも及ぶまいと云ふて、等閑にして置いた。玆に太陽第四巻の二十ニ號に、余の性行を論じて有るのを見るに、彼の誤りを傳へたるものを引て書てある。さすれば誤りも正して置かぬ時は、事實として何處までも傳はると云ふ事に心付き、余が實歴を講話して置かうと思ふ。其の順序は、初めに余が幼少の時より、生立ちの事歴を、大略講話致す。次に太陽に、余と陸奥との交際を論じてある。陸奥は余と親友であつて、終始交際の變ら無い人でありし、因て陸奥との交際の始末を語るべし。其王道辯論に關しては、人道要論に、余が見解を譯述せり。先輩木戸大久保兩氏に對しての事杯も、誤りあれど、些末に渉れば、敢えて辯ぜず。
余が父君は、中村宇一右衛門と云ふ、諱は敬義。余が十三歳の時に、逝去せらる。故に余も、父君の性行は詳しく知らず。只頗る厳正な人で、余が幼少の時、随分厳格なる家庭の教育を受けしやうに思ふ。其の一つを云へば、余七歳の時、習字の為に、横山先生の所に行く。一年餘りも立ちて、習字が上達せぬとて、遂にその先生を止めて、父君がみづから教授せらる。其の頃白紙に手習をする事は、昔の江戸にはありしなれど、田舎では、反古草紙へ習はせられた。又三月の節句なりしか、五月の節句なりしか、記憶せぬが、祝日でありし。父君の云はれるには、聖人の教は祝日も節句も、人たる者は必ず奉ぜねばならぬ。今日は節句であるけれども、経書を教ふるとの事にて、論語の公冶長第五と云ふ處を、其の日に習つた。所が門外から友達が来て、頻に名を呼ぶ、これに心を取られて、記憶が出来ぬ。僅かでも宜しいとの事なれど、覺えられぬので、餘程難儀をした事がある。是等の事を以て見るも、餘程厳正な人で。其の上余を養育するには、餘程注意せられた事と見える。余は三人の兄弟があつて、総領は二人ながら女子であつて。余は末子なれど、男子ゆゑ、家督を継がせる積りであつたと見える。それ故に教育に、殊更注意せられたのである。
余が十二歳の時、兎角家事向き不如意であつて。父君は暫く、江戸の在番に往くと云ふ事になり、乃ち余を伴れて五箇年在勤をする積りで、出立をされた。其の出立は、其の年の春三月十日前後であつたと思ふ。六七人連れにて、其の中には、余と同年前後の少年もありし。四月の上旬頃に江戸へ着し、麻布の檜屋敷に居たり。其の翌年夏五月頃と覺ゆ、父君の言はるゝには、一應歸國しなければならぬ用事あり。往来の日數は、大概三箇月もかゝるべし。汝は我慢して、此の地に居殘るべしとの事であつた。兩三年前薨去ありし毛利元徳公が、若殿にて在せし時、御歸國あり。一月許り、國許に滞在ありて、引返して江戸へ参府致さる。父君は其の御供で國へ歸らる。其の間は、余は豫め懇意なる野村と云ふ人に預けられた。其の年の八月か九月頃か、國許の叔父より手紙が到来して、父君は播州加古川で病没せられたと云ふ事を報知があつた。丁度其の頃は、虎列刺病のある時で、類似虎列刺のやうなものにてありしならん。城州伏見邉から下痢の気味にて、同行の人が介抱して、播州までは供を離れて参つて、加古川にて重り、遂に此處で五六日療養されて、亡くなられたと云ふ事である。其の宿屋は、菊屋と云ふ。余は維新の後、其の宿屋の主人を、屢々訪ねたが、以後廃業して、他の商業を營みてありし。
當時父君の看病をした老婆が、(當時宿屋の女房なり、父君よりは三つ程年長なりと、みづから言へり、※1)二三年前までは達者で居たり。此の老婆が、父君の臨終の事を、精しく余に語れり。父君の言はるゝには、何處で死するも、因縁で仕方は無い。外に思ふ事はないが、江戸に子供を遺して置いたが、それがいかゞするやらんと気に懸かる、其外何にも気にかゝる事はないと仰しやりましたが、全くあなたの事でありました。餘程御気になさつたやうであると、老婆が話した。父君は、餘程決定の宜い人であつたと見える。國を出る時、姉共に向つて言はるゝには、一度家を踏み出せば、何處で死するかも知れぬ。人は此の世に生れて来るには、必ず地水火風の四大を借りて来る、此の世を辞する時は、それを返さねばならぬ。若し旅で死んだならば、其處の土を借りて来て、此の世に生れたのであるから、其の土地へ往つて、それを返すのである。故に何處で死なうとも、前世よりの約束であるから、決して歎き悲しむ事はないと。呉々も言ひ殘して置かれたと云ふ事である。さう云ふ事を、考へて居られた人と見える。當時余は大に悲哀に沈んで、さながら黒暗になつたやうでありしが。野村と云ふ人が、大層親切に、色々言つて聞かして、世話をして呉れられた。翌年の四月、余が十四歳のとし、敬親公御歸國の御供をして歸國す。其時余は家督を継ぐ、叔父伊藤瀧蔵と云ふは、余が父君の差継の弟である。歸國後は、其の家に在りし。元来家事不如意なる所へ、父君が旅で死去せられ。一入家政も困難に墜入り、余が母方は、徳田折蔵と云ふ、母堂の弟が、世を継いで居られた。此人と、伊藤の叔父と相談して、中村家は、一時謂はゆる分散仕組と云ふ事になり。玆五箇年間、仕組の都合にて、母堂は徳田へ、余と姉とは、伊藤へ引受る事となる。此事は余が歸國前に、巳に決定してありし。総領の姉は、巳に三輪氏に嫁せり。余は幼年事ゆゑ、萬事叔父どもに打任せて置く。十四歳より十七歳まで、叔父の家に居る。
十七歳の四月頃(文久三年 ※1)に御沙汰ありて、銃隊として、下ノ關へ出張を命ぜらる。少壮の事ゆゑ、尤も面白い事と、喜んで出て往つた。是れ卽ち長藩で始めて攘夷をした時である。五月の二十日前後ならん、西洋船が、馬關の瀬戸を通ると、悉く砲撃をする。彼れは商売船にして、不意の事ゆゑ抵抗もせずして逃るゝを、攘夷の實行と思ひ居たるもをかし。此時元篠公、馬關攘夷の有様を巡見の爲にとて、出陣ありし。六月一日、蒸氣船壬戌丸に乗つて、馬關を發し、防州三田尻へ歸向せらるゝ事となる。余輩は鍋濱と云ふ所へ、見送りに往つて居つた。兵隊でありながら、鐵砲も持たず、隊をも組まずして、自儘/\に往つた。朝十時頃、上口の相圖の砲聲が聞ゆ、皆々走つて陣屋へ歸り、(陣屋は新地と云ふ處に在り、 ※1)武装して、鍋濱へ再び来て見れば、最早戰もなく、敵船も見えぬ。鍋濱に碇泊せし庚辰丸と云ふ帆前船は、打ち沈めらる。癸亥丸と云ふ帆前船も、百五十磅の破裂彈の爲めに、大半破壊せらる。壬戌丸は、蒸氣釜を撃ち抜かれて、岩柳と云ふ所の淺瀬に乗り上げ、後には、顚覆した。此の戰は亞米利加の軍艦一艘にて、忽ちの間に、三艘の戰艦を打碎いて、直ぐに上口へ歸つて往つた。是れは商賣船を砲撃せし、一時の復讐なり。
文久三年六月五日、早朝より砲聲あり。今回は佛蘭西の軍艦二艘来襲して、前田の臺場を砲撃す。此日余銃隊は、日の山の裏手より、大谷越と云ふを踰えて、前田の臺場を砲撃す。十二時頃でありしと思ふ、其人數は五十人計り、臺場の後の街道、二軒茶屋と云ふ所まて(後に陣屋のありし處なり、※1)來ると、臺場の方から、一人陣笠を被つて來る人がある、此人は飯田甲藏と云ふ人なり。銃隊の司令官が、此人に對して、どんな様子であると問ふ。飯田曰く、臺場は巳に落ちて、皆々散走す。山内何某と云ふ者、一人討死せりと。余は側より此等の問答を聞き居たり、其時臺場に掛り居りし人數は、三十五人にして、大砲は二十四斤加農砲五門なり。五門の大砲に、三十五人と云へば、七人がゝりにして、一人の手替もなし。元来海岸砲は、一門に七人かゝらざれば、運用の出来ぬものなり。當時の事情、おもひやらる。それより辦當を遣ひなどせしが、此間の事は、能く記憶せぬ。
暫くありて異人が、前田村へ上陸して、放火すると云ふ報知があつた。卽ち二軒茶屋より、前田村の方へ進んで、總勢押出す。此戰が、余の初陣なりし。余のみならず、銃隊殘らずの初陣なりし。大谷越の登り口の處に、街道に傍ふて、松の並木がある。其の並木の處より、發砲す。余は少年の事であるから、外に何にも念はない。豫て戰争に出たら、唯死ぬる事だと、覺悟をして居つたから、別に怖いとも思はなかつた。併し少し夢中の氣味で、餘程様子が變つたものでありし。豫て戰争の時は、人の顔色が、土色になると聞て居りしゆゑ、皆の顔が、土色になつて居るかと思つて、氣を注けて見た事は、記憶して居る。暫く経つと、後の方でアッと云つて、一人ヒックリかへり。二三人寄つて、介抱をして居た。其頃の銃はゲペールと云つて、途轍もない大きな鐵砲て、少年の時は背丈けもあつた、幾ら彈丸を撃つたか覺えぬが、十發か十五發は撃つたらうと思ふ。
それから暫くすると、一向音もしない。淋しくなつたから、後の方を振り向ひて見ると、誰も人が居らぬ。是は皆々逃げたと見えると思つて、それから自分も逃げ出した。一町許り隔てゝ、一人二人、逃げる先生等の後ろ影が見える。さうして三四十間も逃げて来ると、ハトロンと云ふ彈薬包みが、散亂して捨てゝあつた。之を唐人に分捕せらるゝは、殘念と思ふて、拾ふて懐へ押込んで往つた。兎かうの内に、先に見えた人影がモウ見え無くなりしに。又銃が一挺打捨てゝありしゆゑ、之も分捕をされてはと思ふて、其筒と自身の分と、兩肩に擔うて、さうして逃げ出した。最前休んだ二軒茶屋の所まで來て見ると、自分も待道を往くのは怖くなり。左の山は、四五尺位の小松の生へ繁れる丘陵にて、長府までも長く續いて居る。其山へ一人で横切つて這入つた。其日は、尤も日和の宜い日でありし、松の木蔭に据り込んで休息すると。天地寂然として、只大砲の音、小銃の音が、心魂に徹し。前田の村を燒立つる煙は、天を焦すが如く、凄まじき事は言ふ許りなし。
此時忽然と、母親の事を思ひ出し。自分若し此處で死んだら、さぞ母親が嘆かるゝだらうと、獨泣に泣て、悲哀の情に堪へず、暫く其處に坐して居たが。段々日は傾くし、一先づ長府の方へ出て見るべしと、氣を勵まし。此處を立つて、山づたひ、長府の方へ下る。長府の入口に高山寺と云ふ寺がある。其の門前で銃隊の者打揃ふて、並列して居る。余が歸り來るを見て、遙に手を擧げて招く。其處に往けば、汝は打死せしと思つて居たと云つて、皆々喜んで吳れた。其中より一人出でゝ、是れは大きに有難いと言つて、余が拾ひ來りし銃を持つて往つた。余の年は十七歳、其者は二十四五歳なりし。常々余を虐待する人でありしかば、余は窃かに、是れからは虐待せらるゝ事はないと喜び居た。其後六月の末か、七月頃でありし、奇兵隊を立てらるゝ、志のある者は、入隊するやうにと云う御沙汰があつた。余が入隊せし頃は纔か三四十人許り。馬關竹崎の白石正一と云ふ豪家の家へ集まつた。追々に人數も加はり、三百人からになりし。其事歴は長くなるから、一段落とすべし。總じて少壮の時は、活氣强く、身命を輕んずれども、慈親の事を思ひ出す時は、非當の感動を生ず。物欲淡泊猶ほ天眞を全うする所あればなるべし。
爾後國事種々變遷す、卽ち京都の甲子の戰あり、馬關に英沸米蘭聯合の戰あり。當時余は、馬關前田の臺場に在りて戰ひし。京都の大敗、馬關の和議、其結局、謂はゆる長州征伐となる。遂に一藩内にて、正俗二黨の争亂を生ず。其正義黨なる者は、謂はゆる奇兵隊、南園隊、御楯隊、集義隊、遊撃隊などゝ名づくる諸隊なり。總勢凡そ千四五百人許り、勤王攘夷を主として起りし、有志の團體である。當時の政府は、正論家は倒れて、俗論黨となる。故に諸隊に命じて、武装を解き、周防の徳地と云ふ僻地に、一同謹慎をせよと云ふ事であつた。政府も兵を發して、此事を諸隊に强迫した。其の結果、遂に戰争となる。是より先き、余は前田の陣屋で、瘡をわづらひ、餘程身體を惡しくし、遂に黄疸と云ふ病となる。故に此の時、諸隊の本陣ありし伊佐と云ふ所の病院にて、療養して居つた。越えて明年(余が十九歳のとしなり、※1)正月六日に、愈々戰争する事になる。其の六日の夕刻、病院より銃を擔いで、河原と云ふ所に至り、郡に従つた。戰争中は、妙なもので、氣力も付き、健康も回復した。其の病院に居る時、着物は襤褸になり、殆ど乞食も同様の有様でありし。若し母が此處に居られたならば、洗濯でもして吳れらるゝであらうと思ひ出し。母親を慕ふの情が甚しく動き出し、殆ど逃出して、母親の處へ會ひに往かふと云ふやうな心持ちになつた。其時余又思へらく、今日の事は、毛利家の存亡に關はる大事である。謂はゆる關ヶ原の役以来の大艱難である。此時に方り、我等臣下は、一死以て此の艱難に投じて、君恩に報いるの外他事なし。是の事は、自分一己の恩に報い、自分一己の忠義を盡すのみにあらず誠に微禄ながら、先祖以来毛利家の禄を食んで、泰平の恩澤を受け來た世々の大恩を、我父祖に代りて、報ずべき時が來たのである。さすれば余が此事に斃るればとて、母親も不孝な者だ、母を置いてみづから先立つた、などゝ云ふ愚痴を言ふべきは理はあるまい。毛利家も、殆ど亡滅の時なる以上は、我が母親の生殘りて、不足不自由さるゝは、母親も諦らめて下さるだらうと、斯う決心した。凡そ斯かる決心の力は餘程强いものにて、後までも此流義て押し通し、遂に慈母に孝養を盡す事も出來なかつた。
内亂も平定して後、再たび長州征伐を受く。此戰も止んで伊藤の叔父面會せし時、叔父の云はるゝには、中村家の仕組も片付し故、隊を辭して、一家を經營し、母上にも安心さするやうにとの事なりし。余もどうか左様したいと思ひしも、天下の大勢、毛利家は防長に割據して、他は悉く敵國と云ふ有様なれば、一家經營に身を委するの決心も出來ず。因て母上に、此等の事を詳しく相談した。母上は、元來極めて朴實な性質であつて、姉などには如何ありしか、余に對しては、會て小言をも言はれた事は無い。余が何かを語れば、さうか/\とのみ言ふて居る一でありし。會て伊佐の病院にて、決心した事を、理を盡して話したら、只さうかとのみ云はれて、善いとも惡いとも、言はれない。伊藤の叔父は、是非歸家して、母上に安心させ、又先祖の供養等もしなければならぬと、切に言はる。由て余は思へらく、従弟の萬里介を、余の相續人にして、家督を譲り、一身を擲ちて奉公すべしと、心窃かに決心せり。當時余は隊長なりし、此隊長は、戰ふごとに眞先に先に立ちて、働くもの故、一戰争有るごとに、二人三人は必ず討死するものなり。當時天下の形勢は、つまり余の如きも、是迄は死を免かれ來るも、長く生存する理なし。さすれば今に及んで従弟を世繼とし。余は無きものとなりて、母上にも覺悟させて置く方、却てよろしからんと。此事を伊藤の叔父に圖りしに、叔父の曰く、母上が承知なら、それでも宜しかるべしと。因て又母上に其事を相談せしに、例に依て、善いとも惡いとも言はれぬ。總領の姉に相談せし處、姉は中/\氣丈な人で、それは以ての外の事である。私は總領に生れたが、お前と云ふ世繼があるから、他家へ嫁に往つた。若し他人に中村家を繼がせる程なれば、私が女でも養子を取つて、此家を相續すべきである。三人も兄弟ありて、一人も家の相續をせぬと云ふ事はないと、甚しく不同意を云はれた。余は此事を、丸て叔父に托して、大概にして陣屋で出て往ちた。其時中の姉は、猶家に居て、母親を介抱して居つて吳られた。慈母の逝去せられしは、明治元年十二月二日なり。誠に兩親に對して、更に孝養を爲すことの出來ぬ仕合なりしは、甚だ遺憾である。
元來母上は、萬事諦めの善い人であつたと見える。余が伏見の戰で、負傷したことが、國許へ間違て、討死したと云ふ事に傳へられた。余が隣家の柳田と云ふ家の老婆が心配して、一之介さんは、京都で討死をされたと云ふ事であるがどうか嘘であれば宜しいが、詳しい手紙でも來ませぬかと聞かれたら、母上の言はるゝには、あの子は平生から、殿様の爲に死ぬると申して居りましたが、若し死にましたら本望でござりましやうと云つて、少しも愁嘆の色が無かりしと、此事は余が歸國せし時、隣家の老婆さんが話した。是れは會て余の決心を母上に篤に申し陳べて置しゆゑ、余が生死の事は豫て決心して居られたと見える。その病氣も、大分長病でありし。余は當時防州熊毛にありしゆゑ、姉は誰か陣屋へ呼びに遣りましやうと言はるゝと。あの子が歸りて來たからとて、病氣が治るでもあるまい。あの子は、殿様の御爲に、陣屋に出て居るのだから、若し己れが亡くなりでもしたら、呼びにやるが宜しいが。周章て、呼びにやるにも及ばぬ、と云ふて居られたさうである。故に余が歸省せし時は、旣に言葉も聞き分ける事が出來ない、と云ふやうな事でありし。暫く介抱して居る中に亡くなられた。有體な事を申すと、斯ふ云ふ仕合である。兩親に對して孝養を盡すこと能はざりしは、誠に遺憾なり。
余の朋友中、陸奥との交りは、誠に面白い味がある。明治二年健武隊の参謀に任じ、京都より東京へ出張す。其年の四月頃、脱走した事がある。其仔細は、當時余は廢藩藩論を主持して居たり、今春東京へ行幸ありて、諸侯を召させられ、制度を定めらる、従前の藩主を、藩知事にする事となりし。當時いづれに決するか、頗る粉論のありし時、余は爲すあらんとし、隊を脱走して、伊藤の所に居たり。従前より陸奥と、伊藤とは、親交の間がらにて、屡々陸奥が來て國事を論ず、其時始めて陸奥と交りを結び、一見舊知己の如く、極めて親しくせり。是年の六月頃でありしか、山田顕義、品川彌二郎抔が、函館の賊を平定して、整武隊を師ゐて、東京に歸る。余が脱走せし時、共に脱せしもの七八人あり。在東京の先輩が心配して、品川山田と相談し、余輩を一旦歸國することゝなる。歸國の後、三十日ばかり、蟄居閉門を命ぜられ、極めて寛典の御沙汰で済んだ。
其の頃陸奥は、兵庫縣の知事に轉じ、余に手紙を寄せて、身上の一段落が付いたら、是非上て來い、直に神戸に來るやうにと、言つてよこした。其後陸奥は辭職して、大阪の紀州邸に在り。是の歳の十一月頃、余は獨行にて、國を出て大阪に來り、陸奥の處に暫く居やり。明年の二月頃、共に東京へ來る。遂に陸奥の關係からして、紀州戌營の顧問として、和歌山に行きし事あり。陸奥との交りは斯様な譯で、一時は兄弟同様に、親しく交つた。併し意見は、其時から往々衝突した。元來陸奥は、劇しい改革家であつた。其の一つを云へば、内地を開放して、西洋人を入れることは、急には出來ぬから。北海道だけは、丸で雑居地として開拓するが宜しい、と云ふ説を主張した。随分過激の議論をする人でありし故に、余と往々議論は衝突したが、交りは何時も變わなかつた。又元老院の創立の時は、余と陸奥と頗る劇しく争ふた、それは明治八年の事である。其後十年西南の役の頃は、陸奥は元老院の幹事でありし。餘程不平のあつたものと見えて、遂に國事犯を仕出した。當時大阪で謀反連中が、大久保木戸伊藤を斃すべしと云ふ評議をした、所謂暗殺を企てた。其時陸奥が其處に居て、鳥尾も除かないと、頗る後の害になると云ふた。是事は信偽は知らぬが、探偵に上つて、余も當時聞取て居た。
其明くる年明治十一年、余が東京に歸ると、三月頃でありしか、四月頃でありしか、陸奥が來て言ふには、さて變な事がある、今日有栖川の宮より、御用があると云ふ事で伺候した、宮の仰せに、其の方に嫌疑がかゝり、不日裁判所より召喚されるかも知れぬ。それは大江抔の國事犯である。其方は覺えは無かろうが、此事を心得の爲に通じ置く、との事であるが、此際いかゞ處分したらよからうか。萬々覺えは無いが、君に相談すると、折入て相談をした。其時陸奥は、兼て覺悟して居りしか、随分平穏に話して、決して狼狽した様子はなかりし。余が曰く、貴公は十分此の難關を切り抜ける考があるかと。陸奥曰く、それは大概ある積りだ。大江抔と、少しは話した事もあるけれど、我等が其の連類になつて、刑法に關るやうな事はない積りじやと。余が曰く、そんなら此事は、君の才智を盡して免るゝことに覺悟するがよい。併し證據攻にせられて、已むを得ない場合に、押移つて來たら。其時は此事件は、自身が主としてやつたのである、おのづから大江抔の趣向と違ふと云ふことにするがよろしい。元來此事件は、國事犯の未遂と云ふものならむ。何年間か禁獄位の事なるべし、君も再び世に出て來るだらう。出て來たときに、大江抔の御供をした國事犯では仕方がない。一向ら免るゝが爲に、男らしくない事は、しない方が宜いと、余は斯く氣附を云へり。陸奥曰く、それならそれに決心しやうと、斯う云うて別れた。それより二三日ばかり経つて、裁判所に拘留せられ、事實の如き處分になつた。世間では、當時陸奥が狼狽して、自身から色々の事を饒舌り出して、刑期が三年で済むものを、遂に五年になるやうにしたと云ふ者もあれど、其内實は、余が忠言を納れて、彼れはみづから是とする所を行ふたのである。其後とても、何か困難を感ずると、必ず余に相談した。余も相談されると、自分の流儀は外にして、全く陸奥の流儀になりて、彼れが爲に圖つた。其中には、隠微に渉る事もあるから、此の話しは略して置かう。
明治二十五年の内閣更迭に、陸奥は外務大臣に任ぜられた。其時余は熱海より歸京して、井上に用事があつて、内務大臣の官舎へ往きし所へ、陸奥と今一人大臣が来訪した。余は陸奥に對して曰く、君と余は、二十餘年の交友である故に余は頗る君の流儀を知悉す。君の流儀は、第一みづから用ふるの位置を得て、一向ら國家に功を立てやうと云ふ希望である。従前の擧動は、一に此の希望より割出して、進退されたに相違無い。然るに今日外務大臣の任は、即ち君の才力を用ひて、功を立つべき位置である。若し此位置を得て、功を立つる事が出來ぬなら、従前の君の抱負は、一向價値がない。されば是迄の如く、一退一進を輕くぜず、十分に腹を据ゑて、此内閣と共に倒れ、共に功を立てる決心が、尤も肝要だと思ふと。陸奥曰く、それは無論の事であると、余が曰く、余は今日君に對して、一言云ふべき事がある、君等が明治十年、大阪に於て暗殺を企てた時、君は余をも殺すべし、と主張した、余は此事を聞きて以爲らく、陸奥は陸奥流の事をしやうと思ふから、殺すべしと言たであらうと。其後君が捕へられる時、余の所に來て相談をした、余は朋友の義として、君の爲に忠實に圖つたことは、記憶して居るだらうと。陸奥曰く、それは記憶して居る、我等が君を殺すべしと主張した所以は、君を知るの深きによる。若し君にして在る時は、必ず我等の大害になる故に、主張したに相違ないと、共に大笑した事がある。此れは明治二十五年十月頃の事と思ふ。終に陸奥は外交の人に當つて、奇功を立て、立派に末路を終へた。即ち余と陸奥との交際の全たかつた事は是で能く分かる。其議論は、根本から違ふ。而して或時は殺す殺さぬの云ふ事の有りしに關らず、終始交りを變ぜざりしは、余が交友中、一つ有りて二ない友でありし。
余が幼名は、一之助といひ、父君が歿せられて、家督相續するとき、百太郎と改名す。奇兵隊には入りし後ち、中村鳳輔と改む。其頃先輩達が、或る事情の爲めに、種々に變名す。此風おのづから流行して、隊中の者、大概は變名せり。余は十九歳の春、抜擢せられて隊長となる。其年の事なりし、或日、本陣にて、種々雑談の末、交野十郎と云ふ人(本陣には總督、軍艦、参謀、書記等の役あり、交野は参謀にて、書記を兼ねし、※1)余に、君も姓名ともに變ずるがよいと勸む、余云ふ、中村の同姓に鳥尾と云ふがある、是れは今は無いが、古くは有りし、此姓に變へてもよろしと、交野曰く、至極善い姓だ、鳥尾小彌太と名づくべし、鎌倉時代に、鷲尾大彌太と云ふがある、中村鳳輔は武士の様ではないと、余も餘りに事好みの名なれば、只笑うて歸りし。其翌日になると、此の交野が専斷して、中村鳳輔は、此度仔細ありて鳥尾小彌太と改名すと、隊中一同へ布告を發す、別段怒る程の事にも非ざれば、其儘にして差置き、終に鳥尾小彌太と云ふ姓名になつた。今日思ふに、此の交野は頗る鎌倉好きの人でありしと見える、此人の姓名は、元は野村何某と云ひし、それを交野十郎御狩と、いかにも鎌倉武士風に變名した。余が姓名もかゝる事情ゆゑ、勿論一時の變名として、いつか本姓に復する積りでありし。然る處明治元年の伏見の戰に負傷し、歸國後敬親公より、御感状を賜はる、其宛名も鳥尾小彌太どのへ敬親とあり。苟も君公の御認めになりし姓名ゆゑ、又も變ずるに忍びず、其儘にして今日に到る、容易な事も、其身に應ずれば、それが終身の本領となる、いかにも不思議の事なり。
玆に又似たる事あり、余が別號得庵も、實は他人のおし付けし號なり。始め陸奥の親父に、伊達自得と云ふ人あり、余に禅学を勸し人なり。或時此老人に、何か面白い雅號は有るまいかと相談した、老人の云はるゝには、得々不得、不得得々と云ふ事あり、余は其意を取りて、自得居士と稱す、君は得々居士と云ふが然るべしと、由て得々居士と稱す。其後明治八年頃でありし、三好重臣が、大阪鎮臺の司令官たりし。三好は書を能く書く、或時酒宴の席上で、得々庵と云ふ額を書き吳れよと求めしに、重臣云ふ、得々庵は面白からず、得庵とするが宜しいとて、得庵のに文字を書して吳れた。終に得々庵より、得庵が稱し易いが爲めに、みづからも他も、得庵と云ふもあり、御垣と云ふ俳名もある。けれどもいづれも相應しないと見えて、人の押付けし名を、心ならず用ひ、それが變ずべからざる號となりし。今より考へると、悉く杜選の至りなれど、又世の因縁より考へると、妙なものである。
「父母の恵や露の置どころ」 此の句によりて、此の書を恵の露と名づく。

補足事項

※1:()内 小文字二段組み
得庵全書所収版を元に文字を起こしております。

『得庵全書』 ー 国立国会図書館デジタルコレクション
p1100 – 1121 ※スライド 562/700 ~ 572/700

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