著作鳥尾小弥太

【史資料】鳥尾の志操を見てみよう

概要

以前この記事でちょっとだけ孫引きした、鳥尾の回顧。

【覚書】私が鳥尾小弥太にハマった経緯をまとめてみた

元ネタは『明道協會要領解説』というものなんですが、孫引きさせていただいた一節が本当に鳥尾の考え方というか人生というかを凝縮したものなのです。
というわけで、その一節と、晩年の鳥尾が記した一文を並べて、彼の辿りついた人生の「答え」を見てみましょう。
記事タイトル、最初「思想」だったんですが、廣子さんの記事をまとめているときに、彼女が「志操」という言葉を使っていて、こっちのほうがしっくりくるなぁ、と変えてみました。

 

明道協會要領解説(抜粋)

余も六七歳の時始めて生死の苦を知り、漸く不思議の境を感す。十二三歳の時に至り、全く斷見に堕在す。以為く、斯く人の愁苦多きを見れば、神仏有りて之を守護するに非ずと。又自身の心に、罪垢ありとも覚えねば、因果ありて貧賤に生まれたるにも非ず。生死禍福も偶然なり。天地名月の運為も偶然なりと思惟し。唯疑ひの存するは、天の天外は、何の際限ありて限れるかと思ふ計りなり。されば自ら身命を軽視すること土芥の如く、以為らく生れて貧賤なるは、木石の病ひなくして寿を保つに及ばずと、大邪見を起し。其より口に忠義と唱へ、武芸を学び、立身出世を起す。十七歳の時より戦場に臨み、數度必死の途を侵す。幸いに先輩善友より勤王の大義を聽き、之に薫習して善因縁を結ふ。且つ、心に銘せしは慈父在世の時、小人閑居為不善と云ふ大學の句を以て教誡せられ、之を記念として罪科にも堕入らざりし此間十年餘のことは實に云ふへからざる迷惑なり。維新の世となり軍も止み、世上は議論の戦場となり因て又例の不思議の感を生し、儒書を讀み其説を求むるに、彼の善惡性理の説、余か心に應せす。以為く、天地の不思議は釋迦も孔子も悉く知らす、其教は只々世の中の折合の好き様に、道理を付け人を治めし者なり、吾こそは何とかして此不思議を看破し、無前無後の大道を明了すへけれと思ひ定めたり。
「明道協會要領解説」『明治文化全集第十一巻』(日本評論社/1928年)p299

 


意訳

私も6、7歳の時に初めて生死の苦を知り、どうしてこのような想いをするのだろうということを考えるようになった。そうして12、13歳の時には、全く愚かな考えに陥っていた。思うに、このように人の憂いや苦しみが多いことをみれば、神や仏は我々を守ってくださっているのではない、と。
また、自身の心に罪の覚えもないので、因果があって貧しい身分に生まれたとも思えない。ということは、生きるも死ぬも、不運であることも幸福であることも偶然なのである。天や地や太陽や月の動きすらも偶然であるのだ。ただ疑問であったのは、天の「外」といわれているのは、なにを基準としていえるのだろうかということであった。
されば、自らの身命は取るに足らないものであると軽視し、貧しい身分に生まれてしまったのは血も涙も通う人として生きていく価値がないということなのだ、と大邪見を起こして、それより口では忠義と唱え、武芸を学び、立身出世のために働いた。

17歳の時より戦場へ出て、数度死にそうな目にもあった。
幸いに、先輩や善き友より勤王の大義を聴き、これに心底影響を受けて考えを改めることができた。
かつ、心に刻んでいたのは我が父が生きておられた時、「小人閑居為不善」(教養や人徳のない人が暇を持て余すととかく悪事に走りやすい)という大学の一節を常々教えられたことである。罪科にも陥らなかったこの10年ほどの期間のことは実にいうべきではないと困ったものだ。

維新がなって明治の世となり、陸軍も辞めた。世の中は議論の戦場となってまた例の「人はなんであるのか」という疑問を感じるようになり、儒学などの書を読みその答えを求めたが、そのいうところの性善説や性悪説の解釈は、私にとって納得できるものではなかった。思うに、こうした疑問の答えは釈迦も孔子もみな知らず、彼らの教えはただただその時の世の中の都合の良いように道理をつけて人を治めるものである。
我こそはなんとかこの「問」の答えをみつけて、真の真理を明らかにすると決意した。

 

雑感

12、3歳のとき、というのは、父・宇右衛門に連れられて江戸の長州藩邸詰めになった頃ですね。
江戸詰めになると、少しばかり給金が増えたようですので、中村家(鳥尾の旧姓は中村)としては少しでも生活の足しにと思ったのでしょう。ただ貧しい暮らしは変わりなかったようで、真冬でも掛け布団一枚を二つに折って寒さをしのがねばならなかった、と後年回顧しています。

そんな江戸暮らしのある日、宇右衛門さんが帰国することに。三か月くらいで戻ってくるから、お前はここに残っていなさい、と言われ、鳥尾は一人江戸に残ります。
(これがまた、恵の露の回顧だと「汝は我慢して」と父上が言っていて、切ない)
そして、そのまま宇右衛門さんは帰路で亡くなってしまいます。一家の大黒柱が亡くなったため、ただでさえ生活の苦しかった中村家は一家離散の状況に。鳥尾は二番目の姉と、叔父の家に世話になることになりました。

それはともかく、この記事とリンクするのが「無神論」。
たまに(いつも?)暴走しがちな鳥尾ですが、晩年の彼のベースはまさにこの精神だったんだなぁと思う、お気に入りの一節です。無神論は現在近デジで公開されています。

然も是の如しとは云へど、口があるから食はねばならぬ。目があるから、見ねばならぬ。耳があるから、聞かねばならぬ。身體があるから、養生もせねばならぬ。自身も其通り、他身もその通り、人間一般に其通りとすれば。随分、難儀な事もあるべし。これを取り纏めて言へば、つまり欲の世界である。ほしいほしいより外に、子細はない。此のほしいほしいに是をかけたが、愛である。己れを可愛がるである。種々高慢な事も、言へば言はるゝなれど。つまりと云へば、玆に落着する。見よ、無事な時には天下の為とか、國家のためとか、言ふものも、澤山なれど。少し自身の上に、病気でも出来ると。先は天下も國家も、取除けじゃ。七轉八倒して、狂ひ出す、これを凡夫と云ふ。此の凡夫の心實が、正直な所である。此の正直な處を、忘れさへせねば、おのづと邪見な事もない。人を呪詛へば、穴二つじゃ。
此の人間世界に、我が身を芥の如く思ひて、傍若無人の振舞をなすものほど、畏しきものは無い。一番大切な我が身を、芥の如く思ふほどなるによりて、其以上は、推して知らるゝ。看よ、船に乗るに、命知らずの船頭に打任せては、心元なきことである。みづから其身を大切に思ふものは、おのづと人をも大切に思ふ、物をも大事に思ふ。啻に人と物とを大切に思ふものばかりでは無く、明日の事をも、大切に思ふ。明年の事をも、大切に思ふ。遂に身後の事までも、大切におもふ。一家一村、一國までも大切に思ふ。みづから大切に思ふ心に相應して、一切の事が大切に見ゆる。愚痴なものほど、みづから大切な事を知らぬ。
「無神論三」『得庵全集』(鳥尾得庵/1911年)p956-957

個人的には鳥尾好きの方にはぜひ「恵の露」を読んでほしいと思う。
鳥尾が「中村鳳助」から「鳥尾小弥太」に改名したいきさつがちゃんと載ってるのこれだけですし、先鋒隊と奇兵隊の時の話なんて、ほんとに、尋常じゃないくらいものすごく可愛いです。

得庵全書 - 近代デジタルライブラリー

自分でも言っていますが、鳥尾のベースっていうのはやっぱりお父上の宇右衛門さんなんだなーと。
貧乏だったからかもしれないですが、村塾生の伝記とか回顧みても、こんなに実父が勉強教えてくれることなんてなかったんだろうと思います。しかし、下級武士なのにそういった教養があるものなんですかね。当時はやっぱりそれが常識だったのか、宇右衛門さん自身がすごく勉強に励む人だったのか…。残ってる話をみると、私は後者のような気がするんですな。

で、そんな鳥尾も、血は争えないのか(笑)、「華族女学校なんかやめちまえ!なってない!俺自らが教育する!」と娘の廣子ちゃんに色々勉強を教えたようで(「兒戀草」書いてあげたり)。そしてそれを廣子ちゃんも自分のベースとしているんですな。(流石に廣子ちゃんは、こどもを学校中退させたりはしていない)

【史資料】娘の語る鳥尾小弥太(日野西廣子「父の思ひ出」『大道』 昭和13年6月号)

廣子ちゃんが自分の子どもに教えながら鳥尾のことを思っているように、鳥尾も多分、廣子ちゃんに勉強教えながら宇右衛門さんのことを懐かしんでたんだろうなーと思うと、しみじみします。
光くんに勉強を教えたエピソードをきかないのは、やっぱり彼が病弱だったからんでしょうか…。光くんは姉さんと打って変わって、能へ芝居へでかけまくりですからな…。

*2021/08/14 追記*
『恵の露』の本文を掲載いたしました。
恵の露~鳥尾小弥太の回顧録~

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