幕末維新歴史ネタ著作鳥尾小弥太

【鳥尾小弥太】恵の露03~鳥尾小弥太と奇兵隊~

1901(明治34)年5月に出版された、鳥尾小弥太が自ら記した小伝である『恵の露』を紹介しています。
今回は第三回目で、原文の記載順を一部入れ替えて奇兵隊に関する部分です。

全文の文字起こしした記事は以下です。
恵の露~鳥尾小弥太の回顧録~

なお、恵の露は現在国立国会図書館デジタルライブラリーで公開されている『得庵全書』に収録されています。
得庵全書 ー 国立国会図書館デジタルライブラリー

本文

十七歳の四月頃に御沙汰ありて、銃隊として、下ノ關へ出張を命ぜらる。少壮の事ゆゑ、尤も面白い事と、喜んで出て往つた。是れ卽ち長藩で始めて攘夷をした時である。

五月の二十日前後ならん、西洋船が、馬關の瀬戸を通ると、悉く砲撃をする。彼れは商売船にして、不意の事ゆゑ抵抗もせずして逃るゝを、攘夷の實行と思ひ居たるもをかし。此時元篠公、馬關攘夷の有様を巡見の爲にとて、出陣ありし。六月一日、蒸氣船壬戌丸に乗つて、馬關を發し、防州三田尻へ歸向せらるゝ事となる。余輩は鍋濱と云ふ所へ、見送りに往つて居つた。兵隊でありながら、鐵砲も持たず、隊をも組まずして、自儘/\に往つた。
朝十時頃、上口の相圖の砲聲が聞ゆ、皆々走つて陣屋へ歸り、(陣屋は新地と云ふ處に在り、 ※1)武装して、鍋濱へ再び来て見れば、最早戰もなく、敵船も見えぬ。鍋濱に碇泊せし庚辰丸と云ふ帆前船は、打ち沈めらる。癸亥丸と云ふ帆前船も、百五十磅の破裂彈の爲めに、大半破壊せらる。壬戌丸は、蒸氣釜を撃ち抜かれて、岩柳と云ふ所の淺瀬に乗り上げ、後には、顚覆した。此の戰は亞米利加の軍艦一艘にて、忽ちの間に、三艘の戰艦を打碎いて、直ぐに上口へ歸つて往つた。是れは商賣船を砲撃せし、一時の復讐なり。

文久三年六月五日、早朝より砲聲あり。今回は佛蘭西の軍艦二艘来襲して、前田の臺場を砲撃す。此日余銃隊は、日の山の裏手より、大谷越と云ふを踰えて、前田の臺場を砲撃す。十二時頃でありしと思ふ、其人數は五十人計り、臺場の後の街道、二軒茶屋と云ふ所まて(後に陣屋のありし處なり)來ると、臺場の方から、一人陣笠を被つて來る人がある、此人は飯田甲藏と云ふ人なり。銃隊の司令官が、此人に對して、どんな様子であると問ふ。飯田曰く、臺場は巳に落ちて、皆々散走す。山内何某と云ふ者、一人討死せりと。余は側より此等の問答を聞き居たり、其時臺場に掛り居りし人數は、三十五人にして、大砲は二十四斤加農砲五門なり。五門の大砲に、三十五人と云へば、七人がゝりにして、一人の手替もなし。元来海岸砲は、一門に七人かゝらざれば、運用の出来ぬものなり。當時の事情、おもひやらる。それより辦當を遣ひなどせしが、此間の事は、能く記憶せぬ。

暫くありて異人が、前田村へ上陸して、放火すると云ふ報知があつた。卽ち二軒茶屋より、前田村の方へ進んで、總勢押出す。此戰が、余の初陣なりし。余のみならず、銃隊殘らずの初陣なりし。
大谷越の登り口の處に、街道に傍ふて、松の並木がある。其の並木の處より、發砲す。余は少年の事であるから、外に何にも念はない。豫て戰争に出たら、唯死ぬる事だと、覺悟をして居つたから、別に怖いとも思はなかつた。併し少し夢中の氣味で、餘程様子が變つたものでありし。豫て戰争の時は、人の顔色が、土色になると聞て居りしゆゑ、皆の顔が、土色になつて居るかと思つて、氣を注けて見た事は、記憶して居る。
暫く経つと、後の方でアッと云つて、一人ヒックリかへり。二三人寄つて、介抱をして居た。其頃の銃はゲペールと云つて、途轍もない大きな鐵砲て、少年の時は背丈けもあつた、幾ら彈丸を撃つたか覺えぬが、十發か十五發は撃つたらうと思ふ。
それから暫くすると、一向音もしない。淋しくなつたから、後の方を振り向ひて見ると、誰も人が居らぬ。是は皆々逃げたと見えると思つて、それから自分も逃げ出した。一町許り隔てゝ、一人二人、逃げる先生等の後ろ影が見える。さうして三四十間も逃げて来ると、ハトロンと云ふ彈薬包みが、散亂して捨てゝあつた。之を唐人に分捕せらるゝは、殘念と思ふて、拾ふて懐へ押込んで往つた。兎かうの内に、先に見えた人影がモウ見え無くなりしに。又銃が一挺打捨てゝありしゆゑ、之も分捕をされてはと思ふて、其筒と自身の分と、兩肩に擔うて、さうして逃げ出した。最前休んだ二軒茶屋の所まで來て見ると、自分も待道を往くのは怖くなり。左の山は、四五尺位の小松の生へ繁れる丘陵にて、長府までも長く續いて居る。其山へ一人で横切つて這入つた。其日は、尤も日和の宜い日でありし、松の木蔭に据り込んで休息すると。天地寂然として、只大砲の音、小銃の音が、心魂に徹し。前田の村を燒立つる煙は、天を焦すが如く、凄まじき事は言ふ許りなし。
此時忽然と、母親の事を思ひ出し。自分若し此處で死んだら、さぞ母親が嘆かるゝだらうと、獨泣に泣て、悲哀の情に堪へず、暫く其處に坐して居たが。段々日は傾くし、一先づ長府の方へ出て見るべしと、氣を勵まし。此處を立つて、山づたひ、長府の方へ下る。長府の入口に高山寺と云ふ寺がある。其の門前で銃隊の者打揃ふて、並列して居る。余が歸り來るを見て、遙に手を擧げて招く。其處に往けば、汝は打死せしと思つて居たと云つて、皆々喜んで吳れた。其中より一人出でゝ、是れは大きに有難いと言つて、余が拾ひ來りし銃を持つて往つた。余の年は十七歳、其者は二十四五歳なりし。常々余を虐待する人でありしかば、余は窃かに、是れからは虐待せらるゝ事はないと喜び居た。

其後六月の末か、七月頃でありし、奇兵隊を立てらるゝ、志のある者は、入隊するやうにと云う御沙汰があつた。余が入隊せし頃は纔か三四十人許り。馬關竹崎の白石正一と云ふ豪家の家へ集まつた。追々に人數も加はり、三百人からになりし。其事歴は長くなるから、一段落とすべし。
總じて少壮の時は、活氣强く、身命を輕んずれども、慈親の事を思ひ出す時は、非當の感動を生ず。物欲淡泊猶ほ天眞を全うする所あればなるべし。

爾後國事種々變遷す、卽ち京都の甲子の戰あり、馬關に英沸米蘭聯合の戰あり。當時余は、馬關前田の臺場に在りて戰ひし。京都の大敗、馬關の和議、其結局、謂はゆる長州征伐となる。遂に一藩内にて、正俗二黨の争亂を生ず。其正義黨なる者は、謂はゆる奇兵隊、南園隊、御楯隊、集義隊、遊撃隊などゝ名づくる諸隊なり。總勢凡そ千四五百人許り、勤王攘夷を主として起りし、有志の團體である。
當時の政府は、正論家は倒れて、俗論黨となる。故に諸隊に命じて、武装を解き、周防の徳地と云ふ僻地に、一同謹慎をせよと云ふ事であつた。政府も兵を發して、此事を諸隊に强迫した。其の結果、遂に戰争となる。
是より先き、余は前田の陣屋で、瘡をわづらひ、餘程身體を惡しくし、遂に黄疸と云ふ病となる。故に此の時、諸隊の本陣ありし伊佐と云ふ所の病院にて、療養して居つた。越えて明年(余が十九歳のとしなり)正月六日に、愈々戰争する事になる。其の六日の夕刻、病院より銃を擔いで、河原と云ふ所に至り、郡に従つた。戰争中は、妙なもので、氣力も付き、健康も回復した。其の病院に居る時、着物は襤褸になり、殆ど乞食も同様の有様でありし。若し母が此處に居られたならば、洗濯でもして吳れらるゝであらうと思ひ出し。母親を慕ふの情が甚しく動き出し、殆ど逃出して、母親の處へ會ひに往かふと云ふやうな心持ちになつた。其時余又思へらく、今日の事は、毛利家の存亡に關はる大事である。謂はゆる關ヶ原の役以来の大艱難である。此時に方り、我等臣下は、一死以て此の艱難に投じて、君恩に報いるの外他事なし。是の事は、自分一己の恩に報い、自分一己の忠義を盡すのみにあらず誠に微禄ながら、先祖以来毛利家の禄を食んで、泰平の恩澤を受け來た世々の大恩を、我父祖に代りて、報ずべき時が來たのである。さすれば余が此事に斃るればとて、母親も不孝な者だ、母を置いてみづから先立つた、などゝ云ふ愚痴を言ふべきは理はあるまい。毛利家も、殆ど亡滅の時なる以上は、我が母親の生殘りて、不足不自由さるゝは、母親も諦らめて下さるだらうと、斯う決心した。凡そ斯かる決心の力は餘程强いものにて、後までも此流義て押し通し、遂に慈母に孝養を盡す事も出來なかつた。

内亂も平定して後、再たび長州征伐を受く。此戰も止んで伊藤の叔父面會せし時、叔父の云はるゝには、中村家の仕組も片付し故、隊を辭して、一家を經營し、母上にも安心さするやうにとの事なりし。余もどうか左様したいと思ひしも、天下の大勢、毛利家は防長に割據して、他は悉く敵國と云ふ有様なれば、一家經營に身を委するの決心も出來ず。因て母上に、此等の事を詳しく相談した。
母上は、元來極めて朴實な性質であつて、姉などには如何ありしか、余に對しては、會て小言をも言はれた事は無い。余が何かを語れば、さうか/\とのみ言ふて居る一でありし。會て伊佐の病院にて、決心した事を、理を盡して話したら、只さうかとのみ云はれて、善いとも惡いとも、言はれない。伊藤の叔父は、是非歸家して、母上に安心させ、又先祖の供養等もしなければならぬと、切に言はる。由て余は思へらく、従弟の萬里介を、余の相續人にして、家督を譲り、一身を擲ちて奉公すべしと、心窃かに決心せり。
當時余は隊長なりし、此隊長は、戰ふごとに眞先に先に立ちて、働くもの故、一戰争有るごとに、二人三人は必ず討死するものなり。當時天下の形勢は、つまり余の如きも、是迄は死を免かれ來るも、長く生存する理なし。さすれば今に及んで従弟を世繼とし。余は無きものとなりて、母上にも覺悟させて置く方、却てよろしからんと。此事を伊藤の叔父に圖りしに、叔父の曰く、母上が承知なら、それでも宜しかるべしと。因て又母上に其事を相談せしに、例に依て、善いとも惡いとも言はれぬ。總領の姉に相談せし處、姉は中/\氣丈な人で、それは以ての外の事である。私は總領に生れたが、お前と云ふ世繼があるから、他家へ嫁に往つた。若し他人に中村家を繼がせる程なれば、私が女でも養子を取つて、此家を相續すべきである。三人も兄弟ありて、一人も家の相續をせぬと云ふ事はないと、甚しく不同意を云はれた。余は此事を、丸て叔父に托して、大概にして陣屋で出て往ちた。其時中の姉は、猶家に居て、母親を介抱して居つて吳られた。慈母の逝去せられしは、明治元年十二月二日なり。誠に兩親に對して、更に孝養を爲すことの出來ぬ仕合なりしは、甚だ遺憾である。

元來母上は、萬事諦めの善い人であつたと見える。
余が伏見の戰で、負傷したことが、國許へ間違て、討死したと云ふ事に傳へられた。余が隣家の柳田と云ふ家の老婆が心配して、一之介さんは、京都で討死をされたと云ふ事であるがどうか嘘であれば宜しいが、詳しい手紙でも來ませぬかと聞かれたら、母上の言はるゝには、あの子は平生から、殿様の爲に死ぬると申して居りましたが、若し死にましたら本望でござりましやうと云つて、少しも愁嘆の色が無かりしと、此事は余が歸國せし時、隣家の老婆さんが話した。是れは會て余の決心を母上に篤に申し陳べて置しゆゑ、余が生死の事は豫て決心して居られたと見える。その病氣も、大分長病でありし。余は當時防州熊毛にありしゆゑ、姉は誰か陣屋へ呼びに遣りましやうと言はるゝと。あの子が歸りて來たからとて、病氣が治るでもあるまい。あの子は、殿様の御爲に、陣屋に出て居るのだから、若し己れが亡くなりでもしたら、呼びにやるが宜しいが。周章て、呼びにやるにも及ばぬ、と云ふて居られたさうである。故に余が歸省せし時は、旣に言葉も聞き分ける事が出來ない、と云ふやうな事でありし。暫く介抱して居る中に亡くなられた。有體な事を申すと、斯ふ云ふ仕合である。兩親に對して孝養を盡すこと能はざりしは、誠に遺憾なり。

**中略**

余が幼名は、一之助といひ、父君が歿せられて、家督相續するとき、百太郎と改名す。奇兵隊には入りし後ち、中村鳳輔と改む。
其頃先輩達が、或る事情の爲めに、種々に變名す。此風おのづから流行して、隊中の者、大概は變名せり。
余は十九歳の春、抜擢せられて隊長となる。其年の事なりし、或日、本陣にて、種々雑談の末、交野十郎と云ふ人(本陣には總督、軍艦、参謀、書記等の役あり、交野は参謀にて、書記を兼ねし)余に、君も姓名ともに變ずるがよいと勸む、余云ふ、中村の同姓に鳥尾と云ふがある、是れは今は無いが、古くは有りし、此姓に變へてもよろしと、交野曰く、至極善い姓だ、鳥尾小彌太と名づくべし、鎌倉時代に、鷲尾大彌太と云ふがある、中村鳳輔は武士の様ではないと、余も餘りに事好みの名なれば、只笑うて歸りし。
其翌日になると、此の交野が専斷して、中村鳳輔は、此度仔細ありて鳥尾小彌太と改名すと、隊中一同へ布告を發す、別段怒る程の事にも非ざれば、其儘にして差置き、終に鳥尾小彌太と云ふ姓名になつた。

今日思ふに、此の交野は頗る鎌倉好きの人でありしと見える、此人の姓名は、元は野村何某と云ひし、それを交野十郎御狩と、いかにも鎌倉武士風に變名した。余が姓名もかゝる事情ゆゑ、勿論一時の變名として、いつか本姓に復する積りでありし。
然る處明治元年の伏見の戰に負傷し、歸國後敬親公より、御感状を賜はる、其宛名も鳥尾小彌太どのへ敬親とあり。苟も君公の御認めになりし姓名ゆゑ、又も變ずるに忍びず、其儘にして今日に到る、容易な事も、其身に應ずれば、それが終身の本領となる、いかにも不思議の事なり。

玆に又似たる事あり、余が別號得庵も、實は他人のおし付けし號なり。
始め陸奥の親父に、伊達自得と云ふ人あり、余に禅学を勸し人なり。或時此老人に、何か面白い雅號は有るまいかと相談した、老人の云はるゝには、得々不得、不得得々と云ふ事あり、余は其意を取りて、自得居士と稱す、君は得々居士と云ふが然るべしと、由て得々居士と稱す。
其後明治八年頃でありし、三好重臣が、大阪鎮臺の司令官たりし。三好は書を能く書く、或時酒宴の席上で、得々庵と云ふ額を書き吳れよと求めしに、重臣云ふ、得々庵は面白からず、得庵とするが宜しいとて、得庵のに文字を書して吳れた。終に得々庵より、得庵が稱し易いが爲めに、みづからも他も、得庵と云ふもあり、御垣と云ふ俳名もある。けれどもいづれも相應しないと見えて、人の押付けし名を、心ならず用ひ、それが變ずべからざる號となりし。今より考へると、悉く杜選の至りなれど、又世の因縁より考へると、妙なものである。

「父母の恵や露の置どころ」 此の句によりて、此の書を恵の露と名づく。

 

意訳

文久三年(1863)十七歳の四月頃に御沙汰があって、銃隊として下関へ出張を命じられた。若かったので、これは面白いことだと喜んで出て行った。すなわち、長州で初めて攘夷を行った時のことである。

五月二十日前後だったかと思うが、西洋船が馬関の瀬戸を通ると長州でこれをことごとく砲撃をする。これは商売船だったので、不意だったこともあり抵抗もせずに逃げていったのを攘夷の実行と思っていたのは、今思うと滑稽なことであった。この時、三條実美公が馬関に攘夷の有様を巡見されるということで出陣があった。
その後、三条公は六月一日に蒸気船壬戌丸に乗って馬関を出発し、防州三田尻へお帰りになられるということで、私どもは鍋濱というところへ見送りに行っていた。兵隊でありながら鉄砲も持たず、隊列も組まずに自由に行ったのである。朝十時頃、上口の合図の砲撃が聴こえた。皆走って陣屋へ帰り(陣屋は新地というところにあった)、武装して鍋濱へ再び来てみれば、もはや戦はなく敵の船も見えなかった。鍋濱に碇泊していた庚辰丸という帆前船は打ち沈められていた。癸亥丸という帆前船も、百五十ポンドの破裂弾のために大破されていた。壬戌丸は蒸気釜を撃ち抜かれて岩柳というところの浅瀬に乗り上げ、その後転覆した。この戦はアメリカの軍艦一艘にてあっという間に三艘の戦艦を打ち砕いたもので、その軍艦はすぐに上口へ帰っていった。これは商売船を砲撃したことに対する一時的な復讐だったのだ。

文久三年(1863)六月五日、早朝より砲声があった。今回はフランスの軍艦二船が来襲して、前田の台場を砲撃した。
この日、私の所属していた銃隊は、日の山の裏手より大谷越というところを越えて、前田の台場を砲撃した。十二時頃であったと思うが、その人数は五十人ばかり、台場の後ろの街道の二軒茶屋(のちに陣屋のあったところである)まで来ると、台場のほうから一人陣笠を被ってくる人がある。この人は飯田甲蔵という人であった。銃隊の司令官が、この人に対してどんな様子であるかと問うた。飯田がいうには、台場はすでに落ちて皆散り散りになって逃げた、山内某という者が一人討死した、ということだった。私は側にあってこの問答をきいていた。
当時前田台場にいたものは三十五人で、大砲は二十四ポンドのカノン砲五門だった。五門の大砲に三十五人といえば、一つに付き七人がかりなので一人の交代要員もいなかった。元来前田台場に置かれているような海岸砲は、一門にたいし七人で掛からなければ運用できないものである。当時の事情が思いやられる。それより弁当の使いなどを行っていたが、この間のことはよく覚えていない。
しばらくして、異人が前田村へ上陸して放火するという報告があった。このため、二軒茶屋より前田村のほうへ進んで総員出陣することになった。この戦が、私の初陣であった。私のみならず、銃隊残らず皆初陣であった。

大谷越の登り口のところに、街道に沿って松の並木がある。その並木のところより発砲した。私は少年だったので、ほかに何も考えてはいない。かつて、戦争に出たらただ死ぬことだと覚悟をしていたから、別に怖いとも思わなかった。ただし、少し夢中になってよほど気がおかしくなっていたようで、戦争のときは人の顔色が土色になるときいていたため、皆の顔が土色になっているかと思って気を付けて見たことは覚えている。

しばらく経つと後ろのほうでアッと言って、一人ひっくり返った。二、三人寄って介抱をしていた。その頃の銃がゲペールといってとてつもない大きな鉄砲で、少年の時は背丈と同じくらいであった。
いくら弾丸を撃ったかは覚えていないが、十発か十五発は撃っただろうと思う。しばらくすると一向に音がしなくなった。淋しくなったから後ろのほうを振り返ってみると、誰もいない。これはみんな逃げたなと思って、それから自分も逃げ出した。100mほどの間隔で、一人、二人と逃げる先達の後ろ姿がみえる。そうして5、60mほども逃げてくるとハトロンという弾薬包みが散乱して捨ててあった。これを異人に分捕られるのは残念だと思って、拾っては懐に押込んで逃げて行った。そんなことをしていると先に見えた人影がもう見えなくなっていて、今度は銃が一丁打ち捨ててあった。これも分捕られては、と思って拾い、自分の分の銃と両肩に担いで逃げ出した。

さきほど休んだ二軒茶屋のところまで来てみると、街道を行くのは怖くなった。左の山は、1.5mくらいの小さな松の生え茂っている丘陵で、長府まで長く続いている。その山へ一人で横切って入った。その日は天気の良い日であって、松の木陰に座り込んで休憩していると、周囲がひっそりと静かになって、大砲の音や小銃の音が急に鮮明に響いてきた。前田村を焼く煙が天を焦がすがごとく凄まじい状況だったことは、なんと言葉にしてよいか分からない。
そのとき、忽然と母親のことを思い出した。
自分がもしここで死んだら、さぞ母親が嘆かれるだろうと思うと独り泣いてしまい、悲哀の情に堪えずしばらくそこに座り込んだままだったが、だんだん日は暮れてきたし、ひとまず長府のほうへ出てみようと自らを励まして立ち上がり、山伝いに長府のほうへ下って行った。

長府の入口に功山寺という寺がある。その門前で銃隊の者がみな揃っていて並列している。私が帰ってきたのをみて、遙かに手をあげて招く。そこに行くと、お前は討ち死にしたと思っていた、と言ってみんな喜んでくれた。そのなかから一人近寄ってきて、これは大変ありがたいと、私が拾ってきた銃を持って行った。私の年齢は十七歳、その者は二十四、五歳で、常々私をいじめていた人だったので、これでこれからはそれも無くなるだろうと密かに思い喜んでいた。

その後六月末か七月頃だったか、奇兵隊が結成され、志のあるものは入隊するようにという御沙汰があった。私が入隊した頃はわずか三、四十人程度であった。馬関竹崎の白石正一という豪家の家へ集まって、徐々に人数も増え三百人ほどになった。
その次第は長くなるので、やめておこう。
総じて若い頃は活気があり身命を軽んじているけれども、慈しんでくれた両親のことを思い出すと胸を打つものがある。物欲淡泊にして己の本分を全うしようとするところがあったからこそだろう。

それ以降、国事は様々なことが起った。
すなわち京都で禁門の変があり、馬関では四国艦隊による下関の砲撃事件があった。当時私は馬関前田の台場にあって戦った。
こうした京都での大敗、馬関での和議、それらを経ていわゆる長州征伐となった。ついに一つの藩のなかで正・俗の二党による争乱をうみ、その正義党なる者はいわゆる奇兵隊、南園隊、御楯隊、集義隊、遊撃隊などという諸隊であった。総勢およそ千四,五百人ばかりで、勤皇攘夷を主として結成された有志の団体である。
当時の政府は正論家は倒れて、俗論党になっていた。彼らは諸隊に対して武装を解き、周防の徳地という僻地に一同謹慎せよというふうに命じたのだった。藩政府も兵を出してこのことを諸隊に迫ったので、結果、ついに戦争となった。

これより前、私は前田の陣屋で腫物を患い、体が悪くなって最終的に黄疸という病気になった。そのためこれが勃発した時は、諸隊の本陣があった伊佐というところの病院にて療養していた。越えて翌年(私が十九歳の歳である)正月六日にいよいよ戦争をすることになった。その日の夕方、病院より銃を担いで河原というところに至り、軍に従った。戦争中は妙なもので、気力もつき健康も回復した。

病院にいたときは、着物はボロになりほとんど乞食同様の有様であった。
もし母がここにおられたならば、洗濯でもしてくださるであろう、と思うと母親を慕う気持ちが強くこみあげてきて、ほとんど逃出して母親のところへ会いに行こうかというような気さえした。
その時私がまた思ったのは、今日のことは毛利家の存亡に関わる大事な局面である。いわゆる関ケ原の役以来の大困難であり、このときにあって我等臣下は一死をもってこの困難に身を投じて、君恩に報いるほかはない。このことは自分一人が受けた恩に報いて忠義を尽くすということではなく、まことに微禄ではあったが先祖代々毛利家の録をいただいて泰平の恩恵を受けてきた先祖の恩を、父達に代わって報いるときが来たのである。されば私がこの渦中で倒れることになっても、母も私のことを不孝者だ、母を置いて自ら先立ったなどという愚痴をいう道理はない。毛利家もほとんど滅亡の時である以上は、母は生き残って不足不自由されたとしても諦めてくださるだろうと、こう決心した。
おおよそこのような決心の力はよほど強いものであったようで、後々までもこの流儀を押し通して、ついに母上に孝行を尽くすこともできなかった。

内乱も平定したのち、再び長州征伐をうけた。
この戦も止んで伊藤の叔父に面会した時、叔父の言われるには、中村家の仕組みも片づけ終わったので、隊を辞して一家を経営し、母上を安心させてあげなさいということであった。私もそのようにしたいと思っていたが、天下の大勢は毛利家は防長に割拠して他はことごとく敵国というありさまだったので、一家経営に身を委ねるという決心が出来なかった。よって母上にこのことを詳しく相談した。

母上は元来極めて飾り気も無く律儀な性格であって、姉などにはどうだったかは分からないが、私に対しては小言も言われたことは無い。私がなにかを語れば、そうかそうかと言っているのみであった。かつて伊佐の病院にて決心したことを、理由を細かく説明しながら話したら、ただそうかどうかとのみ言われて、良いとも悪いとも言われない。伊藤の叔父は、是非帰国して母上を安心させ、先祖の供養もしなければならないと切に言われる。よって、従弟の萬里介を私の相続人にして家督を譲り、私自身は一身を投げうって報告するべきだと心密かに決心した。

当時私は隊長であって、この役は戦うたびに真っ先に先頭に立ち働くものであるため、一戦争あるたびに必ず二、三人は討ち死にしていた。当時の天下の形勢はこのようであったので、私についてもこれまでは死を免れてきたが、今後もそうであり生き延びるという保証は無かった。であるから、今のうちに従弟に跡を継がせるという算段をとっておき、私はいないものとして母上にも覚悟をしていただいたほうがかえって良いだろう、ということを伊藤の叔父に相談したところ、叔父は、母上が承知ならそれでも良いだろうということだった。

そこで母上にこのことを相談したが、例によって良いとも悪いともいわれない。
長女の姉に相談したところ、姉はなかなか気丈な人であったので、「それはもってのほかである。私は長子として産まれたがお前という世継ぎがあったから他家へ嫁にいった。もし他人に中村家を継がせるということになるのであれば、私が女でも養子をとって中村家を相続すべきである。三人も姉弟があって一人も家の相続をしないということはあり得ない」と、甚だしく反対された。
私はこのことは大概にして、まるっと叔父に託して陣屋に出て行ってしまった。その当時、真ん中の姉はなお家にいて母親の介護をしていてくださった。
慈母の亡くなられたのは明治元年(1868)十二月二日であった。誠に両親に対して孝行をすることができなかったことは、甚だ遺憾である。

元々母上は万事諦めのよい人であったとみえる。
私が鳥羽伏見の戦いで負傷したことが、故郷へは間違って討ち死にしたというふうに伝えられた。私の隣家の柳田という家の老婆が心配して、「一之助さんは京都で討ち死にされたということですけれども、どうか嘘であってくれればよいが。詳しい手紙などはきませぬか」と聞かれたら、母上は「あの子はいつも殿様のために死ぬと申しておりましたので、もし死んでしまったならば本望でござりましょう」と言って、少しも嘆かれる雰囲気はなかったと、私が帰国した際にその老婆が教えてくれた。
これはかつて私の決心を母上につとに申し述べておいたがゆえ、私の生死のことは覚悟しておられたのだろう。
病気も、だいぶ長いこと患っていたものであった。私は当時防州熊毛にいたので、真ん中の姉が、だれか陣屋へ呼びにやりましょうかと言われると、「あの子が帰ってきたからといって病気が治るわけでもあるまい。あの子は殿様のために陣屋に出ているのだから、もし私が亡くなりでもしたら呼びにやっても良いと思うが、いまいまは慌てふためいて呼びにやるには及ばない」と言っておられたそうである。
私が帰省したときは、すでに言葉も聞き分けることができないような状態であった。しばらく介抱しているなか、亡くなられた。
ありていなことを言えばこういう話である。両親に対して孝行を尽くせなかったことは誠に遺憾である。

**中略(この間の部分は「4.鳥尾小弥太と陸奥宗光」参照)**

私の幼名は一之助といい、父上が亡くなられて家督相続するときに百太郎と改名した。奇兵隊に入ったあと、中村鳳輔と改めた。
その頃、先輩達がある事情のためにさまざまに変名していた。この流れは隊内で流行して、大概は変名を行ったのだった。
私は十九歳の春、抜擢されて隊長となった。その年のことである。

ある日、本陣で色々雑談の末、交野十郎という人(本陣には総督、軍艦、参謀、書記などの役職に就く者がいた。交野は参謀で、書記を兼ねていた)が、私に、君も姓名ともに変えたら良いと進めてきた。私は、中村の同姓に鳥尾というのがある。これは今は無いが古くはあったので、この姓に変えてもよいと言った。交野は、「とても良い姓だ。鳥尾小弥太という名にしたらいい。鎌倉時代に鷲尾大弥太という者があった。中村鳳輔は武士のようでは無いぞ」と言ってきて、あまりに洒落た名前だったのでただ笑ってその日は帰った。
その翌日、この交野が専断で「中村鳳輔はこのたび諸事情により鳥尾小弥太と改名する」と隊中一同に布告を出してしまった。別段怒るほどのことでもなかったのでそのままにしておき、ついに鳥尾小弥太という姓名になった。
今日思うに、この交野は非常に鎌倉好きの人であったとみえる。この人の姓名は元は野村何某といったが、それを交野十郎御狩と、いかにも鎌倉武士風に変名した。私の姓名もこのような事情ゆえ、もちろん一時の変名であって、いつか本姓に戻すつもりであった。
ところが、明治元年の鳥羽伏見の戦いで負傷し、帰国後敬親公より御感状を賜った。その宛名が ”鳥尾小弥太どのへ 敬親” とあり、いやしくも君公のお認めになった姓名となったので、再び変えるというのも忍びず、そのままにして今日にいたった。
容易なことも其身に適合していけばそれが生涯の本来の姿となっている、いかにも不思議なことである。

ここにまた似た話がある。
私の別号である「得庵」も、実は他人に押し付けられた号である。
始め、陸奥の親父殿に伊達自得という人がいた。私に禅学を勧めてくれた人である。
ある時この老人に、なにか面白い雅号はないだろうかと相談をした。老人のいうには、「得々不得、不得得々ということがある。私はこの意からとって、自得居士と称した。君は得々居士というのがよいだろう」ということで、得々居士と称することにした。
その後明治八年(1875)頃であったと思うが、三好重臣が大阪鎮台の司令官であった。三好は書がうまい。ある時酒宴の席で、得々庵という額を書いてくれと頼んだところ、重臣が、「得々庵は面白くない。得庵とするのがよい」といって、得庵の文字を書いてくれた。
実際、得々庵より得庵が称しやすいがために、自分も他人も得庵と言っていた。御垣という俳名もあるが、いずれもふさわしくなかったとみえ、人に押し付けられた名を心ならずも使い続け、それが変えることができない号となってしまった。

今より考えると、ことごとくずさんでいい加減であった結果であるけれど、またこの世の因縁より考えると妙なものである。

「父母の 恵や露の 置きどころ」

この句によりて、この書を恵の露と名付ける。

 

雑感

ようやく意訳を書いたのですが、鳥尾の文体というのがかなり癖があって現代文に書き起こすと冗長だったりするところがあり、結構グチャっとなってしまった気がしています。
また書き起こしながら今更細かい部分の地名などを比定していったのですが、長州の地名系の手持ちの資料が少ないため以降現段階の推測部分が多くなっています。資料少しずつ確認次第追記・改定、もしくは別記事で補足したいと思いますので、ご了承ください。

伏見での怪我を含めた戦の話は、こちらの記事にだしています。

関係者の語る鳥尾小弥太と戊辰戦争(『維新戦役実歴談』から)

この章節の話というのが鳥尾の実際の性格をあらわしているような気がしてとても好きです。
この部分をみていて感じるのは、鳥尾というのは明治に入って軍を辞してからは偏屈おじいちゃんのようなイメージが強いのですが、昔馴染みというか、それこそ藩の銃隊に入った当初の様子からも本来はイジられ側というか、確実に陽キャの部類ではないんだな、という気がしています。
一生懸命逃げている最中に「もったいない」的に弾薬拾っているところとか、実家でいい感じに従弟に跡を継がせようと宣言したのにお姉ちゃんに論破されて、そこから何をするでもなく「おじさん、あと頼む」的に出て行くところとか、締まっていなくてすごく良いです。
こういう部分をみると、明治になってから白井翁(小助)に絡まれたり、三浦(梧楼)に火鉢の熱した棒で脅されてるの理解できる気がする。

 

その他:鳥尾と下関戦争

あまり長くはない恵の露の中で、かなり詳細に書かれているのが下関戦争の部分です。
私は個人的にはまるっとひっくるめて『四国連合艦隊砲撃事件』のほうが馴染みがあるのですが、Wikiを辞書的に使うのならば以下の2つに区分されるそうです。

①文久3年(1863) 6月の、アメリカ、フランスの艦隊による報復事件
②元治元年(1864)8、9月の、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ四か国の艦隊と長州藩との戦争

①は奇兵隊結成の起因になった事件で、この時まだ奇兵隊は無く、鳥尾は長州藩の銃隊として従軍した形です。
②のときはもう奇兵隊員になっています。
この①の時の話は高杉などの資料をみていてもあまり現地の詳細な話が出てこないので、鳥尾の話が面白いなぁと思いました。

私どもは鍋濱というところへ見送りに行っていた。(略)朝十時頃、上口の合図の砲撃が聴こえた。皆走って陣屋へ帰り(陣屋は新地というところにあった)、武装して鍋濱へ再び来てみれば、もはや戦はなく敵の船も見えなかった。鍋濱に碇泊していた庚辰丸という帆前船は打ち沈められていた。(略)壬戌丸は蒸気釜を撃ち抜かれて岩柳というところの浅瀬に乗り上げ、その後転覆した。この戦はアメリカの軍艦一艘にてあっという間に三艘の戦艦を打ち砕いたもので、その軍艦はすぐに上口へ帰っていった。

”鍋濱”という地名はピンポイントで長州では見当たらなかったのですが、『防長地名淵鑑』では

南部崎(ナベサキ)
今川貞世の道ゆきぶりに「赤間關の西の端に寄て、なべの崎とやらん云ふめる村は、柳ケ浦の北に対ひたり」と見ゆる是なり。(略)
南部崎今観音崎と称す。東南部町西南部町あり。

防長地名淵鑑』(398/498) - 国立国会図書館デジタルアーカイブ

とあり、今の下関の南部町あたりにあった浜辺一帯の事(なべの浜で、なべはま)ではないかと思っています。
この地区には「明治天皇御上陸地聖蹟」があり、明治5年(1872)に明治天皇がこのあたりにあった船着場に軍艦をつけて上陸したということなので、主要な場所であったことは確かかと思います。後述の防長回天史でも、庚辰丸は観音崎のあたりで沈んだと記載があるので、多分そうだろうなと。

このあたりは防長風土注進案と山口県地名考あたりを読んでいればすぐに分かりそうな気がするのですが、どちらも手元になくNDLの個人送信サービスまだ本登録していなくて読めていないので、本登録通って個人送信で読めるようになったら確認して改定したいと思います。(以降の地名系、すべて同じです)

新地は今も変わらないので良いとして、問題は「上口」なのですが、これがさっぱり分からなくてお手上げです。
地名だとすると、十時に合図の砲撃が聴こえた場所と、アメリカの軍艦ワイオミング号が帰っていた方向が同じ、ということで、単純に現代の山口県内の「上口」という地名だと砲撃の合図が聴こえるには遠すぎるし、上のほう的なざっくりした意味合いなのかなんなのか…。
この砲撃についてはマツノ書店さんから出た復刻版の『防長回天史④』 267pによると「六月朔日暁天徐々として進行し長府城山の岬角に到るや守兵外艦の來るを認め急に號砲一發を放つ 龜山砲臺本営彦島と皆之に應ず」ということで、「長府城山」のあたりに艦隊が見えた頃にそのあたりの砲台が最初に砲撃したのだと思います。
長府は長府なのですが、長府「城山」がどこにあたるのか完全には分かっておらず…。そのまま長府なのか、もしくは当時対岸の、門司の近くにあった城山(現在の門司城跡)が、翌年1864年の時ではありますが、絵図にて「城山」と認識されていたようなのでここなのか。
(絵図については下部にリンクを貼った、「幕末期の下関戦争を描いた10 枚の絵図 ~元治元年(1864)8 月、誰が戦争を見ていたのか~」のレジェメ資料のほうに掲載されています。訳の付箋がついていてとても分かりやすいです)

今の段階だと、長府のほうで砲撃が聴こえたので新地の陣屋に走って銃とか取りに行ったりして戻ってきたら、艦隊はもう来た方向に帰っていった的なニュアンスで良いだろうと思っているのですが、ワイオミング号は1時間ほど砲撃をして帰っていったということなので、何していたのか分かりませんが陣屋に戻ってかなり準備や出陣に手間取っていたんだろうな…と。

そして6月5日には、

この日、私の所属していた銃隊は、日の山の裏手より大谷越というところを越えて、前田の台場を砲撃した。十二時頃であったと思うが、その人数は五十人ばかり、台場の後ろの街道の二軒茶屋(のちに陣屋のあったところである)まで来ると、台場のほうから一人陣笠を被ってくる人がある。
(略)
大谷越の登り口のところに、街道に沿って松の並木がある。その並木のところより発砲した。
(略)
さきほど休んだ二軒茶屋のところまで来てみると、街道を行くのは怖くなった。左の山は、1.5mくらいの小さな松の生え茂っている丘陵で、長府まで長く続いている。その山へ一人で横切って入った。
(略)
ひとまず長府のほうへ出てみようと自らを励まして立ち上がり、山伝いに長府のほうへ下って行った。

ということで、「日の山」は現在では「火の山」、大谷越えは現代では「大谷斎場」(市営なので地域名かと思います)があることから、陣屋のあった新地から砲撃の激しい海岸沿いを避けて進軍したのだろうということが察せられます。
二軒茶屋は上口同様、現段階では詳細な場所は分かっていないのですが、火の山と前田砲台の間であろうかと思います。
そうして先ほどもあげた「幕末期の下関戦争を描いた10 枚の絵図」のレジェメの図3:元治元年8月6日(陸戦隊の上陸)をみると、杉谷と前田の間に長州の陣屋という表記があり、その右手に砲台が松の木の間にあるという記載があります。
長崎大学附属図書館さまの、幕末・明治期 日本古写真データベースに収録されている有名な前田台場の占領写真を含め、当時の下関の写真と併せてみると、そのあたりの植生やだいたいの位置関係が察せられますね。

参考:
下関に到着した連合艦隊 (3)
目録番号: 6252
日本古写真グローバルデータベース(対象写真所蔵:長崎大学附属図書館(中央図書館))下関砲台占拠 (2)
目録番号: 6253
日本古写真グローバルデータベース(対象写真所蔵:長崎大学附属図書館(中央図書館))2024/03/31 追記
上記写真のリンクをしていた山口県立文書館さま内のページが消えたため、同一の写真を採録されていた日本古写真グローバルデータベース様のほうへリンクを変更いたしました。

そのあたりから山の中を通って最終的に功山寺まで無事にたどり着いたということで、それ以外に出てくる主要な地名をものすごくざっくり落とすとこんな感じになるかと思います。

<下関拡大>

 

参考文献など

・山﨑一郎「幕末期の下関戦争を描いた10 枚の絵図 ~元治元年(1864)8 月、誰が戦争を見ていたのか~ 」 - 山口県文書館 オンライン歴史講座
令和4年度第3回(2022年12月)

山口県文書館 高詳細画像ダウンロード
・防長両国大絵図(正保長門国絵図)
・防長両国大絵図(正保周防国絵図)

2024/03/31 追記
現時点で山口県文書館様のオンライン歴史講座の過去分が2023年度まで公開に変更になっているため、上記のリンクを解除いたしました。
また、正保国絵図に関しても「高詳細画像ダウンロード」メニューで検索してから辿りつくルートに変わったため、上記メニューリンクに変更しております。

 

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