明治中期以降歴史ネタ

鳥尾小弥太と四将軍2ー谷干城遺稿(2)ー

四将軍とは、明治十年代に、山縣有朋を中心として政府中枢に力を持っていた陸軍主流派に反対する勢力となった、四人の将軍のことを指します。
メンバは、陸軍中将・ 谷干城、陸軍中将・三浦梧楼、陸軍少将・曽我祐準、そして陸軍中将・鳥尾小弥太で、この四将軍に関する逸話などを紹介していくカテゴリとなっています。

四人に対して個人的に抱いている色でカラーリングしてみました。
図を作ろう、と国デジさんに写真をお借りしにいったら写真なかったうえに、四将軍の中で一人だけ士官学校長していない鳥尾。学習院にも関わっていなくて一人だけ大正天皇との接点がない鳥尾…。
よくこの四人で建白書出したな…、って思うすれ違い具合です。

 

谷干城遺稿 附録第一編 逸事及逸話

今回は、前回に引き続き『谷干城遺稿』に収録されている、関係者が語った逸事および逸話のうち、曾我祐準の語ったものを主にご紹介します。前回の記事はこちら。

原文は以下で公開されています。

谷干城遺稿 下(島内登志衛 編/靖献社) ー 国立国会図書館デジタルライブラリー

なお、曾我様の谷さん愛が止まらなくて意訳を書いていたらすごく長くなったので、残りの「第十 友人としての谷子(曾我子爵」、「第十三 莫逆四十餘年(曾我子爵)」は、また記事を分けてあげることにしまして、次でいったん遺稿は終わりかなと思います。

 

第三 嗚呼谷将軍(子爵曾我祐準)

余は明治六年頃より時々熱海に到り、今日では別墅をも建て居り、随分熱海とは深き關係を有し居れるが、余の親友谷将軍を始め、三浦観樹将軍、鳥尾得庵将軍も亦、明治十年頃より、時々熱海に來り、遂に三浦鳥尾将軍は別墅を建てたるに、獨谷将軍のみは、熱海との關係深きにも拘らず、熱海に別荘を建てずして、土佐の三谷へ建てたるは、将軍が愛郷心より出でたるものゝ如し。谷将軍は安井息軒の高弟にして、漢學の造詣極めて深く、時も賊すれば、文も能くしたり、只漢學に依りて智識を研きしが故に、動もすれば、頑固にして保守に傾きし事なきにあらざりしも、其操守の堅實にして、意志の強固なる、近世稀に見る人傑なり。此學問あり此意志ありやるが故に、伊藤、山縣公等の爲に、手強き敵として畏敬されつゝありしなり。
世間には、将軍が常に俗世界の、惡傾向に對し、正論讜議を試むるを見て、将軍の性は褊狭なりと云ふものありたるやに聞くも、余の知り居る所にては、将軍は公の問題に就ては、思ひ切つて論難攻撃を試むる事ありたるも、個人の私行に對して、批評若くは惡口をなしたる事なし。特に當面の政敵と雖も、其爲す所のものが善事なれば、之を賛賞するに吝ならざる事は、余の常に實験せし所なり。
西南の戰争は、日清日露の戰争に比すれば、規模小にして國運の關する所、多少の徑庭あるが如くに、思ふ者あるべしと雖も、日清、日露の戰争が、明治十年頃に開始されたりとすれば、決して西南戰争より、大規模のものたり得べしとは信する能はず又其國運の關係に就いても決して日清、日露戰争に譲るところあるべからず。何となれば、我國は明治元年に、王政復古をなして、徳川将軍の権利を剥ぎ、以て四民平等、憲法政治の端を開きたればなり。若十年の戰争に於て、谷将軍が熊本に籠城し、薩軍の前進を喰止め得ざりしとせば、薩軍は破竹の勢を以て、中國に渡り、所在不平の徒亦蜂起し、殆ど収拾すべからざるに至りしならん。然る時は、玆に再び士族の跋扈を招致し、平民は依然として奴隷の境遇を脱する能はずして、今日の如き憲法政治は、到底之を見る事能はざりしならん。去れば、谷将軍が熊本城に立籠りて、薩軍を喰止め、士族主義なりし薩軍を、討平するを得たるの功績は、實に偉大なりと謂はざるべからず。
故伊藤公は、谷将軍の至誠國を憂ひ、眞に共に經綸の大業をなすべきの、人たる事を知れるが故に、明治十八年太政官制を改め、内閣となすや、公は将軍を農商務大臣となし、以て重任を託したり。将軍は一面に於て、故伊藤公と相許す所ありしも、政治上の主義に於ては、伊藤公と相容れざるものありて、彼の鹿鳴館踊の如きは、将軍の極力反對せし所なり。将軍は之が爲め、農商務大臣の椅子を抛てり。斯くの如く将軍は、我所信の爲に、名譽の地位を抛つ辭せざりし程、清廉硬直の士なりしかば、伊藤公は将軍の人格高きを慕ひ、将軍が宮内大臣として、最も適任者たるを思ひ、人をして将軍の内意を捜らしめる事もありたり。
伊藤公は将軍が宮内大臣たるの意志なき事を確め得たるも、尚将軍を在野の闘将として置く事の、國家の爲、不利益なるを思ひ、是非枢密顧問官となり、侃諤の議を以聞せられん事を切望し、再び、人をして将軍に説かしめたるも、将軍は元来國會を開く以上は、枢密院を存置するの必要なしと云ふの意見なりしかば、其所信の爲に、懇切なる伊藤公の勧告を斥け、名譽ある就く事を肯んぜざりき。斯くの如く、将軍は自分の所信の為には、伊藤公の厚意をも、敢て斥けたりと雖も、而かも伊藤公をして、失敗なからしめんとする友情は、極めて深厚なるものありしかば、公が政を執りつゝありし間は、絶へず、公に向つて、口頭若くは、書面を以て、意見を致し、又は注意を興へたり、公も亦将軍の意見を採用せしこと頗る多かりしと云ふ。
将軍が尚武の趣旨に依り、奢侈淫逸を戒めたる、前後二回の、施政方針の大演説は、有名なるものなるが國の進歩に伴ひ、事物は益複雑となり、費用之に伴ひて増加し、遂に増税問題を惹起するに至るや、将軍は愛民の情より常に反對の意見を固持して屈せざりき。将軍は、世人が黷武に偏セル場合には勤儉尚武の説を説きて之を戒め、謳歌主義に心酔せる時代に當りては、國民主義國粋保存説を唱へて俗論に對抗し、自由民権を唱へ、個人主義を叫ぶ時代に於ては、國家主義を唱へて之に對抗し、以て中庸を得せしめたり。其の功績の大なる、世人の容易に忘る可らざる所なり。
将軍は實に世人に先つて憂ふる性の人なりしと雖も、世間より之を見れば、餘り老婆心に過ぎ、取越し苦労の如き觀ありしを以て、世間の同情は比較的少かりしが如し。然れども、将軍が殆ど口處世上の大主義として確立するに至りたるを見ば、又た将軍が先憂の士たるを窺ふに足れり。
将軍は演説は上手にあらず、簡單にあらず、然れども敵味方双方をして、傾聽せしめたる所以のものは、其演説が、至誠七分、道理三分にして、言々句々、悉く肺腑より出でしが故なり。
将軍は又日清戰争の際にも、餘り勝に乗じて深入りするは、頗る注意すべき事なるのみならず、其講和談判に際しても、決して領土を要求すべからず、領土を要求せば、恐るべきの干渉來らんと云ひ居りしに、果して三國干渉となりて國辱を蒙りたり。又日露戰争に際しても、大概の程度に於て切り上げざれば、反て我實力の如何を疑はしむるに至り、講和談判に際し振りを來すなきを保せずと云ひ居りしに、是将軍の杞憂の如くなりしは、實に先見の明ありたりと云ふべし。
将軍が日清戰争後の軍備擴張案に反對せざるに至れり。
第何次議會の時になりしか、臺灣私設鐡道法案及大阪築港案の提出されし際、将軍及余等は、盛に私設鐡道の不可なる所以と、大阪築港の到底理想の如き、結果を得る能はざる所以を論じて、大に反對したり、然るに當時の大臣高島、西郷等は、此兩案の通過を謀らんが爲め、玄關に出て議員の退出を抱止むると云ふが如き滑稽事もありたり。
伊藤内閣が地租を増微せんとしたる時、谷将軍を始め、山縣系と呼ばれたる清浦、大浦、平田、曾禰氏まで、反對側に立ちたれば、伊藤公の心配一方ならず、公は遂に山縣、井上、西郷、松方の諸元老に調停を依頼したり、玆に於て諸老は反對者側の議員と、華族會館に會し、頻りに賛成せんことを慫慂したる事ありたり、當時余及岡部子爵は、使者の役を勤め居りたり、尤も地租反對が、主となる題目にあらずして、其實は星亨の逓信大臣を退けんが爲めにして、余等が使者となつて、政府と交渉せしも、重に星問題なりしなり。。己が郷國の交通機關の發達を圖るは、誰しも人情の常にして、大概のものは平素の主張を抛つても、其運動をなすものなるに、将軍は之に反し、土佐鐡道敷設の議、政府部内に起り、土佐人亦政黨政派の如何を論ぜず、全縣一致、土佐鐡道敷設の運動をなしつゝあるに方り、獨り将軍は鐡道政策の上より、又軍事上より、将た國家経済の點より、考察して、土佐鐡道敷設の不必要さを論じたるが如きは、将軍が如何に、至誠を以て飽迄國家本位に依り、侃諤の議を立て居りしかを知るに足るべし。
(明治四四、四、一六東京朝日)
※p1068-1074

 

第三 嗚呼谷将軍(子爵曾我祐準)ー 意訳

私は明治6年頃より時々熱海に行っていたが、今では別邸も建て、随分熱海とは深い関係をもっている。私の親友である谷将軍を始め、三浦観樹(梧楼)将軍、鳥尾得庵(小弥太)将軍もまた、明治10年頃から時々熱海に来て、ついに三浦と鳥尾の両将軍は熱海に別邸を建てたが、一人谷将軍だけは建てなかった。谷将軍が土佐の三谷へ別邸を建てたのは、彼の愛郷心が出ているようだ。
谷将軍は安井息軒(1799-1876 ※昌平坂学問所の儒官。陸奥宗光なども学んだ)の高弟にして、漢学への造詣が極めて深く、文章もよく書けて、ただひたすらに漢学によって知識を研鑽していったがゆえに、ともすれば頑固で保守に傾いていったということが無きにもあらずといえども、その信念を堅く守って心変わりしないこと、意志の強固なることは、近世稀にみる人傑である。

この学があり、この意志があったがゆえに、伊藤(博文)公や山縣(有朋)公にとっては手強い敵として畏敬されつつあったのだ。世間では、谷将軍が常に俗世の悪い傾向に対しては正論をもって議論しているのを見て、将軍は視野が狭いという者があったと聞くが、私の知る限りでは、谷将軍は公の問題についてはそうやって非難をしていることもあったが、個人としての行動に対しては特に責めたりすることはなかった。特に、その当時の政敵であったとしても、その政敵の行いが善いことであった場合は、これを賞賛すること惜しみなかったことは、私も常に実験していたから知っている。

西南戦争は、日清・日露戦争に比べれば規模は小さく、国運の決するところなど多少の隔たりがあろうと思う者がいるだろうと思うが、日清・日露戦争が明治十頃年に開始されたとしたら、決して西南戦争より大規模であるとは信じられないし、その国に与えた影響についても、決して劣っているとは思えない。
なぜならば、我が国は明治元年に王政復古をなし、徳川将軍の権利をはぎ取って、四民平等、憲法政治の端を発した。
西南戦争で谷将軍が熊本城に籠城し、薩摩軍の前進を喰い止めることができなかったとしたら、薩摩軍は破竹の勢いをもって中国に渡り、不平士族がさらに蜂起して、ほとんど収拾がつかなくなったであろう。そうなった場合は、四民平等を敷いたにも関わらず、再び士族の跋扈を招き、平民は徳川時代と同様に奴隷の境遇を脱することができないわけで、今日のような憲法政治は到底みることはできなかったのだ。
されば、谷将軍が熊本城に立てこもり、薩摩軍を喰い止め、士族主義であった彼らを平定した功績は、実に偉大といえるのである。

故伊藤公は、谷将軍の、国を憂い、真に共に国を治める基盤を作る大業をなすことができる人である、ということを知っているがゆえに、明治十八年に太政官制を改め、第一次伊藤内閣を組むと、谷将軍をその農商務大臣として重任を託した。
将軍は一面においては伊藤公と意見の合うところもあったが、政治上の主義においては相容れざるものがあって、かの鹿鳴館のごときは谷将軍は非常に反対したのである。このために谷将軍は大臣の椅子を捨てたのだ。
このように将軍は、自分の信念のために名譽の地位を捨てるを辞さないほど、清廉硬直の人であれば、伊藤公はその人格高きを慕って、谷将軍は宮内大臣として最も適任者であると考え、人をやって谷将軍の内意を探らせることもあった。
伊藤公は将軍が宮内大臣になる意志がないことを確かめたあとも、彼を在野の闘将として置いたままにしてしまうことは国家の不利益であると思い、枢密顧問官として谷将軍の意見を議会で聞けはしないかと切望し、再び人を谷将軍へ遣わした。
しかし将軍は、元来国会を開く以上は、枢密院を置く必要はないだろうという意見であったので、伊藤公のすすめを退け、自分の信念を曲げずにその職に就くことはなかった。
このように、谷将軍はやはり自分の信念のためには伊藤公の厚意をもあえて退けたといえども、伊藤公が失敗しないようにと気遣う友情は極めて深いものがあり、伊藤公が政治を取り仕切っていた間は、絶えず谷将軍は伊藤公へ口頭か、もしくは書面をもって意見や注意を与えており、伊藤公もその意見を採用することが多いとのことであった。

将軍が尚武の趣旨によって、贅沢や性の乱れを戒めた、前後二回に渡った施政方針の大演説は有名であるが、国の進歩に伴い、物事はますます複雑となり、費用はこれに伴って増加し、ついに増税問題を引き起こすに至った際、谷将軍は民を思う心から常に反対の意見を固持して屈さなかった。
将軍は、世の人々が贅沢に傾倒していくような場合は勤倹尚武の説を説いてこれを戒め、謳歌主義に心酔している時代にあたっては、国民主義、国粋保存説を唱えて俗論に対抗し自由民権を唱え、個人主義を叫ぶ時代にあたっては、国家主義を唱えてこれに対抗し、もって中庸を保つようにしたのだ。その功績の大きいこと、世の人々は容易に忘れてはいけない。
谷将軍は実に世間に先立って憂う性格の人であったといえども、世間からこれをみれば、あまりに老婆心が過ぎており、取り越し苦労であろうというふうであって、世間の同情は比較的少ないのではないかと思う。しかし、将軍がほとんど世論を代表するような論客として確立したことをみれば、将軍が先憂の士であったことを知るには十分であるだろう。

将軍は演説はうまくなく、話も簡単ではなかったけれども、敵味方双方とも傾聴させることができたのは、その演説が至誠七割、理論三割にして、一言一言が心から出ていたからに他ならない。
将軍はまた日清・日露戦争の際も、あまり勝利に乗じて深入りすることは注意するべきであるということだけではなく、その講和談判に際しても、決して領土を要求しないことを勧めた。領土を要求すれば、恐るべき干渉がくるといっていっていたが、果たして三国干渉となりて国辱を蒙ったのである。
また日露戦争に際しても、大概にして切り上げなければ、かえって我が国の実力を疑わせることになり、講和談判に際しまだ余力があるふりを保つことができないと言っていたが、この将軍の杞憂の如くになったのは、実に先見の明があったといえるだろう。

第何次議会の時であったか、台湾私設鉄道法案及び大阪築港案の提出されたとき、将軍や私は、盛んに私設鉄道の不可である理由と、大阪築港などは、理想としているような結果を得ることはできないということを論じて盛んに反対した。
しかるに、当時の大臣・高島鞆之助(1844-1916 ※台湾総督府の拓務省大臣を務めた)、西道(従道)などは、この両案の通過を謀るため、議会の玄関に出て、議員の退出を抱きとめて阻止したというような滑稽ごともあった。
伊藤内閣が地租を増備しようとした時、谷将軍を始め、山縣系と呼ばれた清浦(清浦 奎吾。第23第総理大臣)、大浦(大浦兼武。警視総監、内務大臣などを歴任)、平田(平田東助。内務大臣などを歴任)、曾禰(曾禰 荒助。大蔵大臣や韓国統監を歴任)まで反対側にたったので、伊藤公の心配はひどく、ついに山縣(有朋)、井上(馨)、西郷(従道)、松方(正義)などの元老に調停を依頼した。諸元老は反対者側の議員と華族会館に会し、しきりに増税に賛成することを勧めたということがあり、当時私や岡部子爵は使者の役目を務めていたが、地租改正反対は主となる題目では実はなく、本当は星亨の通信大臣を辞職させるためであって、私が使者となったのもこの星問題ゆえであった。

自分の故郷の交通の発達を図るのは誰しも人情の常であって、大概の者は平素の主張を捨ててでもその運動をするところ、将軍はこれに反対し、土佐鉄道を敷くという議論が政府内部に起こり土佐人やその政党は全会一致でそれに賛成する運動を行ったのにたいし、独り谷将軍は鐡道政策のうえより、また軍事上、国家経済の点から考えて、その不必要さを論じたごときは、将軍がいかに至誠をもって、あくまで国家本位によって自身の議論を展開していたかを知るに足るであろう。

 

第三 嗚呼谷将軍(子爵曾我祐準)ー 雑感

三浦、鳥尾は熱海に別荘を持っており、鳥尾や曾我さまは熱海で亡くなっておられますね、確か。

前回の樺山さんの話もそうですが、谷さんの軍事上の最大の功績は西南戦争の熊本城籠城であるので、曾我さんもこの当時話題をかっさらっていた日清・日露を引き合いに出して賞賛してくれています。
鳥尾の晩年の花園日誌などを見てもそうですが、このころ退役している軍人さんたちは、わりと日露には慎重派が多く、本当にすれすれで終結した結果を見ると、西南戦争と違う、情報戦の始まった国際戦争だったんだな、としみじみ感じます。あれが奇跡的な引き分け(負けではないが、あくまで勝ちではない)であったことに奢らない感覚をもった、かつ主流派に発言ができる人が、徐々にいなくなっていったことを、何となく考えてしまいますね。。。

私はもう、「議会の玄関に出て、議員の退出を抱きとめて阻止したというような滑稽ごともあった。」の一文が曾我様節が出ていて笑いました。氷のようにシュッと刺してくる曾我様…。
山縣閥って言葉が当時の人から出てくるとなんだか感動します。
この地租改正論は、四将軍が全員一緒にではないですが、それぞれ活動をしているものであるので、また別途取りまとめてみたいなと思っています。

ところで、曾我様の、谷さんを評した

将軍は演説は上手にあらず、簡單にあらず、然れども敵味方双方をして、傾聽せしめたる所以のものは、其演説が、至誠七分、道理三分にして、言々句々、悉く肺腑より出でしが故なり。

という表現がすごく好きだなぁ、と思いました。
この一文で谷さんが良くわかる。
で、人柄に絡んで曾我様以外で一つ。

 

第八 清廉潔白の人(貴族院議員富田鐵之助)

子爵とは二十年來朝晩往復して居た、一口に云へば清廉潔白、まア古武士だね、光風霽月、竹を割つた様な極めて氣持の好い人で今の世には一寸類がない、其代り何うかすると誑され易い人だ、本を讀むのが道楽で、惡くなるまで始終本を見て居た、そして人が行く、話は直ぐ政治問題だ、子爵の頭には國家より外何物もうつらない、實に誠忠の士だ、其上友情に厚い、此七八日頃よく見舞に行つたが、三浦と曾我と私だけは歸しちや可かんと云つて止める、長くなると政治問題が出て意氣が昂るから、五分位で歸るやうにして居た、平素酒を少しやつたから、それが禍をなしたであらう、惜しい人だ。
(明治四四、四、一八萬朝)
※p1085

これは意訳なくても大丈夫かなと思うのですが、三浦と曾我様(と富田さん)を引き留めるあたり ウッ…(泣) ってなる。しかし、富田さんこれ、五分で帰るのが谷さんを気遣ってっていうより「話長いな…」って感じがして笑ってしまう。
そう思うと谷さんは鳥尾の話をいつもよく聴いてくれましたね、、、。

 

雑感

谷さんと鳥尾は、一緒に外遊をした後くらいから徐々に距離が空いていってしまい、谷さんが亡くなる時にはすでに鳥尾は故人となっていることから、遺稿に鳥尾が寄せた記事はありません。
私は、谷さんは鳥尾がなりたかった一つの「IF」の形を体現した人なんではないかと思うのですね。
言っていることを見ていると、やっぱりよく似ているなと思うのです。
勉強が好きで、理想論を詰めることが好きで、洋行した際の二人の日記を見ていてもきっと当時は本当に楽しかったのだろうと感じてしまうのですが、軍を退き権力を取り上げられたうえで、壁に当たったときの対応に二人の差が出てきてしまったな、と。

鳥尾は、自分の世界に入っていってしまったと思うのですよね。
統一学社の対応などをみているとそう感じてしまう。彼が他人と話すたびに意見を変える、っていう話をみても、彼は迷いながらその時信じた、自分が一番最善だと思ったほうに進んでいったのでしょう。

ところが、谷さんは、びっくりするくらい変わらないんです。
いや変わっているんだけど、ブレない。ブレないので、変わっていないな、って思われるし、遺稿に寄せられた人々の話を聞いてもそう思う。そうして、それでも彼の周りには人がいるし、伊藤のように政敵であっても変わらず親交を結ぶ人がいるのですよね。

これは妄想なのですが、私は妄想のなかでの鳥尾の気持ちがよくわかるので(私が妄想したのだからそうなのだけど)、その時に谷さんに噛みつきたくなる気持ちも、分かる~…と、最近資料をみていて切なくなってしまいます。
昔はそんなこと感じなかったのに、良くも悪くも、自分のなかで鳥尾という人物が徐々に分かってきたのかな、と思ったりしています。
昔はブイブイの田舎のヤンキー(地元の友達は好きだしお母さんはなんだかんだ言って大好き)みたいなイメージだったのに、今のイメージはちょっと尖がったバンドのメンバー(結成者だが組んだメンバーと徐々に方向性の違いからギスギスし始め、解散しては結成を繰り返しながら『俺の音楽は譲れない』みたいなこと言ってる)みたいな感じがしています。
なんかもっとカッコよい喩えをしたいしイメージに偏見が入り過ぎているけどこれがめちゃめちゃしっくりくる…。

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