鳥尾小弥太と四将軍3ー谷干城遺稿(3)ー

四将軍とは

四将軍とは、明治十年代に、山縣有朋を中心として政府中枢に力を持っていた陸軍主流派に反対する勢力となった、四人の将軍のことを指します。
メンバは、陸軍中将 谷干城、陸軍中将 三浦梧楼、陸軍少将 曽我祐準、そして陸軍中将 鳥尾小弥太で、この四将軍に関する逸話などを紹介していくカテゴリとなっています。

谷干城遺稿 附録第一編 逸事及逸話

前回に引き続き『谷干城遺稿』に収録されている、関係者が語った逸事および逸話のうち、曾我祐準の語ったものを主にご紹介します。前回の記事はこちら。

鳥尾小弥太と四将軍1ー谷干城遺稿(1)ー
・四将軍とは
・四将軍の簡単な紹介
・第十五 古い莫逆の友(三浦観樹将軍)
・その他の気になった部分 ※樺山資紀と平原海軍中佐の話を一部抜粋
鳥尾小弥太と四将軍2ー谷干城遺稿(2)ー・ 第三 嗚呼谷将軍(子爵曾我祐準)
・第三 嗚呼谷将軍(子爵曾我祐準)ー 意訳
・第三 嗚呼谷将軍(子爵曾我祐準)ー 雑感
・第八 清廉潔白の人(貴族院議員富田鐵之助)
・雑感

原文は以下で公開されています。

谷干城遺稿 下(島内登志衛 編/靖献社) ー 国立国会図書館デジタルライブラリー

『谷干城遺稿』の紹介はいったん終了となりますが、今回取り上げた曾我様の話が一番プライベートの谷さんを見れる、とても好きなお話です。


第十 友人としての谷子(曾我子爵)

谷子爵は漢學者で、書物を非常に好まれ、單に讀書するにのみならず之を骨董視して愛された、私が嘗て足利學校に子爵と参つた時、足利學校には漢文の古書が澤山ある、夫を子爵は那れは斯うである、是は得難きものであると、能く判分する程であつた、併し刀劍とか書畫骨董とかは殆ど念頭に無かつた、元来漢學仕込みで武人仕込みである處から、従て衣食住等にも薄かつた。
嗜好としては第一酒であつたが、決して多量に呑むのでは無い、所謂一杯を傾くれば即ち陶然として酔ふと云ふ方であつたが、發病以来禁酒し、人事不省になつてから、一度酒が欲しいと言はれたさうな。第二は煙草で是は十年前より廃されたが、議會へ出席する時は常に豫備莨入として、別に一個を持つて居た、夫で子爵が議會に於て此豫備の方を出すと、何れも『ソレ谷が豫備を出したから今日は長くなるぞ』と、言た位のものであつた。
子爵の早起は到底壮年も及ばぬ、毎朝四時半から五時には屹度起き出て、先づ新聞紙を讀むと云ふ風で、夜分は普通十時頃臥床するを例として居たが、何か調査する事でもある時は徹夜する、近年は常に眼が痛むと言つて居た、碁も時々行つたが笊の笊の下手碁であつた、子爵は晩年高知を距る約二里の三谷村に別荘を設けたが、其處には餘り住まはれなかつた。
子爵夫人は一切の家政を料理すると共に子爵に對する内助の功は實に大なるものであつたが、昨年死亡されたのは實に氣の毒な次第である、子爵の病氣を早からしめた原因は、先づ病中屡々議會に出席したり、伊藤公の葬儀等に出られたのは、健康の爲め餘り好くなかつたが、中にも夫人の死は子爵に取つて最も病氣を早からしめた大原因であつたらう。
伊藤内閣當時、子爵は官途に在るも或は又野に在るも、政治上其他國家問題發生毎に、常に必ず自分の意見を口頭又は書面を以て、伊藤公に發表したと云ふ事である、元来愛國心に富み、就中農民愛護に重を置き、地方農民の状況は、却々能く調べて居た。要するに子爵は實直にして、尚武の氣に富み、或は時世に不適視せられた事もあつたが、子爵は自らを欺くことを嫌ひ友として交際するに、年を経るに従って益々心地快き人であつた、誠に實直なる君子であつた。
(明治四四、四、一七、日本)
※p1086-1088

第十 友人としての谷子(曾我子爵)ー 意訳

谷子爵は漢学者で、書物を非常に好まれ、単に読書をするだけではなくこれを骨董品としても愛された。
私がかつて足利学校に子爵と参った時、足利学校には漢文の古文書がたくさんあったので、それを子爵は、「これはこういう書である、これは得難きものである」と、その価値を見極められていたほどであった。ただし、刀剣とか書画骨董とかはほとんど念頭になかった。元来漢学仕込みで武人仕込みであるところから、衣食住なども重視しておられなかった。

嗜好としては第一酒であったが、決して多量に呑むのではない。いわゆる一杯を傾ければすぐに陶然として酔うというほうであったが、体を悪くしてからは禁酒し、人事不省になってから一度、酒が欲しいと言われたそうだ。
第二は煙草で、これは十年前よりやめられたが、議会へ出席する時は常に予備煙草として別にもう一つ持っていた。それで子爵が議会においてこの予備のほうをだすと、いずれも「それ、谷が予備を出したから今日は長くなるぞ」と言ったくらいのものであった。

子爵の早起きは到底壮年も及ばない。毎朝四時半から五時には必ず起きて、まず新聞を読むというふうで、夜は普通十時頃に床に入るという生活をしていたが、何か調査することでもある時は徹夜した。
近年は常に目が痛むといっていた。碁も時々行ったが、ザルのザルの下手碁であった。
子爵は晩年、高知を距てる約8kmの三谷村に別荘を設けたが、そこにはあまり住まれなかった。

子爵夫人は一切の家事を行うとともに子爵に対する内助の功は実に大きいものがあったが、昨年亡くなられたのは実に気の毒な次第である。子爵の病気を早からしめた原因は、まず病中しばしば議会に出席したり、伊藤公の葬儀に出られたのは健康のためあまり良くなかったが、中でも婦人の死が最も大きな原因であろう。
伊藤内閣当時、子爵は官職にあるときも、職を辞したあとも、政治上そのほか国家問題が発生するたびに、常に自分の意見を口頭または書面をもって、伊藤公に伝えたということである。元来愛国心に富み、ことさら農民愛護に重きを置き、地方農民の状況は、なかなかよく調べておった。
要するに子爵は実直にして、尚武の気に富み、あるいは世の中には不適視されたこともあったが、子爵は自らを欺くことを嫌い、友として交際するに、年を経るにしたがってますます心地良い、誠に実直なる君子であった。


第十三 莫逆四十餘年(曾我子爵)

余が谷子と最後に面會せしは、本月四日にして當時左程重患といふ程にあらざりしも、子自身は既に死期の至るを知り、余に向ひ多年の厚意を謝し、且つ死後を宜しく頼むとの話なりしも、余は慰籍して歸りしが、十五日午後熱海より歸りて、同邸へ赴きし時は、既に人事不省なりと聞きしゆゑ、故と病床には赴かざりし、思ふに今回の病氣は老衰の結果とはいへ、子が常に友達に敦く、又愛國心に富める、病軀を推して時に伊藤公の葬儀に列し、時に最近にも帝國議會開院式に参列したるなど、又重患に陥れる原因なるべしと雖も、其最大の原因を爲すものは、糟糠の妻たる久満子夫人の逝去せられたるに基くものなるべし、孤影煢然として老の身を跡に殘されたる子の寂寞實に同情に堪へたり。余と谷子と相識りしは今より四十年前にして、最初は軍人として交際したるが、最近二十年間は政治上の交際と變じて、而かも亦最も親密に、余は常に子を師友として尊敬し、其指導を受けたり、谷子が軍人としての功績は謂ふ迄もなく彼の十年熊本籠城なり、此事たる今日より見れば左して大事件とも思はれざるも、其當時にありては王政維新の政創められて日尚浅く、又徴兵制度創設の當初にして、人心尚ほ徴兵の効果に疑を挟み居りたる時にて、此微力なる軍隊を率ゐて慓悍決死の薩摩隼人に對抗したる決心は、實に感嘆すべきものにして、若し此時熊本城にして落ちんか、或居は天下風を望んで薩軍に投じ、明治政府は轉覆せしならんも測り知るべからざりしとせば、其功績は特筆大書せざるべからず、余は當時士官學校校長なりしが、後ち旅團を率ゐて出征し、谷子の後を承けて熊本鎮臺司令官となりたり。議會開設の當初に於ける谷子の方針とせし處は、當時謳化主義旺盛の時勢に抗して勤儉尚武の氣象を養成すべしといふにありて、第二期議會に於て之を施政の方針に關する建議案として提出し、二度まで演壇に上りて熱心に其趣旨を述べたるが、不孝其議は成立せざりき、子が忠誠なる精神には伊藤公も特に敬意を拂ひたる如く、自ら内閣を組織したる時、農商務大臣の椅子を授くるに至りしが、其後辭職の已むを得ざるに至りしものに他に原因ありしも、慨して伊藤公の謳化主義と相容れざりし結果に外ならず、而かも公は當に谷子に信頼することに深く、随つて子は國務上方針に就ては、書面又は口頭を以て伊藤公に献策することを怠らざりし、尚ほ子は増税案に就ては、何れの内閣を問わず反對の態度を採りしが、是れ子が一般の國民殊に農民を愛する至情に出でたるものにして、其政費を節減して、農民の負擔を軽減すべしとは、氏が一生を通じて變らざるの主張なりし、世間往々子の保守的態度に就て批評を加ふるものあるも、是は子が漢籍の造詣あり、其素養より割り出したる意見にして、時に保守の見を免れあるものなきにあらざりしと雖も、余は寧ろ氏が忠誠謹厚にして衷心より國民の利福を増進せんとする精神を多とせんずんばあらず。子は當初より尚武論を主張せしも、爾後我國が二大戰役を経て軍備擴張をなすや、子は軍備素より可なりと雖も、過大の擴張は外列強の誤解を招くのみならず、内國民の負擔を増加するに至るを以つて、是れを適當の程度に止むべしと云ふの政治意見を有するに至りしが、余は二十年来地價修正其他二三の問題に就ては、意見を異にしたるも、概して子と同一の歩調を探りて今日に至れり、今や公私の交に於て最も親密なる子が重患に陥りて、回復の見込最早乏しからんとす、余たるもの焉んぞ惆悵痛惜なきを得んや。
(明治四四、四、一七時事)
※p1094-1096

第十三 莫逆四十餘年(曾我子爵)ー 意訳

私が谷子爵と最後に面会したのは、本月(※四月)四日にして、当時さほど悪いというほどではなかったが、子爵自身はすでに死期の至ったことを知り、私に向かって多年の厚意を謝し、かつ死後のことをよろしく頼むという話になった。私は慰安して帰ったが、十五日午後熱海より帰って、谷子爵の邸宅へ赴いた時には、すでに人事不省ときいたので、病床には行かなかった。
思うに今回の病気は老衰の結果とはいえ、子爵は常に友情に厚く、また愛国心に富める。それゆえに病躯をおして時に伊藤公の葬儀に列し、時に最近も帝国議会開院式に参列するなど、また病を重くした原因であろうといえども、その最大の原因は、糟糠の妻たる久満子夫人の逝去されたことにほかならない。独り残された子爵の寂しさは、実に同情した。

余と谷子爵が知り合ったのは今から四十年前で、最初は軍人として交流していたのだが、最近二十年は政治家としての交流へと変わり、しかも最も親密に、私は子爵を師友として尊敬し、その指導を受けた。
谷子爵の軍人としての功績はいうまでもなくかの明治十年熊本籠城である。このことは今日からみればさして大事件と思わわれないかもしれないが、その当時にあっては、王政維新の政府ができてまだ日が浅く、また徴兵制度ができたばかりということもあり、徴兵の効果に人々が疑念をもっていた頃であって、その微力な軍隊を率いて薩摩隼人に抵抗した決心は、実に感嘆すべきものである。もしこの時熊本城が落ちていたら、あるいは状況に屈して薩摩軍に投降していたら、明治政府は転覆していたかもしれないとすれば、その功績は特筆大書しないわけにはいかない。私は当時士官学校長であったが、のちに旅団(第四旅団)を率いて出征し、谷子爵のあとをうけて熊本鎮台司令官となった。

議会開設の当初における谷子爵の方針としては、当時欧化主義が盛んだった時勢に対して、勤倹尚武の気性を養成するべき、というふうであった。第二期議会においてこの施政の方針に関する建議案として提出し、二度演壇にのぼりて熱心にその趣旨を述べたが、その案は成立しなかった。
子爵の国家に対する忠義には伊藤公も特に敬意を払っており、自ら内閣を組織した際は、農商務大臣として椅子を用意したが、その後辞職に到ったのはほかにやむを得ない原因があったとはいえ、概して伊藤公の欧化主義と相容れなかったに他ならない。伊藤公は谷子爵への信頼が深く、したがって子爵は、国務上の方針については、書面または口頭をもって伊藤公に献策をすることを怠らなかった。
なお、子爵は増税案についてはいずれの内閣であっても反対の態度をとったが、これは子爵が特に農民を愛する情より出たものであって、その政費を節減して、農民の負担を軽減すべきとは、氏が一生を通じて変わらない主張であった。世間の人々は子爵の保守的態度について批評を加えたものもあったが、これは彼が漢籍の造詣があり、その素養より割り出した意見であって、保守とみえるところがないとは言い切れないが、むしろ国民の利益を増進しようとする精神が多いとみなさなければならない。
子爵は当初より尚武論を主張したが、その後我が国が二大戦争(日清、日露)を経て軍備拡張をすると、子爵は「軍備はもとより予算を取ることは仕方ないといえども、過大な拡張は列強の誤解を招くのみならず、国民の負担を増加させることになるので、適当なところで止めておかねばならない」という政治意見を有するにいたった。

私は二十年来、地租改正のほかニ、三の問題については意見を違えたが、概して子爵と同一の歩調を探って今日にいたったので、今や公私において最も親密なる子爵が重篤となり、回復の見込みがもはや乏しいとすると、実に残念で仕方がない。

 


雑感

曾我様のこの談話、取材元は違うのですが、同日の新聞に出ているので、おそらく聞き取った日も同日なのではないかと思います。(前回の朝日も四月十六日掲載なので、囲み取材したの?)
谷さんはこれからおよそ一月後、五月十三日にこの世を去りました。
ザル碁(曾我様的には『ザルのザルの下手碁』)だった谷さんと、鳥尾も碁を打ったことがあったんだろうな…としみじみしながら、死の間際で「酒をくれ…」っていうあたりが抗えない土佐の血を感じてしまいました。
会議が長丁場になると「こっから本気出すぜ」な感じで煙草ブレイクが入るの、サラリーマンあるあるだと思うのですが、コロナでリモートになってからは好き勝手吸えるし、出勤してもフロア喫煙所閉鎖されてそのまま禁煙化が凄まじいので、この感覚は過去の遺物になっていくのかなぁ…と思ったりします。

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