逸話鳥尾小弥太

鳥尾、年上に逆らえないの巻(田中光顕『維新風雲回顧録』より)

一個前の記事で、紹介していた岡柳の資料を誤って田中光顕としていた上に名前を誤字していたので、その誤っていたほうの田中さんの『維新風雲回顧録』から、鳥尾に関する話として「山縣有朋の憤怒」から一部抜粋して紹介します。
なお、この回顧、タイトルから何から突っ込みどころが多すぎて笑いが止まらない。
元資料は国デジで公開されています。

維新風雲回顧録(田中光顕/大日本雄弁会講談社) - 国立国会図書館デジタルライブラリー

ざっくりとした時勢と登場人物

時期としては1867年(慶應3年)の夏頃。
この年の5月に、鳥尾は山縣に付き添って、馬関より薩摩の伊集院金次郎、中村半次郎(のちの桐野利秋)とともに上京しています。当時長州は禁門の変、長州征伐を経て、まだ京都へのぼることが禁止されていたため、前年に締結した薩長同盟から薩摩の者にまぎれて京都へ入っていたのです。
なお、この年の4月には高杉が亡くなり、その葬儀を終えてから山縣と鳥尾は京へと出立しています。

山縣有朋(やまがた ありとも) : 当時29歳
生没年:1838年6月14日 – 1922年2月1日
長州藩士。松下村塾→奇兵隊出身。いわずと知れた第三(九)総理大臣。
高杉死去に伴いこの頃は実質諸隊のトップとして木戸さんに使われ始めている。

田中光顕(たなか みつあき):当時24歳
生没年:1843年11月16日 – 1939年3月28日
土佐藩士。土佐勤皇党出身。脱藩後高杉晋作に弟子入りし、その後中岡慎太郎の陸援隊の幹部として活躍。
長寿であったため、元老たちが亡くなったあとに結構好き勝手喋ってる感ある。

品川弥二郎(しながわ やじろう):当時24歳
生没年:1843年11月20日 – 1900年2月26日
長州藩士。松下村塾→御楯隊出身。この頃は木戸さんのサポート部隊的に働いている。
松下村塾では過激な奴らが多かったため、相対的に癒しキャラ的なイメージ(個人的)でいたのでこの逸話最初に見たときに笑った。

鳥尾小弥太(とりお こやた):当時19歳
生没年:1848年1月10日 – 1905年4月13日
長州藩士。奇兵隊出身。
父の教育もあり年上には基本的に逆らえないけど明治に入ってからの山縣に対する反抗期がすごい。

興膳五六郎
正直よくわかっていない。ググるといくつかHITしますが、自分で文献に目を通していないのでいったん謎にしておきます。
『興膳五六郎小伝』という1944年に発行された伝記があるみたいです。

 

本文

間もなく、伊藤は、長州へ戻り、入かはりに、山縣狂介(有朋公)が、鳥尾小彌太(後の子爵)とともに上洛した。やはり、薩摩屋敷に潜伏した。
何しろ、血気縦横の少壮家の集団故、元氣は素晴しいものだった。潜伏して居るのだが、そんなことも忘れて、屋敷ではよく酒をのんだ。肴は、めざし鰯だが、偶には町に出て、そこらにうろついてゐる犬を殺してきた。
これを料理して、肴にしたのが、先ず最上の御馳走だった。
何分、屋敷にばかり居るのは退屈でならない。

『何處へか押し出さうではないか』
『何處へゆくか』
『山鼻の茶屋へ行つて、飯でもくはうか』
『よからう』

相談がまとまつて、鳥尾小彌太、品川彌二郎、興膳五六郎、それに私を加へて、四人づれで出かけた。
山鼻の茶屋までゆくと、誰であったか。

『いつそ、比叡へ登らうぢやないか』

さう云ひ出した。
出先きで、ふいと、氣がかはつたのだ、よつて食事をすまし、興膳だけ、屋敷へかへした。

『吾々は、比叡へ登り、坂本へ下りて一泊してもどる、山県に心配せぬやうに云うてくれぬか』
『心得た』

興膳は、承知して、わかれた。何でも、夏の暑いさかりだつた。三人、下駄穿きで、山を登り出した迄はいゝが、汗は出る、息は喘む、喉はかわいてくる。大變な苦しみであつた。好い按排に、こん/\と清水の湧き出る處を見つけて、渇をいやし、勇を鼓して、又登り出した。
餘程、登つたところで、ふと、財布のないのに氣がついた。

『さア入変ぢや、財布がないと、宿屋にも泊れぬぞ』
『何處で落した』
『先刻の清水のところに、置き忘れたに違ひない』
『誰か取りに行つて来い』

三人、評議になつたが、誰も、又、元の場所迄もどるのは、欲しない。所で、品川と私とは同年だが鳥尾が私共より年少だつた。

『おぬし、年下だから、取つて来い』
『儂がか……』

鳥尾は渋い顔をして、何かぶつ/\云つて居つたが、結局年下といふ弱味がある。やむを得ず、財布をとりに、又、逆もどりをした。
鳥尾が置忘れた財布を持つてかへつたので、又、三人して、山を登りつめ、坂本へ向けて下りた。
馬場の播磨屋といふのに宿をとつた。薩摩辯を使つたら、薩摩人と思いこむに違いない、長州土州の浪人者と感づかれては危険であるといふので、私は、不馴の薩摩辯を濫發した。
だが、元より付焼刃は、すぐ現われる。宿屋の者に氣づかれたらしいが、それでも訴人丈はしなかつた。

『まアよかった』

翌朝、吻として、歸路についた。
途中、雨に會つて、びしょぬれになつたなり、屋敷へもどつた。
すると、山縣は烈火のやうになつて、ぷん/\してゐる。

『どうした譯か』

聞いて見ると、山縣の怒るのも無理はなかつた。

『君等は、無断で屋敷を飛び出したさへあるに、外泊してくるとは怪しからぬ、もう捕つて殺されたものだらうと、思つてゐた。お互、此の際は、自重しなくてはならぬ時ではないか』
『それはどうも、……そのことなら、與膳に伝言をたのんだ筈である』
『いや、何にも聞かぬ』
『これは、怪しからん、與膳は、どうしたのか』

今度は、吾々が興膳に迫ると、彼は笑つて居る。

『君は、なぜ、吾々の言傳を山縣にいうてくれなんだか』
『実は、儂も、外泊したので、その機會がなかつたのさ』

それで、委細判明して、果は、大笑になつた事などもあつた。
潜居中、山縣の詩がある。

断じて之を行えば、鬼神も避く。
満朝何事ぞ、総て逡巡。
区々海内、喧笑するに堪へたり。
借問す、京城、更に人有りやを。

時が時、此の詩に見えて居るような國歩艱難の場合、山縣が吾々に自重を忠告したのは當然なことである。のみならず幕吏は私共の行動を厳重に監視してゐた爲、出門寸歩、みな敵と見て差支へなかつた。そういふ事を承知してゐ乍ら、坂本迄遊山に出かけたのは、私共の方が、暢氣過ぎた譯である。
かうしているうちに、京都の風雲は、日一日と、濃度を加へて行つた。

(p354 – p359)

雑感

『儂がか……』

が、面白すぎて当時大爆笑しました。「…」の効果がすごいジワジワくる。
ぷんぷんしてる山縣も面白すぎるんですが(描写は田中だけど)、なんというかもう、こういうのを見ると昔の人も「人」なんだなぁと思って楽しいです。
いやしかし本当にどこを切り取ってもツッコミが止まらなくて、盛ってるかもしれないけど田中氏この回顧録残してくれてありがとうございます…と思います。

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