河本杜太郎は、天保12(1841)年に現在の新潟県十日町で生まれた志士です。
老中安藤信正を水戸藩士が中心となって襲撃した『阪下門外の変』で、その浪士の一人として参加した河本は、討ち取られ文久2(1862)年1月15日に亡くなりました。享年21歳(数え年22)。
彼は長州藩の久坂玄瑞と親交があったこともあり、幕末維新にハマった頃から彼に関する資料をちょっとずつ集めてきました。その中の一つを、彼の略歴と併せてご紹介です。
大昔のブログに書いていたものを転記してきたので、後日また加筆修正したいと思います。
河本杜太郎とは
河本杜太郎(かわもと とうたろう)※または「もりたろう」。正式な読み方は不詳です。
1841(天保12年)~1862(文久2年)1月15日
通称:正安(章庵)、惟一/諱:親忠、一/幼名:藤太郎/字:貫之/号:筑川/変名:豊原邦之助
河本杜太郎略歴
天保12(1841)年越後中魚沼郡十日町に生まれる。
父は謙作(柳玄)。母は津端氏出身。家は代々医者。
15歳の時、父が教諭の材料として河本に見せたという家系譜によると、その祖は平貞盛に出て、畠山氏となり、渋谷氏となって川嶋となった。この祖川嶋越前守維頼は、南北朝時代に新田氏に属し、新田義顕を助け、国事に倒れた上州の豪族であり、その後いつしか河本と名前が変わり、十日町に来て父謙作の代までの5代は、医をもって知られた家柄であったという。
16歳のとき医学修行のため江戸へのぼり、叔母(父の姉)の夫である尾台良作に師事し、その後、芳野金陵の門にも入った。この時期、伊庭軍平に剣術を習い、免状を与えられるまでの腕前になったが、医学修行での江戸遊学のため、辞退している。大橋訥庵の門に入ったのち、同志らと盟約し、西国巡歴ののち江戸に戻り、文久2(1862)年1月15日、坂下門外の変に参加。老中安藤信正の衛士と交戦するも、その場に倒れた。
河本杜太郎補足
河本の背は5尺1,2寸(約158cm)であったといい、全体において小柄な感じで、容貌は極めて穏和であったというが、その性格は少年期に郷里の子どもに『半狂』とまで言われた暴れん坊であった。
林子平、山県大弐、高山彦九郎、蒲生君平らを慕い、身なりにもあまり気を遣わず、何事に置いても淡泊だったというが、激烈な尊皇攘夷派であり、口飛沫を飛ばして雷の如く議論したという。
河本杜太郎と久坂玄瑞
長州の久坂玄瑞とは、芳野金陵での同門であり、盟友の交わりを結んでいる。
久坂は安政6(1859)年の4月7日に江戸に着き、その7月18日には京都に上ってしまったので、芳野の門下にいた期間というのは実に短いものであった。
その久坂との逸話が残っている。
文久元(1861)年頃、これより河本は京都へ行っていたが飽きたらず江戸へ戻り、再び芳野金陵の門に入っていた。しかし、この頃すでに志士的思想を頑なものとしていた河本は、たたでさえ「狂」とよばれていただけにもう周囲との調和がとれず、うまくいかない。
ある日、門下生たちと時事を論じているときカッとなって抜刀し、門下生に迫ったので芳野がこれを責めると、そのまま行方をくらましてしまったという。芳野は門下としての河本の籍を削り、また伯父である尾台(尾台と芳野は親友の関係)は自分を嫌っている、と感じた河本は、寄宿していたその尾台の家も去った。
しかし、生まれて初めて自力で生活などしたことがなかった河本には生きるすべがない。どうしたものかと考えて思いついたのが、郷里で人が作るのを見たことがある草履作りである。これなら俺にもできるだろう、と思って作ったのだが、いたずらに長い草履しかできない。当然買い手などつかず、皆に笑われて終わったので、ふてくされ堀の中へ投げ捨ててしまった。
途方に暮れていたそこへたまたま通りかかったのが、久坂玄瑞である。
久坂は帰藩していたのだが、この年の5月に幕府の軍艦操練所入学のため江戸に来ていた。久坂は、このふてくされた河本を不思議に思ってわけを訪ねた。河本も事情を説明する。
話を聞いて久坂は手をたたいて大笑いし、「そんな草履売れないだろう」と、桜田の長州藩邸に河本を連れて帰った。そして自分の食事を分けてやり、服を着せてやったという。
のちに麻布の久坂宅に移り住んだが、3月18日に河本はここを去り、再び京へ上った。
ただ漠然と厄介になっているのが忍びなかったのもあるが、志士としての活動をしたかったである。
しかしその後また江戸に戻り、7月には久坂のもとを訪れている。
その後ちょくちょく会いに来て、久坂の日記だけでも7月~9月の間に9回も訪れ、なかには1日に2回来たりしている。のち久坂は帰藩し、11月16日に河本はその萩の久坂を訪れて、松下村塾にて寺島忠三郎、堀真五郎とも時事を論じ、24日に去っている。
久坂玄瑞の日記(江月斎日乗)によると、彼が河本の死を知ったのは文久2(1862)年2月17日である。
同じく越後の志士本間精一郎が長州萩の久坂の元を訪問し、告げている。
「感涙に堪へぬ許りに有之候。併し確実に候や。他日の報相待事に候…」
河本の奮戦したであろう姿を思い浮かべて涙を流すも、
他日の報を聞くまでは信じることができない、といったところである。
河本は明治24(1891)年、靖国神社合祀され、同40(1907)年従五位を賜ったが、子どもがなかったため、姉の丸山多保子氏がかわりにこれを拝受した。
冒頭の写真は、それを記念して建てられた碑文であろうと思われる。
なお、内国博覧会は明治10(1877)年~明治36(1903)年の間に5回開催されており、河本が従五位を賜ったのちの写真であるならば少なくとも前面の木札の建立、および撮影は明治40(1907)年以降であろうと思われるが、後背の碑文の建立年度が不明のため、関連は不詳である。
墓は新潟県十日町来迎寺。その骨は東京小塚原に未だ埋まっているという。
雑感
ここから2021年の追記です。
このあたりの話に触れるの本当に10年ぶりくらいで、自分で読んでいてすごく懐かしくなりました。
河本さんのお墓は小塚原回向院(現在の東京都荒川区南千住)にありまして、一回目行った時普通の墓地のほう入ってしまって辿り着けず(あの入口におっきいお地蔵さんがいるところ…しかも夕方に行ってしまいちょっと怖かった…)、二回目に行って初めてお参りできたのですが、お墓の側面にお母さんの名前が書かれておりまして、「富(子)」さんというそうです。
私はそれを見たときに、久坂のお母さんの名前も「富子」さんなので、もしかしてそのあたりでも話が盛り上がって仲良くなったんじゃないかなー、などと思っていました。
***
完全に私事ですが、私が幕末にハマった受験生の歳は2004年でありまして、東京の大学でAOの面接を数日後に控えた時に新潟県中越地震が起きたのです。
高校は数日休みになったくらいで、友達のなかにはやはり家が半壊したりという子もいましたがとにかく命に別状はなく、良かったなという感じですが、そうなると新幹線も脱線し、高速道路もどうなるかということで、面接どうしようと思っていました。今はオンライン面接があるのでそれでなんとかなると思うので、インターネットというのはやはり偉大で素晴らしいインフラだなと思います。
結果的に道路の隆起はありますが高速バスが復旧したのでそれで東京まで行ったのですが(今思うとすごいありがとうインフラ整備の方々…)、十日町の一帯が青いビニールシートで覆われているところが多く、バスに乗っていた乗客のほとんどが立って窓の外を見ていました。
十日町、ときくと大地の芸術祭や縄文土器が有名ですが、私は受験だったということもあって、真っ先にあのバスでの出来事を思い出してしまいます。
当時、県は地震発生した10/23の翌日が、平山県知事の任期終了日ということでどったんばったんだったと後に知りました。闘牛で有名な山古志村の当時の村長で、のちに国会議員になり2017年に亡くなられた長島さんは、村長の任期が長かったことが幸いしてその中でうまく動くことができたと聞いています。
以前ちょろっと書いた伊藤さんの『先憂後楽』ではないけれど、歳をとったら偉いというわけではなく、「歳をとったのだから得てきたその経験を正しく活かす」という生き方を、小さくても自分もコツコツしていきたいなとしみじみ思いました。
大幅脱線してしまいましたが、十日町の碑文、まだ残っているのか分からないのですが、なるべく早いうちに現物を見に行ければなと思います。
参考文献
・北越草莽維新史 復刻版/田中惣五郎/柏書房/1980年10月22日
※現在、国デジで公開されています。
・阪下義擧録/澤本孟虎/阪下事件表彰會/昭和6年12月18日
※現在、国デジで公開されています。
・久坂玄瑞全集 復刻版/福本義亮編/マツノ書店/平成4年2月1日
コメント