少し前、大和魂辨妄という鳥尾の論文が掲載されている『日本大家論集 第八編』(明治21年4月25日/博文堂)という雑誌を購入しました。
仕事でなかなかゆっくり見る機会がなかったのですが、ようやく目を通しましたので、今回は大和魂辨妄の前に掲載されている「鳥尾小彌太君小傳」をご紹介。木戸さんの名前を出すとなんかすごい人に見えてくるマジックです。
本文
●鳥尾小彌太君小傳
古ヘヨリ俊傑ノ士有為ノ材ヲ抱キ而シテ之レヲ天下ニ施サズ脱然身ヲ佛ニ歸シ禪ニ逃ルヽ者往々ニシテ之レ有リ知ラザル者見テ以テ世ヲ憂ヒ國ヲ愛スルノ心無シト為ス抑モ亦惑ヘリト謂フ可シ今夫レ一藝ノ材、一枝ノ能ト雖モ苟モ天ノ與フル所ノ者アレバ人必ズ之レヲ其行事ニ施シ以テ其職ヲ盡クサント欲ス況ヤ所謂俊傑ノ士ハ其天ニ享クル所ノ者固ヨリ少小ニアラズ其責亦固ヨリ大ナリ誰レカ複タ淹退自棄シテ其材ト能トヲ抛ツニ忍ビンヤ蓋シ時ニ隆替アリ人ニ遇不遇アリ是レ古ヘヨリ俊傑ノ士往々時ノ不可ナルニ遭ヒ而シテ憂世ノ情自カラ禁ズル能ハズ遂ニ名ヲ佛ニ假リ禪ニ託スル所以ナリ然レドモ其假託スル者ハ固ヨリ一時ノ事ナリ豈ニ其終自カラ甘ズル所ナランヤ故ニ其物ニ觸レ事ニ感ジテ興ル所ノ英彩ハ常ニ自カラ掩ハント欲シテ而シテ能ハザル者アルナリ余輩謂フ鳥尾君ヲ以テ之レヲ證セン鳥尾君徳庵ト號ス小彌太ハ其通稱ナリ山口縣ノ人、舊萩藩ノ下士ヨリ出ヅ資性英邁ニシテ虚飾ヲ好マズ夙ニ尊王ノ志アリ幕府ノ専制ヲ憤リ同藩木戸孝允等ノ諸名士ト心ヲ協ヒ力ヲ戮(※管理人注:勠の誤り?)セ辛苦經營ノ中に王政ノ維新ヲ参賛シ遂ニ克ク邦家無前ノ業ヲ埀統セリ故ヲ以テ王家其勞ニ酬ヒ明治ノ初メ陸軍中将ニ任ジ従五位ニ叙ス後幾クモ無ク陸軍小輔ヲ兼子正五位ニ叙シ又議官ヲ兼任ス尋デ君更ラニ功ヲ以テ従従四位陸軍中将、兼陸軍大輔ニ累進セリ時ニ明治九年一月ナリ越テ十年 天皇西巡シテ駕ヲ西京ニ駐メ玉フ時ニ西陲事アリ國家将ニ多事ナラントス君及ツ勅ヲ奉ジテ行在所ニ到リ陸軍事務取扱ヲ命ゼラル既ニシテ賊勢猖獗軍務ノ急ナルヲ以テ衆議君ヲシテ親カラ戦地ニ臨ミ事ヲ處理セシム會マ君病アリ即チ籃輿ニ駕シ日夜兼行使命ヲ完フシテ還ル 天皇還御ノ後君猶ホ西京ニ留マリ征討軍務ヲ督シ措置其宜キヲ得人心悅服セリト云フ既ニシテ國難戡定シ君功ヲ以テ勳二等ニ叙セラル翌明治十一年九月君深ク自カラ心ニ感ズル所アリ決然表ヲ上ツリ骸骨ヲ乞フト雖ドモ朝廷其材ヲ惜ンデ聽サズ是ニ於テ君病ト稱シ飄然閑ヲ謂フテ熱海ニ遊ビ平生ノ所懐ヲ閑散風月ノ郷ニ洩タシ聊カ以テ自カラ慰ムル所アリ居ル數月京ニ還リ又屢バ官職ヲ辭スルト雖ドモ皆聽カレズ是レヨリ君竊カニ心ヲ禪學ニ注ギ十三年四月ヲ以テ又閑ヲ謂フテ痾ヲ大阪ノ天王寺ニ養ヒ日夕吟哦殆ンド物外ノ趣アリ既ニシテ世潮果テ穏カナラズ政論ノ黨各地ニ起リ人心洶々トシテ國歩又複タ艱ナラント君之レヲ觀テ感慨自カラ止ム能ハズ遂ニ誠ヲ布キ上陳セシ者其幾回ナルヲ知ラズ後召サレテ京ニ還リ統計院長ニ兼任セラレ尋デ従三位子爵ニ叙セラレ又幾クモナクシテ元老院議官ニ任ゼラル即チ現職ナリ君幼ヨリ學ヲ嗜ミ諸子百家ノ説一モ渉獵セザルハナク殊ニ禪學ニ精シク東洋哲學ノ蘊奥ヲ闡明セリト云フ著ハス所王法論、佛道本論、無神論、徳庵詩文等ノ書アリ最モ世ニ行ナハル抑モ近歳君ガ専ラ禪ヲ修メ輙モスレハ勇退ノ風アルヲ以テ俗眼ノ士ハ輕々見テ以テ棄世ノ人ト為シ甚シキハ維新以来君ガ王家ニ盡クシタルノ誠忠ト偉業ヲ果シテ如何ナルヲ知ラザル者アリ余輩操觚ノ者豈ニ之レガ為メニ辯ゼザルヲ得ンヤ近ゴロ又聞ク所アリ我元老院中愛國憂世ノ言ヲ為ス者アリ世人傳ヘテ以テ朝陽ノ鳳聲ト為ス而シテ其人ヲ誰レトカ為ス即チ亦鳥尾議官其人ニアラズヤ是ニ於テ余輩ガ前ニ所謂假託スル所ノ者ハ時ニ觸レテ英發シ掩ハント欲シテ能ハザル者アリトノ言果シテ倍ス其信ナルヲ知ルナリ及チ本傳ヲ作リ併セテ世ノ皮想者ノ惑ヲ解クト云フ※而シテの「シテ」は、原文は合略漢字表記(参考:合略漢字 – Wikipedia)
意訳
準備中
雑感
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