67回目の終戦の日。
竹島問題で緊張する日韓関係のしこりの原因ともいえる第二次世界大戦。半世紀も生きていない私はそんな戦争を知らない世代ですが、備忘録的に色々まとまってないけど思いつくままに書いてみました。
戦争と私
第二次世界大戦がなぜ起こったか、あの戦争はなんだったか、というのは、1時間程度の日本史の授業では到底教えられないし、理解できるわけないなと最近つくづく感じます。
私は祖父母が戦争経験世代ですが、思い返し見ても、彼らが終戦の日をはじめとして日常時に、「戦争中はなぁ…」とかいう話をしたことはありませんでしたから、余計に、戦争は遠い遠い昔の話…という印象。同時におそらく、私と同世代ないし下の世代は、同じような感じなのではないかと思います。
私自身は、歴史好きということもあって周囲の人よりは戦争を「知っているつもり」です。
でも、長い間私のなかで、私が「歴史」と認識しているものと、WW2というのは全然別次元で、なんというか、無意識にWW2を「歴史」と思うことに拒絶反応を示していたような気がします。
小学時代
小学校の頃、学校の図書室が大好きでよく本を読んでいましたが、ここで何回も借りた絵本があります。
「おきなわ 島のこえ―ヌチドゥタカラ」と、「ひろしまのピカ」です。今回紹介するためにググって久々に表紙をみましたが、あぁ懐かしいなぁと思うと同時に、この年になってもやっぱり「怖い」と思ってしまう。
おきなわのこえ、は沖縄戦の民間人を、ひろしまのピカは広島の原爆の日を描いたお話です。
これを小学校の低学年で読みふけっていたせいだと思うのですが、「戦争」というものに対する興味というか好奇心というか、それはとってもありました。「はだしのゲン」もそのひとつ。
何年か前、一晩テレビドラマで実写化されましたが、アニメのほうがとてもリアルです。
とにかく興味があったのですが、色々本を読んでもテレビをみても、なぜかおじいちゃんやおばあちゃん自身に「戦争ってどうだったの?」って聞く気になれなかったんですね。今考えてみても不思議です。
やっぱり無意識に、戦争は「遠いところ」の出来事であって、自分の身近な人から話をきいて「現実」として捉えるのが怖かったんだと思います。
小学校高学年の頃、学校の祖父母参観の一環で、「地域の年寄りから昭和時代(戦争含)の話を聞きましょう」という授業が学年であって、レポート用紙を渡されて祖父母に事前に話をきく機会を作ってもらえました。多分あの授業がなかったらこの年になるまでずっと聞かずに終わっていたと思います…。
当日は、来てくれたお年寄り1人を一班6人くらいでそれぞれ囲んで、お話を聞きました。おばあちゃんたちが多かったので、必然的に「男たちがいなかった暮らし」な話に。
働き手である男たちが出兵してしまった関係で、当時は女子供、お年寄りばっかりだったそうで、雪かきや電車の運転まで女性たちが行っていたとか。色んな人に話をきくなかで、だいたい出てくる話が「長岡空襲」でした。
長岡市における戦災の状況(新潟県)– 一般戦災ホームページ(総務省)
うちの父方のおばあちゃんは、当時長岡の工場で働いていたそうで、たまたま夏休みで地元(上越地方)に帰ってきていたそうです。この日の夜、赤々と燃える長岡の空が、上越からもはっきり見えたということで…今でも柏崎の原発ですら遠くにピカピカ見えるくらいだというのに、この空襲がいかに激しかったかを思わされます。
そういえば、こういう授業があった一環として、この長岡空襲の話が先生からあったような。8月9日の長崎の原爆。実はこれは「長岡」のはずだった…という話があり、「新潟にも原爆が落ちていたかもしれなかった。だから新潟も戦争の歴史をちゃんと学ぶ必要がある」というようなことを言われたような気がします。
中学時代
中学校では、興味のある授業をとりましょう的なコマがあり、その一時間だけ五教科の中から好きなものを選択して勉強できる時間がありました。私は「日本史 発展」というのをとりました(日本史基礎は受験対策的な感じ…)
なにしていたかというと、座学はほとんどなくて、先生が借りてくる戦争ビデオを視聴覚室で1時間見るのが恒例。人数が全然いなかった…でもこれがまた楽しかったのです。
おかげで「映像の20世紀」や「太平洋戦争」のドキュメンタリーはこの一年でほぼ見れました。
沖縄戦で火炎放射器で焼かれる防空壕や、銃弾に倒れて転げ落ちてくる人形のような人々など、時々目を覆いたくなるような映像もたくさんありました。
高校時代
高校では、修学旅行で知覧の特攻基地に行ってきました。中学で一緒にビデオ見ていた子が同じ高校にいたこともあり、「君を忘れない」とかを見てたこともあって「知覧!!知覧!!」と行くまですごいミーハーな盛りあがり方してたのですが、行ったらなんというか、もう、しゅん…となりました…。
辞世の句とかがかっこよすぎて(こうとしか表現できない)、同じ日本人なのかしらとか、自分たちと対して変わらない年なのにとか、とにかくもう、しゅんとした…。
知覧特攻平和会館 ー 公式HP
しかしそこはJK。見学後に食べた紫芋ソフトがおいしくて元気でました。
個人的に、特攻隊の人たちの愛用物とかが色々展示してあるなかで、びっしり数学の公式や図形が書かれたノートが衝撃だった。なんというか、歴史好きといいつつも、「昔」は「昔」。マルクス主義よろしくなのか、どうも「昔よりも今の人のほうが優秀」という意識があったので、ほんとすごい衝撃だった。「昔々」が一気に自分が生きている世界線に本当に存在していたんだな、と。
そりゃ飛行機(しかも考えてみたらオールマニュアル運転)とばすんだもの、頭いいにきまってるわな…。
戦争(特攻)映画は「月光の夏」が一番リアルなような気がします。「俺は、君のためにこそ死ににいく」が石原都知事監督なことをつい最近知りました…なんか宣伝全然見てなかった…。
あとサヨクサヨクたたかれてますが、個人的には「ホタル」が好きだったりします。で、一番泣いた戦争映画は「ラストゲーム 最後の早慶戦」だったりする。開始20分くらいからずっと号泣していた思い出…。
そんな教育を受けていました。
戦争を知らない世代、戦争を知る最後の世代
以前、負傷兵のこんな話をきいたことがあります。
その兵士は出兵後負傷して、片足がなくなってしまいました。戦後杖をついてあるいていたところ、知らない親子連れとすれ違い、子どもが、「お母さん、なんであの人は足がないの?」と言いました。負傷兵は慣れていたのでそのまま通り過ぎようとしましたが、お母さんが「悪いことしたからなくなったのよ。あなたも悪いことをすると足がなくなっちゃうわよ」と言ったのを聞き、カッとなった…みたいな。結構よくきく有名な話かもしれません。
戦争を知らない世代の私ですが、同時に、戦争を体験した世代の話を直に聞く、最後の世代でもあるんだろうなぁと思います。
私の生まれ育ったまちにも、負傷兵さんは結構いました。おじいちゃんの茶飲み友達だったり、友達のおじいちゃんが足がなかったりして、みんなで見ていいものか、でも気になっちゃう、というソワソワした子ども心を抱いたことがあるので、上のお話の子どもの気持ちは分かります。私たちも友達に「どうして足がないの?」と聞いたことがあり、「戦争にいって爆弾があたったらしい」ということを聞き、怖いなぁ、かわいそうだなぁと素直に感じました。
シベリアから帰還したおじいちゃんを持つ子の家には、それを慰安する賞状が飾ってあったりもしました。当時は分からなかったので、「ロシアに行ったことがあるんだ…」くらいの感想しかもっていなかった。
大学生の頃、四国へ調査に行ったことがあります。
そこで聞き取りにいってこいと言われたお宅のおじいちゃんが、ちょっと気難しそうな人でしたが、お部屋にたくさんWW2の本が置いてあり、「おお、右っぽい人なのかしら…」と感じつつ、話を伺っていると、どうも彼が手を気にしているような気がして、ちょっと気になってチラッとみてしまったところ、指が一本ありませんでした。癖なのか、それとも私たちに気づかせまいとしているのか分かりませんが(みんな気づいてなかったし、多分、ちゃんと見なければ私もずっと気づかなかったと思う。
おじいちゃんの茶飲み友達のおじいちゃんも、指が2本ほどありませんでした。保育園に通うくらいだった私は、それはもう無邪気に「おじいちゃん、指どうしてないの?」ときいたところ、おじいちゃんはニコニコして、「大砲で吹っ飛ばされちゃったんだなぁ」というので、「痛くないの?」ときくと、「全然痛くないよ」とニコニコして手を差し出してくれたので、その手をとってジッと見せてもらったことがあるのだけれど、きっと色々なものが痛かったんだろうなと今更思います。
四国で出会ったおじいさんは、その痛さと戦ってきたんだろうなと思いました。戦争を経験した世代も、「なぜあの戦争が起こったのか」「なぜ負けたのか」ということについて、ちゃんと知っているとはいえません。彼はそれを調べているんだろうと思いました。自分が感じた「痛み」を生んだあの戦争はいったいなんだったのか、と。
そんな姿を実際にみることができるのも、私たちが最後なのかもしれません。
だとしたら、私たちはよりそれを次の世代へちゃんと繋いでいかないといけないのかなと思います。
アジアと日本
以前私は「日本が悪いことした」史観の持ち主でした。
原爆も沖縄戦も東京大空襲も、「悪いこと」をしてしまった日本が受けるのはしょうがないのかもしれない…と思っていました(亡くなった民間人の方はもちろん悪いはずがないというか被害者以外の何者でもないと思うけど)。
今も若干思うところはあるかもしれません。ただその後、幕末維新期にハマり、明治時代を経て、大正、昭和と日本の姿を追っていくと、なんだか全然違うというか、「日本が悪いことした」史観では絶対おさまらないようになってくる。よく言われる、「学校で習ってたことと全然違う!」ってことがいっぱいでてくる。
基本的なことで、突然WW2という事象が勃発したのではなく、そこにいたるまでのざまざまな事象の「連続」、積み重ねによる結果がWW2だということを、ずっと見失っていたんですね。(そしてWW2の結果、多くのアジアの国が列強支配から独立したという事実)
学生時代のバイト先には留学生が多くて、仲良くなってはこのへんのことを聞いていたのですが、なかなか面白かったです。
韓国の留学生との話(ちょうど反日が盛り上がっていた頃)
台湾出身で日本人とご結婚された方との話
中国の留学生との話
彼とシフト組むとずっと戦国講義みたいになっていた…
中韓ハーフ留学生の子との話
南京大虐殺とかは当時の南京の人口上ありえないですが、戦争だもの、虐殺は全くなかったわけではないでしょう。引き上げてきた日本人の証言でもあるとおり、それは事実だ。
きょう終戦記念日:医学生の東野さん「九大生体解剖事件」目撃 捕虜の米兵に海水注入/「戦争は人を狂わせる」
※リンク切れのため、リンク解除
「海と毒薬」にもこんなような話なかったでしたっけね…。
色々ありましたが、最後の中韓ハーフの子が言っていた、「結局は、日本人と中国、韓国人一人一人が向き合って話し合っていくしかないと思う」という言葉が、私は一番しっくりきました。
私は日本人として日本が大東亜戦争に突入したのは止む無いし、日本人を誇りだと思うけど、戦争はいけないし、他国民に傷跡を残したのも確かだと思う。傷を引っかきあうのではなく、お互いの傷を認めていくためには、絶対的に人と人との対話が不可欠なんだろうなと。
韓国大統領の発言を、ギャーギャー言う人もいれば、まるで無視というか関係ないし~♪っていう人もいる二極化がなんか怖いなぁ。民族としての、精神的な「自衛」をするために、まずは自分の国の歴史をちゃんと知ることが先決だと思うのです。
精神的な「自衛」ができれば、歴史の曲がり角に立ったとき、たくさんの人が危険を感じて正しい方向へ持っていけるはずなんだ。「反日」に対抗できる日本の軸が、多くの国民に今あるのかがちょっと不安。
「君の祖国は、日本と呼ばれる」は、二百三高地の予告で登場するフレーズ。
折々、なにか心が動かされそうになるとき、美しい日本を感じたとき、私はこのフレーズが頭をよぎります。
よく日本の話をしていると「右翼ww」と冗談で言われることはあるんですが、逆にいうと、日本の話を全然していなくても、心は右翼というか、「日本人」としての誇りを持っている人だっていっぱいいると思うんですね。
二百三高地の古賀のようにロシア文学に傾倒していたって、マダム鳥尾のように朝食はクロワッサンと紅茶しか食べませんな西洋文化万歳であったって、「日本人」としての誇りを持てる。
戦前戦後を生きていた人たちは、無意識にそんな「軸」がちゃんと備わっていたんだなぁと、色々話をきいたり自伝を読むたびに思います。
まさかこの記事を書いてから2年後にDVDが復刻され、劇場再上映も一部地域でされ、Amazon Primeに入る日が来るとは思いませんでした…。めちゃめちゃ良い映画です。
なお二百三高地の私的好きポイントは下記に書いております。
映画「永遠の0」を観たので感想とつれづれ。
おじいちゃんと私
<終戦記念日>不戦誓い兄の遺骨捜し 遺族代表・下條さん ※リンク切れのためリンク解除
こういう人がたくさんいたんだろうなぁ。
私のおじいちゃんも、お兄さんがいましたが、戦死したので次男坊であるおじいちゃんが家を継ぎました。お墓には、上海の海軍病院で病死した旨が書いてありますが、遺骨はありません。
「本当に病死したのかも分からない。箱に紙が入ってくるだけで、骨もないんだから」と父と母がこぼしていました。
おじいちゃんはというと、目が悪かったので戦闘兵ではなく、飛行機の整備をしていたそうです。
最近、その当時のアルバムを譲り受けたのですが、上官の写真がいっぱい貼ってあって、なんというかブロマイドなの?wでも本当につい最近で、小学校のときの戦争聞き取りもふくめて、ずーっとおじいちゃんからは戦争の話を聞いたことがなかったんです。
私が聞き取らねば次のわが家系の子どもは知ることができなくなってしまうので、これだけは責任もってやろうと思ってます。
いつかこのアルバムに納めれているおじいちゃんの友達の写真とかも、遺族のもとへ届けられたらいいのになぁ。
立川航空工廠技能者養成所 第一回卒業式 会食風景
なんかおにぎりみたいなやつが…
もう一人のおじいちゃん(母方)はもう数年前に他界してしまったのですが、こっちのおじいちゃんは戦闘兵。
お母さんいわく、「そういえば、おじいちゃん腕に銃痕があったなぁ」とのこと。戦地にいって帰ってきてからお母さんたち姉妹が産まれたので、おばあちゃんは高齢出産になってしまったんだとか…。
母方の祖父母は会うのが少なかったんですが、古いおうちで、広い仏間に行くといつも家族の遺影と、昭和天皇、皇后陛下の写真が飾られていたのが子どもながらに威圧感があって怖かったです。戦争でなくなった方がいるお宅の仏間って、陛下のお写真かざってるとこ多いような気がするな。
戦争云々いってきましたが、とにもかくにも、たくさんの尊い命がなくなり、たくさんの悲しさ、悔しさを生じさせてしまった戦争。戦争のない今の日本で、今を一生懸命生きるのが一番大事なことだろうな。
おきなわのこえ で、おばあちゃんが逃げられなくなってしまうんですが、おばあちゃんは家族に「逃げて」と、自分を置いていくように言います。生きていてこそ、「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」と。
去年の震災後も感じたけれど、本当に「生かされている命に感謝」しなくてはいけませんね。
読み返すとほんとに全然まとまってない覚書…。
コメント
おはようございますー!涼です。もう名前変え過ぎてどれで名乗ったらいいのか分からなくなりましたすみません(笑)戦争に関するブログの記事、すごい力作
!と思いながら申し訳ございません、コメントはそちらに言及するのではなくブクログ!ゆうさんはどんな本を読んでいるんだろうと気になって、けど全部見るのは多すぎたので感想のある本のラインナップだけ拝見させていただいたのですが、日本史関係のを除くと自分とかぶっていたのが安野モヨコ(美人画報)とマツコだけでした(笑)あたりまえですが、世の中に本はたくさんありますねー。けどかぶっているのは少なかったですけど、ゆうさんの読書をのぞくだけでも楽しかったです!またおじゃまします!
涼さんこんにちは!コメントありがとうございます^^
私は涼さんが一番しっくりきていたりしますww
かぶっていたのが安野さんとマツコだけ…がなんだかツボでディスプレイみながら笑ってしまいました(笑)
ほんとたくさんありますよねー。日本史ですら、涼さんに以前たくさん本お借りした際も、読んだことない本がいっぱいで!みんな似たようなことに興味があっても、たどり着く本が違うんだなーと思ったらすごく面白かったです。
一回大勢で図書館とか行ってみたいですよね。絶対全員行くコーナーは一緒でも、立ち読みする場所が違いそうw
日本史以外って実はあんまり買わずに人から借りたり図書館で読んで終わりが多くて…でも結局読むジャンルとかいつも一緒なので、ほんとはもっと色々冒険してみたいんですよね。。。なにかお勧めあったら教えてくださーい!マツコ系統は大好きです!(笑)
私もおじゃまさせていただきますね^^(というか日々お邪魔してます…w)
コメントありがとうございましたー!