著作鳥尾小弥太

【鳥尾小弥太】兒戀草006

概要

本文

富貴と稱し。貧賤と呼ぶも。富者必ずしも貴からず。貧者必ずしも賤しからず。元来貧富は。只財の多寡を言ふのみ。貴賤の如きは。徳と位によりて稱せらる。其位に人爵天爵の別あり。特に長幼の分。君子小人の別あり。故に朝廷には位を尚び。郷黨には齒を尚ぶ。貧富を以て禮を定め序を立つると。古今曾てあることなし。後世人の徳衰へ。一向ら華を競ひ。奢を好み。貪欲の心日に増長して。上下滔々其天分を知らず。是を以て世家の族も。貧を憂へて自ら卑しみ。偏に利得を計りて。賤業汚職を嫌はず。家風を下し。祖先を辱しめ。人間にまた羞耻の事あるを知らず。如此の惡俗頽風は。獨り婦人の過ちにあらずといへども。其従来する所を窮むれば。乃ち十中の八九は。婦人の徳行これが原因となるなり。今擧げつらひて言へば。

祖先の徳を思はざる事
家系を重んぜざる事
禮義の正しからざる事
家庭を不潔にする事
倹約を守らざる事
萬物は一家に備はるを知らず。却て門外を望みて他を羨む事。

此等は通途女性の拙き心様なり。此心様を以て一家内を取りまかなひ行かば。其子孫はいふに及ばず。たとひ一見識ある士夫といへども。浸潤の餘り漸く賤劣の心を生じて。士君子たるの行を失ふに至るべし。孟子曰行之而不著焉。習矣而不察焉。終身由之而不知其道者衆也と。日に三省して行の正しからぬは之を改め。習のよからぬは之を改め。自ら其道を撰びて之に由るべき事なり。

意訳

富貴と称し、貧賤と呼ぶけれども、富んでいる者が必ずしも貴いということはなく、貧しい者も必ずしも賤しいわけではない。元々貧富というのは、ただ財が多いか少ないかをいったものである。
貴賤というものは徳と位によって称される。《位》には、人爵(人、すなわち政府より与えられる爵位)と天爵という二つがある。ゆえに、朝廷は位を尊び、生まれ育った土地では年齢を尊ぶのだ。富んでいるか貧しいかをもって礼を定め序列を立てるということは、これまで無い。

後世、人の徳が衰えて、もっぱら華美を競い、贅沢を好み、貪欲な心が日に日に大きくなって、物事のあるべき形を知らず、これをもって歴史のある家柄であったとしても貧しいことを憂いて自らを卑しみ、自分の利益のために賤業汚職を厭わず、家風を下げ祖先を辱しめ、人として恥ずべきことなのだということを知らない。
これらの悪俗頽風は、ひとり婦人に限った過ちではないといっても、今までの話からみれば、十中八九は婦人の行いが原因になっているだろう。
今あげてみれば、

祖先の徳を思わないこと
家系を重んじないこと
礼儀の正しくないこと
家庭を不潔にすること
倹約をしないこと
全てのことは自分の家にあるべきことを知らず、世間をみて他家を羨むこと

これらは通常女性の拙い心の様である。このような気持ちで家庭を取りまかなっていけば、その子や孫は言うに及ばず、たとえ見識のある夫であったとしても徐々に賤しい心が生まれて、士君子たる振る舞いを失うことになる。

孟子が言われるには、仁義の通ったことを行いながら、はっきりと自覚をせず、仁義について学びながらきちんと理解もできず、仁義に頼って生きながらその道について知らない者がとても多い、と。
毎日我が身を省みて、正しい行いができなった時はこれを改め、善くない習慣があればそれも改め、自分で善い道を選んで、このような人々のように生きていくべきである。

参考

記事作成にあたり、下記のサイト、ブログを参照させていただきました。
我読孟子 - http://sorai.s502.xrea.com/website/mencius/mencius13-05.html

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