幕末維新歴史ネタ

20210506(閑話休題の明治陸軍雑談)

この連休は暇さえあれば文字起こしをしていたのですが、足掛け3年掛かった『恵の露』がようやく全部活字化できました~。

だいたい夜中にちょっとずつ起こしているのですが、とにかく資料に触れにくかった環境で育ったので、インターネット上で活字なったものがあるというのが自分自身でめちゃめちゃ嬉しいのです…。自己満足の塊…。

 

谷さん遺稿の曾我様分も起こし終わったので、意訳を書けたら後日アップしたいと思います。
楽しい~。自分で作ったんだけども、タグに『四将軍』が出来ているのめっちゃ嬉しい~。

しかし、陸奥とのやり取りが本当に好きで好きで、起こしながら感極まって何度も涙を流してしまいました。
私は鳥尾の、「君と余は、二十餘年の交友である故に余は頗る君の流儀を知悉す。君の流儀は、第一みづから用ふるの位置を得て、一向ら國家に功を立てやうと云ふ希望である。」という一文がすごくすごく好きで、これは実は、鳥尾自身の流儀ともいえるんじゃないかと思うのです。俺と陸奥は全然違うと何度も強調する通り、二人はその目指す方向への進み方が異なっていると思うのですが、似てるなぁと思うのですね…。陸奥は鳥尾のことあんまり好きじゃないかもしれない…とちょっと思うけど、なんかお互いが「あいつだからいいだろ」的な良い距離感を感じます。

陸奥は海援隊出身ということもあり、「弱きを助け世を変えるには現実的な政策と金がいる」って感じの、ビジネスマン的空気を感じるのですが、鳥尾は、その「弱気を助け世を変える」っていう部分だけのきれいごとを押し通したい、って感じなんですよね。
極端にいうと、陸奥は資本主義で、鳥尾は共産主義に近いものを理想として掲げているのです。知らんけど。
私は正直陸奥に近い思想です。絵にかいた餅はきれいであるけれど食えなくて飢えてしまうので、どうしたらたくさん餅を作ることができるのか、という検討と実践をしていかないと意味がないと思っているのですが、鳥尾の言っていることとやっていることも分かるのです。なので、この陸奥との会話は行間に色々な感情を妄想してしまいます。
またちまちま意訳と解説を作っていこうと思います。

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ところで、恵の露と谷さん遺稿をまとめてながら久々に周辺資料を読み返していたら、やっぱり面白いなぁと思ったし、先行研究ありがてぇ…としみじみ思いました。
鳥尾については真辺先生でトドメを刺された人間なので真辺先生には足を向けて眠れぬ…という感じなのですが、他にも素敵な論文がいっぱいあってお世話になったのです。

恵の露の意訳作成時にはこの辺りを紹介させていただきたい。。。

・鳥尾小弥太における政府批判の形成/真辺将之/『日本歴史』2003年2月号(第657号)/2003年
・近代国家形成期における伝統思想/真辺将之/早稲田大学大学院文学研究化紀要(47-4)/2001年
・「禅と日本文化」という図式の先蹤-伊達自得と鳥尾得庵の活動-/石井公成/駒沢大学禅研究所年報第15号/2003年12月
・いわゆる「月曜会事件」の実相について/村瀬信一/日本歴史384号/1980年5月
・三浦梧楼関係文書 明治史料第八集/山本四郎/明治史料研究連絡会/1960年10月25日

で、谷さん遺稿を見ていた時に、谷さんが幽霊で震え上がったのいつだったかな…と洋行日記見直していたら、明治十九(1886)年十月十二日だった。
別途また別の記事にまとめ直しますがメモ。

八時頃鳥尾氏の室に到り幽霊化物談あり孔子の教に戻る甚し亦一興なり
※洋行日記 第七章 (谷干城遺稿 上 p568)

怪談話をしたあとに気を抜くとすぐ孔子とかの話になるの忙しすぎる。
鳥尾は洋行日記を往路分しか書いてくれておらず(書いたのかもしれないけど残っていない)、欧州についたあとの動きが鳥尾側資料だと全く分からないのですが、谷さんが細かく残しておいてくれているのでとても有難い…。
この頃、まだ谷さんとギスギスしていないし寧ろ懐きまくっていて、谷さんと一緒に散歩しすぎだし部屋を行き来し過ぎだし何より喋り過ぎてる感あって、「今日も鳥尾が議論盛んでした」って書いてくれてる日が多々あって 鳥 尾 … ! !

あと同年の9月1日に「曾我さんから手紙来たよ」って書いて、同月21日に

昨日巴里より達する報に依れば三浦氏は熊本に曾我氏は士官學校に堀江氏は地方の鎮臺に転じたるが如し
※洋行日記 第七章 (谷干城遺稿 上 p559)

ってあって、これはあの三浦のサーベルばきばき事件の時の話だな…とすごい今更時系列繋がりました。
※下記の一番下に抜粋してきていますが、「観樹将軍回顧録」の「陸軍改革衝突事情」のやつです。

そうなんだよなぁ…この時谷さんも鳥尾も日本にいなかったんだよなぁ…と思うと、ばきばきのシーンがより切なく感じます。
ここに登場しているのが山田(顕義)なんですが、私陸軍での当初推しが山田だったので、山田から入ってきて観樹将軍回顧録を読んで、三浦に進んだのですごくこの話好きなんですよね。。。
松下村塾出身で、れっきとした武士階級出身だった山田は、大村益次郎の流れを汲んで陸軍の中枢メンバとして活躍していく…と思われたのですが、明治6年(1873年)9月に、国民へ教育が行き届いておらず時期尚早である、と、山県有朋が主導した徴兵制に反対した『兵は凶器なり』で始まる例の建白書を出したりと、方針の違いから弾かれていってしまうのです。
で、この建白書を出した9月の時点で、山田は東京鎮台司令長官の職についていました。
この、山田の前任者が、三浦なのですねぇ…私はこの流れがめちゃめちゃめちゃめちゃ好きで好きで…。

山田の東京鎮台司令長官就任は、明治6年(1873年)7月7日で、この年の11月までとなってます。(その後はお察しの左遷人事)
先にあげた『三浦梧楼関係文書 明治史料第八集』(著者の山本さんは三浦の遠縁で、本冊子は全編手書きという愛の塊になっている)では、三浦の東京鎮台司令長官在任期間は、明治4年(1871)12月14日~明治6年7月7日。7月8日は、第三局長兼造幣局司分課、となっています。
これ十年以上前に、木戸さんのファンサイト様で、三浦が、「木戸さんが、山田が干されてて可哀想だから職譲ってあげてほしいって言われたから譲った」って言ってたみたいな話が紹介されていて、まぁでも三浦だから分からないね(盛っているかもしれない)という感想を述べられていたんですけど、ちょうど関係文書見た時期だったので、これでは…!?って思って木戸さんファンサイトだって言っているのに「こ、この資料のこれではないでしょうか…」ってメールフォームから送ってお返事貰った思い出…(とてもお優しいお返事を貰いました。今思い返すと穴に入りたいくらい恥ずかしい本当に反省している)

大人になって、かつサラリーになったからよりわかる。
意見書とか稟議書とか出す時、基本、平が出しても影響力無いんですよね…。何かしらの役職についていないと、取り合ってもらえない…。役職付いたあとの要望の通りやすさよ…(そんなことない会社もあるし寧ろ昨今そっちのほうが多い気がする)
なので、『兵は凶器なり』の建白書は、 陸軍少将だけではなくて、東京鎮台司令長官の立場で出すことによりインパクトがでかくなったんだろうな、と。東京鎮台を三浦が任されていたのがまさにそれで、変な話、226を想像するように、陸軍省の御膝元の鎮台の兵を動かせる立場というのは陸軍にとっては信頼ができる人でないと危険だと思うのです。仲良いとか悪いとかそういう話ではなく…。
長くなったのでこれも今度ちゃんと整理して一個記事にしたいです。
この、まだ三傑が存命していて各派閥のいろんなバランスが繊細だった頃は、当時を生きろっていうのは嫌だけど、客観的にみる分にはやっぱり面白いです…。ファンサイト様復活されないかな…。

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気づけば、このブログも(空いている時期もありますが、)十年越えたのだと思うとちょっと感慨深いです。
私はインターネットは、個人でやる場合は性善説に基づいて匿名性であるがゆえにしがらみなく書けるところがいいなぁと思っているので、私生活がどんなになっていてもここでは好きなだけ好きな話をしたいし、誰かに配慮するのではなくて自分が好きだと思うものを好きな時に好きなだけ並べていきたい、、、とやってきたので、それが長く書けている理由なのかもしれないと思いました。
そんなわけでこの十年、リアルに交流をしている知り合いにはこのブログは一切教えていなかったのですが、さすがに大人になってきて割り切れてきたことと、昨年から何度か死にかけの生活を送って、「万が一があったときに誰かにサーバ契約をメンテしてもらないと消える可能性ある…」としみじみ思ったので、今年に入ってから始めて何名かの身内や友達に教えてみました。
基本歴史以外のジャンルに興味のある人達なので内容特になにも言われないので、今後も変わらず書いていくと思います。

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